第4話 あなたと決めたいことがある
婚約が正式に発表されてから、エルヴァルト公爵家には毎日のように祝いの品が届いた。玄関には花を抱えた使者が訪れ、父の書斎には祝辞の手紙が積み上がり、セシリアの部屋では侍女のアンナが贈り主の名を帳簿へ書き留めている。自分の結婚がこれほど多くの人に関わるものなのだと、セシリアは今さらのように実感していた。
「こちらは、殿下からでございます」
アンナが差し出したのは、花でも宝石でもなく、薄い紙包みだった。開いてみると中には焼き菓子が六つと、短い手紙が入っている。
『先日、君がもう一つ食べようか迷っていたものを見つけた。今回は迷わず食べられるように』
セシリアが笑うと、アンナも帳簿から顔を上げた。
「何か、面白いことが?」
「殿下は、私が食べ損ねたお菓子まで覚えていらっしゃるのね」
あの日は別の菓子にも手を伸ばしたかったけれど、クラウスの前であまり食べすぎるのもどうかと思い、一つでやめたのだった。見抜かれていたことは少し恥ずかしい。それでも、もう一度食べたいと思っていたものが手元に届いたことの方が嬉しくて、セシリアは紅茶を頼みながら、返事には何を書こうかと考えた。
以前は、婚約者へ送る手紙の言葉を何度も選び直していた。寂しいと書けば負担になるだろうか、会いたいと伝えれば困らせるだろうかと、書く前から相手の返事を想像していたのである。今は、菓子が美味しかったことと、次は一緒に食べたいことを、そのまま書けばよかった。
クラウスと結婚するのだという実感は、正式な発表よりも、こうした小さなやり取りの中で少しずつ深まっていた。
*
結婚式について最初の話し合いが行われたのは、その三日後だった。
王宮の応接室には、儀典を担当する侍従と式の準備を取りまとめる女官が待っていた。セシリアの前には分厚い書類が置かれていたが、クラウスはそれを開くより先に、隣へ腰を下ろした。
「まず、君に聞いておきたい」
「何でしょうか」
「どんな結婚式にしたい?」
セシリアは、書類へ伸ばしかけた手を止めた。王弟の結婚なのだから決められた手順があり、自分はその説明を受けるために来たのだと思っていたのである。
「私の希望を申し上げてもよろしいのですか?」
「そのための話し合いだよ。もっとも、全部叶えられると約束する前に、そちらの二人にも相談しなければならないが」
クラウスが視線を向けると、侍従は丁寧に頭を下げた。
「可能な限り、ご意向を取り入れたく存じます」
真面目な返事だった。セシリアは少し考え、膝の上で指を重ねた。
「お父様とお母様に、きちんとお礼を申し上げる時間が欲しいです。式の当日は慌ただしくなるでしょうから、お客様へのご挨拶だけで終わってしまわないように」
父は娘の婚約が決まった時、よかったなと言って笑ってくれた。母も衣装や新居の相談を楽しみにしている。それでも夕食の席で、結婚後は毎日一緒に食卓を囲めなくなるのねと母が口にした時には、父がいつもより長く黙っていた。
屋敷を出ることが悲しいわけではなかった。けれど、嬉しいからといって、離れる寂しさがなくなるわけでもない。それはきっと、両親も同じなのだろう。
「それから、できればアンナにも、式を見ていてもらいたいのです」
背後に控えていたアンナが、わずかに身じろぎした。
「お嬢様、私はお支度がございますので」
「ええ。だから、難しければ別の方法を考えたいのだけれど……ずっと世話をしてもらったのに、一番忙しく働いて、肝心のところを見られないのは寂しいと思って」
アンナは返事をせず、深く頭を下げた。隣ではクラウスが女官へ目を向け、彼女はすぐに手元の紙へ書き込んでいる。
「当日のお支度は、王宮の者もお手伝いいたします。挙式中はこちらで引き受けられるよう、手配をいたしましょう」
「ありがとうございます」
安堵して礼を言うと、クラウスがセシリアの顔を覗き込んだ。
「ほかには?」
