第3話 私は、私を大切にしてくださる方を選びます
婚約解消が正式に成立したのは、それから二週間後のことだった。
両家の話し合いは、セシリアが覚悟していたよりもずっと早くまとまった。エルヴァルト公爵家が一方的に破談を押しつけたわけではなく、オスカーの家もまた、これまで彼がセシリアとの約束を何度も反故にしていたことを把握していたらしい。
もっと揉めるのではないかと思っていただけに、父から報告を受けた時には少し拍子抜けしてしまったほどだった。
「先方のご当主から謝罪があった」
父はそう言って、婚約解消に関する書類を机の上へ置いた。
「息子の振る舞いについて、自分たちも甘く見ていた、と」
「そうですか」
「オスカー本人は、最後まで婚約解消に反対していたそうだ」
その言葉を聞いても、セシリアの胸はもう揺れなかった。以前ならば、彼が自分との婚約を失いたくないと思ってくれているだけで、それを愛情の証だと感じて喜んだかもしれない。
けれど今は、ただ彼はそう思っているのだと受け止められるだけだった。
「これで、お前は自由だ」
父の言葉に、セシリアは静かに頷いた。
「はい」
自由という響きが、思っていた以上に心地よかった。
誰かを待つ予定のない午後も、突然取りやめになる心配のない観劇も、誰かの都合を優先するために空けておく必要のない休日も、すべて自分のものになった。
婚約していた五年間、自分がどれほど多くの時間を「いつ呼ばれてもいいように」と無意識に差し出していたのか、自由になって初めて気づいたのだった。
そんなある日、オスカーから最後に一度だけ会ってほしいという手紙が届いた。
セシリアは少し迷った。断ろうと思えば、それだけで済む話だったし、婚約もすでに解消されている以上、彼の願いを聞く義務などない。
それでも、すべてが正式に終わった今だからこそ、一度だけきちんと話しておいた方がいいのかもしれないと思った。
父に相談すると、彼は露骨に嫌そうな顔をしながらも止めはしなかった。ただし会うのは屋敷の応接室で、必ず侍女を控えさせること。その条件を受け入れ、セシリアはオスカーと最後に会うことにした。
*
久しぶりに会ったオスカーは、以前よりずっと憔悴して見えた。
「時間を取ってくれてありがとう」
「これが最後です」
最初にそう告げると、彼は一瞬だけ苦しそうに唇を噛んだ。
「分かっている」
二人は向かい合って座ったが、すぐにはどちらも口を開かなかった。かつてなら沈黙が気まずくて、セシリアの方から何か話題を探していただろう。
今は、そんな必要も感じなかった。
やがて、先に口を開いたのはオスカーだった。
「ミレーヌと話した」
セシリアは何も言わず、続きを待った。
「彼女は、あの日が君の誕生日だったことを知らなかった」
それは少し意外だった。
「僕が何も言わなかったんだ。母君の具合が悪いと聞いて、自分から行くと言った」
「そうだったのですね」
「それだけじゃない」
オスカーは視線を膝へ落とし、しばらく言葉を探すように黙り込んだ。
「今までのことも話した。観劇の途中で抜けたことも、夜会で君を一人にしたことも、君が寝込んでいた日に見舞いへ行かなかったことも」
苦しそうに息を吐いたあと、彼は自嘲するような笑みを浮かべた。
「ミレーヌに言われたよ。どうしてそんなことをしたのか、と」
セシリアは、わずかに目を見開いた。
「あいつは、僕が君との予定を断って来ていたことを、ほとんど知らなかったんだ」
考えてみれば当然だったのかもしれない。
オスカーがミレーヌのもとへ向かうたびに、「セシリアとの約束を破って来た」とわざわざ説明していたはずもない。ミレーヌはただ、自分が困った時に幼馴染が来てくれたと思っていただけなのだろう。
「ミレーヌは確かに僕を頼っていた。でも、君を傷つけてまで来てほしいなんて、一度も言っていなかった」
オスカーは力なく笑った。
「僕が、自分で選んでいたんだ」
セシリアは静かにその言葉を聞いていた。