「……殿下は、何かご希望がございますか?」
「ある」
即座に返ってきた答えに、セシリアは思わず姿勢を正した。王族の結婚について、まだ自分には分からないことが多い。彼が大切にしている慣習や、招きたい相手がいるのかもしれなかった。
「式のあと、君と座って食事がしたい」
「お食事、ですか?」
「兄上の結婚式では、料理が次々と運ばれてくるのに、本人たちはほとんど食べられなかった。挨拶に来る人が途切れなくてね」
侍従が、どこか覚えのある話を聞いたような顔をした。クラウスはそれを見て笑い、セシリアへ向き直る。
「君の好きな料理を用意してもらうのだから、温かいうちに一緒に食べたい。できれば、その日のことを少し話せる時間も欲しい」
「それでしたら、私も同じことをお願いします」
セシリアが答えると、クラウスは満足そうに頷いた。並んで食卓につき、今日の花が綺麗だったとか、父が緊張していたとか、そんな話をする姿が自然に浮かぶ。大勢の人に囲まれる式の中に、二人だけの時間があると思うと、それまで少し遠く感じていた当日が急に楽しみになった。
話し合いの終わりに、女官は希望を書き留めた紙を読み上げた。両親と過ごす時間、アンナの参列、そして式後の食事。クラウスは一つずつ確認し、最後にセシリアへ尋ねた。
「これでいいかな」
「はい。楽しみになりました」
「よかった。私もだ」
その言葉を聞いた時、セシリアは、結婚式とは用意された場所へ自分が入っていくだけのものではないのだと思った。二人で望みを伝え、相談しながら形にしていくことができる。そのことが、衣装や宝石を選ぶよりも嬉しかった。
*
ところが、十日ほど経つと、式の予定表は最初に見たものより随分と厚くなっていた。
近隣諸国から祝いの使節が来ることになり、挙式前の晩餐会と翌日の茶会が加わった。王弟の結婚に合わせて王都を訪れるのであれば、この機会に会談も行いたいという申し出があり、クラウスの予定には新たな公務が書き込まれていた。
セシリアにも、使節の夫人たちを迎えるための準備が必要だった。名前や家族構成を覚え、各国で避けるべき話題を教わり、衣装の仮縫いの合間には女官から当日の動きを説明される。どれも必要なことだと分かっていたし、クラウスの隣に立つ以上、自分もできることをしたいと思っていた。
「お疲れではございませんか」
女官に尋ねられた時も、セシリアは首を横に振った。
「大丈夫です。続きをお願いします」
実際、その日はまだ疲れていなかった。新しく覚えることは多いけれど、分からないところを聞けば丁寧に教えてもらえる。王宮の人々も親切で、以前の婚約で感じていたような心細さはなかった。
ただ、次の話し合いにクラウスは出席できなかった。
『会談が長引いている。すまない。今日は先に説明を受けておいてもらえるだろうか。分からないことや決めかねることは、そのまま残しておいてほしい』
届いた手紙には、彼らしくそう書かれていた。セシリアは承知したと返事を送り、女官と二人で予定を確認した。
その次の話し合いも、クラウスは途中までしかいられなかった。退出する前に彼は謝り、近いうちに改めて時間を取ると言ってくれたので、セシリアは笑顔で送り出した。
公務を投げ出してそばにいてほしいとは思わない。彼がどれほど責任のある仕事を担っているかは知っているし、自分との結婚に合わせて仕事まで増えているのなら、なおさら支えたいと思った。
会えない日の夜には、彼から短い手紙が届いた。食事は取れたか、衣装の仮縫いはどうだったかと尋ねる言葉を読み、セシリアもその日にあったことを書いて返す。そのやり取りは嬉しかったけれど、書き終えたあとには、直接話せたらもっと楽しいだろうと思うことが増えていた。
ある晩、返事を書いていると、アンナが机の脇に温かい茶を置いた。
「殿下に、お会いになりたいとお書きになってはいかがですか」
「そんなに顔に出ていた?」