「困っているミレーヌを助ける自分は、いい人間だと思っていた。頼られるのも、たぶん嫌じゃなかったんだと思う」
一つずつ、自分の行動を振り返るような口調だった。
「そして、君には甘えていた」
そこでオスカーは顔を上げた。
「君なら許してくれると思っていた。待っていてくれるとも、僕を嫌いにはならないとも思っていた。だから、何をしても大丈夫だと……どこかで思っていたんだ」
それは、セシリア自身がずっと感じていたことだった。
ようやく彼自身がそこへ辿り着いたのだと思うと、少しだけ胸が軽くなった。だからといって、失ったものが戻ってくるわけではなかったけれど、それでも彼が何も理解しないまま終わるよりは、ずっとよかった。
「セシリア」
オスカーの声が震えた。
「僕は、ミレーヌを愛していたわけじゃない」
「はい」
「助けたかっただけなんだ。放っておけなかった。でも、結婚したいと思っていたのは君だった。これから先を一緒に過ごしたいと思っていたのも、君だけだった」
必死な表情だった。
以前の自分なら、それほどまでに求められれば心が揺れたかもしれない。自分こそが愛されているのだと分かれば、また信じようとしたかもしれない。
けれどセシリアはもう、自分の気持ちが戻らないことを知っていた。
「知っています」
オスカーの表情が止まった。
「……知っている?」
「あなたが私を嫌いだったとは、一度も思っていません」
セシリアは穏やかに答えた。
「愛してくださっていたことも、本当なのでしょう」
「なら――」
「でも、それだけでは足りなかったのです」
オスカーは言葉を失った。
セシリアは責めるためではなく、自分自身の気持ちを確かめるように言葉を続けた。
「愛していると言いながら、いつも他の方を優先する。結婚するのは私だと言いながら、私との約束は何度でも破る。そのたびに最後には、私なら分かってくれると言う」
これまでの五年間が、ひとつひとつ胸の中を通り過ぎていく。
けれど不思議なほど、もう痛くはなかった。
「私は、あなたに愛されていなかったから別れるのではありません」
オスカーは黙ったまま、彼女の言葉を聞いていた。
「あなたの愛し方では、私は幸せになれないと思ったから別れるのです」
その違いを、彼はようやく理解したのだろう。
オスカーの顔から、縋るような力が少しずつ抜けていった。
「……今から変わると言っても?」
「変わってください」
その言葉に、一瞬だけ彼の表情が明るくなった。
けれどセシリアは、その希望を曖昧なまま残すつもりはなかった。
「次に大切な方ができた時、その方のために変わってください」
「僕のためではなく?」
「はい」
酷な言い方かもしれないとは思った。
それでも、ここで期待を持たせる方がずっと残酷だった。
「私たちは、もう終わりました」
長い沈黙が流れたあと、オスカーは目を伏せた。
「……クラウス殿下を選ぶのか」
セシリアは少し考えてから答えた。
「まだ、決めてはいません」
その答えに、オスカーが反射的に顔を上げる。
「では――」
「でも、あなたのもとへ戻ることはありません」
彼の口から続くはずだった言葉は、そのまま消えた。
やがてオスカーは、泣きそうな、どこか情けない笑みを浮かべた。
「そうか」
「はい」
「本当に、遅かったんだな」
セシリアは否定しなかった。
もう否定する理由がなかった。
オスカーはゆっくりと立ち上がった。
「最後に一つだけ言わせてくれ」
「何でしょう」
「誕生日、おめでとう」
二週間以上遅れて届いた祝いの言葉だった。
セシリアはほんの少しだけ目を細める。
「ありがとうございます」
それが、かつて婚約者だった二人の最後の会話になった。
*
クラウスは、最初に宣言した通り返事を急かさなかった。
求婚したあとも彼の態度は驚くほど変わらず、時折食事や観劇に誘われることはあっても、返事を求められることは一度もなかった。王宮の図書室で顔を合わせれば立ち話をし、王妃主催の夜会では最初の一曲だけ踊る。
そんな穏やかな交流だけが続いていた。
「本当に催促なさらないのですね」
求婚から二か月ほど経った頃、王宮の庭園を歩きながらセシリアが尋ねると、クラウスは不思議そうに眉を上げた。
「催促してほしいのか?」
「いいえ」
「なら、しない」
あまりにもあっさりした返事に、セシリアは思わず笑ってしまった。
「少し意外だっただけです」
「私は君に選んでほしいと言ったのであって、選ばせたいと言ったわけではないからね」
そう言いながら、クラウスは自然に歩調を緩めた。
セシリアがドレス姿でも無理なく歩ける速さへ合わせているのだと、最近になって気づいた。思い返せば彼は、そうした小さな気遣いをいちいち恩着せがましく口にすることなく、いつも当然のようにしていた。
その日も、二人は午後から庭園を見て回る約束をしていた。
ところが散策の途中、王宮から使者が駆け込んできた。
国境付近で問題が発生し、急遽国王から招集がかかったらしい。事情を聞いた瞬間、クラウスの表情から柔らかさが消え、王族としての顔に切り替わった。
「分かった。すぐに行く」
使者に告げたあと、彼はそのまま立ち去ることなく、セシリアへ向き直った。
「すまない」
「お気になさらず。公務なのでしょう?」
「ああ」
「でしたら、どうぞ」
以前のセシリアなら、このあと「君なら分かってくれる」と言われていた。そして自分もまた、分かっているから大丈夫だと笑って送り出していただろう。
けれどクラウスは、そこで話を終わらせなかった。
「今日の午後は君と過ごすと約束していた。守れなくなって申し訳ない」
「殿下」
「明日の午後は空いているが、君の予定はどうだろう。都合が悪ければ、別の日をこちらで空ける」
あまりにも自然に言われて、セシリアはしばらく返事ができなかった。
「……明日で大丈夫です」
「本当に?」
「はい」
「なら、明日の二時に迎えに行く。今日は埋め合わせに、君が気に入っていた菓子店のタルトも用意させよう」
「そこまでしていただかなくても」
「私がしたいんだ」
クラウスはそう言って穏やかに笑った。
「では、行ってくる」
「はい。お気をつけて」
彼が足早に去っていく姿を見送りながら、セシリアは不思議な気持ちになっていた。
約束が守られなかったという結果だけを見れば、かつてオスカーにされたことと同じだった。それなのに少しも悲しくはなく、自分より国を優先されたことに腹が立つこともない。
違いは、驚くほど明確だった。
クラウスは、セシリアなら我慢できるからと約束を軽んじたわけではない。守れなくなったことをきちんと詫び、その理由を伝え、自分から次の約束を差し出してくれた。
たったそれだけのことだった。
けれど、セシリアが五年間ずっと欲しかったものは、きっとこういうものだったのだ。
自分が強いかどうかでも、我慢できるかどうかでもない。
相手が自分を大切にしようとしてくれているのか、それを行動で示してくれるのか。その違いだけで、こんなにも心のあり方は変わるのだ。
「……そういうことだったのね」
ようやく分かった気がした。
クラウスといる時、自分がなぜこれほど安心できるのか。
◇
翌日の午後。
約束通り、クラウスは二時ちょうどにエルヴァルト公爵家へやって来た。
「今日は呼び出されませんでしたね」
セシリアが冗談めかして言うと、クラウスは笑った。
「国王陛下には、今日は重要な予定があるので、緊急時以外は呼ばないでほしいと伝えてある」
「重要な予定?」
「君との約束だ」
あまりにもさらりと言われたため、セシリアは言葉に詰まった。
「それは……国王陛下に申し上げるほどのことなのですか?」
「私にとってはね」
こういうことを、クラウスは恥ずかしげもなく言う。
困ってしまうのに、決して嫌ではなかった。それどころか最近では、そんな彼の言葉を聞くたびに、胸の奥が少しだけ温かくなるようになっていた。
庭園に用意された席につくと、本当に前日に話していた店のタルトが置かれていた。
クラウスが紅茶を一口飲んでから、いつものように尋ねる。
「それで、今日はどこへ行きたい?」
「その前に、お話があります」