「お手紙をお読みになる時は嬉しそうでいらっしゃいますが、そのあと、いつも少し残念そうです」
セシリアは手元の紙を見下ろした。今日も、準備が順調に進んでいることと、無理をせず休んでほしいことを書いていた。
「お忙しいのは分かっているのよ」
「はい」
「私まで時間を取ってしまったら、お休みになる暇がなくなるでしょう?」
アンナは何か言いかけたが、セシリアの手元へ視線を落とすと、静かに口を閉じた。その沈黙が気になりながらも、セシリアは手紙の最後に、次に会えるのを楽しみにしていますと添えた。
それなら、催促にはならないはずだった。
*
次にクラウスと会う予定の日、セシリアは彼が贈ってくれた焼き菓子を王宮へ持っていった。
前に届いたものはとうに食べ終えていたが、美味しかったと書いた返事を覚えていたらしく、数日前にまた同じ包みが届いたのである。今度こそ一緒に食べようと思い、アンナに頼んで籠へ入れてもらっていた。
応接室で待っていると、先に女官が入ってきた。抱えている書類を見て、セシリアは少しだけ嫌な予感がした。
「殿下は、まだ会談でしょうか」
「はい。まもなくお越しになる予定ですが、その前にこちらをご確認いただければと存じます」
広げられたのは、結婚式当日の新しい予定表だった。前に見た時には空いていた場所に、使節との面会と記念撮影の予定が加わっている。
セシリアは順に目を通し、式後の欄で指を止めた。二人で食事をするはずだった時間に、各国の来賓への挨拶が入っていた。
「こちらは、どのくらいかかるのでしょう」
「皆様へのご挨拶を終えるまで、一時間ほどを見込んでおります。その後、祝宴の会場へご移動いただきます」
「では、その前のお食事は?」
女官は予定表を確かめ、申し訳なさそうに顔を上げた。
「控室に軽食をご用意することになっております。お着替えの間にも召し上がれるものをと、料理長に相談しております」
丁寧に考えてくれているのは分かった。時間がない中でも食べられるように、誰かが手配をしてくれたのだろう。セシリアは礼を言おうとして、持ってきた菓子の籠へ目を向けた。
クラウスが望んだのは、空腹を満たすことだけではなかった。自分も、彼と並んで座り、その日のことを話す時間を楽しみにしていたのである。
「承知いたしました、と申し上げる前に」
言いかけてから、セシリアは女官を見た。
「この予定は、殿下と一緒に確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます。まだ調整の余地はございますので」
女官の返事に、セシリアは小さく息をついた。尋ねたことを責められるわけでも、準備を止めてしまうわけでもない。それなのに、口を開くまで随分とためらっていたことに、自分で驚いていた。
ほどなく扉が開き、クラウスが入ってきた。彼は待たせたことを詫びると、テーブルの籠に気づいて表情を和らげた。
「持ってきてくれたのか」
「はい。今度は、殿下といただこうと思って」
「嬉しいな。茶も頼もう」
彼が隣へ座ると、セシリアは菓子の包みを開いた。こうして会えば、やはり嬉しかった。忙しい中で来てくれたことも分かっているから、予定表については今日でなくてもいいのではないかと、一瞬考えてしまう。
けれど、そのまましまってしまえば、クラウスは自分が何を楽しみにしていたかを知らない。順調ですと書いた手紙だけを読み、セシリアも満足しているのだと思うだろう。
「殿下。お茶をいただきながら、少しお話をしてもよろしいですか」
「もちろん。どうした?」
セシリアは二人の前へ予定表を置いた。式後の欄を示す前に、まず彼の顔を見た。
「私、この頃、殿下とお話しする時間が少なくて寂しかったのです」
クラウスは菓子へ伸ばしかけていた手を止めた。セシリアの顔を見つめ、それから、彼女の前に置かれた予定表へ目を落とす。
セシリアは返事を急がずに待った。今度は、自分の言葉を取り消さずに。