カップを置こうとしていた手が、わずかに止まった。
クラウスがまっすぐこちらを見る。
以前なら、その視線を受けただけで緊張したかもしれない。今は、少しだけ鼓動が速くなるその感覚すら、不思議と嫌ではなかった。
セシリアは自分の気持ちを確かめるように息を吸う。
「以前の求婚についてです」
クラウスの姿勢が、わずかに硬くなった。
「返事をいただけるのかな」
「はい」
セシリアは彼を見つめ、自然に微笑んだ。
「私でよろしければ、お願いいたします」
クラウスはすぐには答えなかった。
数秒ほど、何を言われたのか確かめるようにセシリアを見つめたまま固まっている。
「……殿下?」
「すまない。もっと格好よく返事をするつもりだったんだが、想像していたより嬉しくてね」
珍しく本当に困ったような顔をしている。
そんな表情を見ていると、セシリアまでおかしくなってしまい、思わず笑みがこぼれた。やがてクラウスもつられるように笑った。
「ありがとう、セシリア」
そう言って、彼はそっとセシリアの手を取った。
「私は君を幸せにすると約束する」
その言葉を聞いて、セシリアは少し考えてから首を横に振った。
「それは、少し違うかもしれません」
クラウスが意外そうに瞬く。
「私は、自分で幸せになります」
かつての自分なら、誰かに幸せにしてもらうことを望んでいたのかもしれない。
愛されているから大丈夫だと信じ、婚約者なのだから最後には自分を選んでくれるのだと思い込み、我慢することまで愛の一部だと考えていた。
でも、もう違う。
「ですから殿下には、その隣にいていただければ嬉しいです」
クラウスは一瞬驚いたあと、ゆっくりと穏やかな笑みを浮かべた。
「分かった」
握られた手に、優しく力が込められる。
「では私は、君が自分で幸せになる邪魔をせず、その隣でできるだけ幸せにする努力をしよう」
「欲張りですね」
「君との結婚については、かなり欲張りなんだ」
二人は顔を見合わせ、自然に笑った。
そして、その数か月後。
王弟クラウスとセシリア・フォン・エルヴァルトの婚約が、正式に発表された。
王都では大きな話題になった。
元婚約者との破談から間もないだとか、王弟殿下は以前からセシリアを想っていたらしいだとか、さまざまな噂が流れたものの、セシリアは以前ほどそれを気にしなくなっていた。
誰かにどう見られるのかより、自分がどう生きたいのかを考えることを覚えたからだ。
婚約発表の日。
クラウスと並んで王宮の広間を歩きながら、セシリアはふと、かつての自分のことを思い出していた。
あの頃の自分なら、「私を最優先してください」と誰かに望むことを、わがままだと考えていただろう。
けれど今なら分かる。
何もかもにおいて、自分だけを一番にしてほしかったわけではない。国より自分を優先してほしいわけでもなければ、仕事や責務を捨ててまで自分を選んでほしいわけでもなかった。
ただ、自分なら我慢できるから、自分なら許すから、自分ならいつまでも待っているからという理由だけで、当然のように最後へ回されたくなかったのだ。
「セシリア?」
隣を歩くクラウスが、彼女の様子に気づいて声をかけた。
「どうした?」
「いいえ」
セシリアは顔を上げ、隣にいる彼を見つめた。
「少し、幸せだと思っていただけです」
「少し?」
「……かなり、ですね」
クラウスは嬉しそうに笑うと、セシリアが歩きやすいよう、ほんのわずかに歩調を緩めた。
それは特別なことではなく、彼がこれまでも何度となくそうしてきた、ごく自然な気遣いだった。けれどセシリアにとっては、そんな何でもない一つ一つこそが、自分が大切にされているのだと実感できる何よりの証だった。
もう、自分を後回しにする人を追いかけるつもりはない。
誰かに選ばれるのを、ただ待つつもりもなかった。
これからは自分で選ぶのだ。
自分を大切にしてくれる人を選び、自分もまた、その人を大切にしていく。
それがきっと、セシリアがようやく見つけた、自分の手で幸せになるための答えだった。




