第2話 君が強いことと、一人にしていいことは別だ
婚約解消の申し入れを送ってから三日後、オスカーはエルヴァルト公爵家を訪れた。
先触れもなく押しかけてきたわけではなかったが、正式な面会を申し込んできた手紙には、普段の彼らしい穏やかさがほとんど残っていなかった。
『セシリアと直接話がしたい』
書かれていたのは、その一文だけだった。
それだけで、彼がどれほど混乱しているのかは十分に伝わってきた。
父は最初、会わせる必要などないと言った。セシリア自身も、今さら彼と話すことが残っているとは思わなかった。
けれど、このまま一度も向き合わずに終われば、オスカーはきっと、自分にとって都合のいい理由を探し続けるのだろう。
そう考え直し、セシリアは面会を受け入れることにした。
応接室へ入ると、オスカーはすでに椅子から立ち上がって待っていた。
「セシリア」
三日ぶりに見る彼の顔は、ひどく疲れていた。
目の下には薄く影が落ち、いつも整っている髪も、どこか乱れて見える。
けれど、それを見てもセシリアの胸はほとんど動かなかった。
その事実に、自分自身が一番驚いていた。
「お待たせしました、オスカー様」
「……その呼び方は、やめてくれないか」
「では、どのようにお呼びすれば?」
問い返されるとは思っていなかったのだろう。
オスカーは言葉に詰まった。
以前なら、もっと親しみのある呼び方をしていた。
幼い頃からの付き合いだったし、婚約してからは、人目のない場所では名前だけを呼ぶこともあった。
けれど今さら、あの頃と同じ距離へ戻れと言われても、セシリアにはもうその理由がなかった。
「座りましょう」
セシリアに促され、オスカーは重い動きで椅子へ腰を下ろした。
向かい合ったあと、彼は少しの間、言葉を探すように黙っていた。
「婚約解消の申し入れを見た」
「はい」
「どういうことなんだ」
その問いを聞いて、セシリアはほんの少しだけ目を瞬いた。
意味が分からなかったわけではない。
ただ、この状況になってなお、本当にその質問をするのだと思った。
「書面に記載した通りです」
「そういうことじゃない」
オスカーの声に、焦りがにじんだ。
「どうして急に婚約を解消するんだ。あの日のことなら謝る。誕生日の約束を破ったのは、悪かったと思っている」
「そうですか」
「埋め合わせだってする。君が望むなら今度は一日空けるし、行きたがっていた王立劇場にも付き合う。欲しいものがあるなら何でも――」
「必要ありません」
静かに言葉を遮ると、オスカーはその場で固まった。
セシリアは、自分でも驚くほど落ち着いた気持ちで彼を見ていた。
「誕生日の約束を破られたことだけが理由ではありません」
「なら、何が不満だったんだ」
その問いに、セシリアはすぐには答えなかった。
不満と言われれば、以前の自分ならいくらでも挙げられただろう。
けれど今の気持ちは、もう不満という言葉では少し違っていた。
「私、不満を伝えること自体を諦めてしまったのだと思います」
「……何を言っているんだ」
「何度も言いました。観劇の途中でいなくなった時も、夜会で一人にされた時も、私が熱を出して寝込んでいたのに見舞いへ来てくださらなかった時も」
オスカーの顔色が変わった。
おそらく、その一つ一つを覚えているのだろう。
「でも、そのたびにあなたは同じことを言いました」
セシリアは淡々と続けた。
「ミレーヌ様には自分しかいない。私は強いから大丈夫。私なら分かってくれる、と」
「それは……」
「私も、分かろうとしました」
最初の頃は、本当にそう思っていた。
幼馴染を放っておけないオスカーは優しい人なのだと信じていたし、それを理解できる婚約者でありたいとも思っていた。
「けれど、同じことが何度も続いて、ようやく分かったんです」
セシリアは一度ゆっくりと息を吐いてから、言葉を続けた。
「あなたにとって私は、後回しにしても失わない人だったのでしょう」
「違う」
オスカーは即座に否定した。
「そんなふうに思ったことは、一度もない」
「そうでしょうね」
「なら――」
「思っていなかったからこそ、ずっと続けられたのだと思います」
その言葉に、オスカーは何も返せなくなった。
悪意があったわけではない。
セシリアを傷つけようと思っていたわけでもない。
だからこそ、余計に厄介だった。
彼にとって、セシリアが待つことはいつの間にか当然になっていた。
理解することも、譲ることも、最後には許してくれることも。
「僕は君を愛している」
絞り出すような声だった。
「ミレーヌとは違う。あいつは幼馴染で、放っておけないだけだ。愛しているのは君だ」
昔の自分なら、その言葉を聞けば嬉しかったのかもしれない。
どれほど不安な思いをしても、最後には愛されているのだから大丈夫だと信じられたかもしれない。
けれど今は、もう違った。
「そうなのですね」
セシリアがそう答えると、オスカーの表情が大きく歪んだ。
「……それだけか?」
「はい」
「僕が君を愛していると言っているんだぞ」
「聞こえています」
「なら、なぜそんな顔をする」
どんな顔をしているのだろうと、セシリアは少しだけ考えた。
自分ではよく分からなかった。
ただ、きっと以前のように、彼の一言で喜んだり傷ついたりする顔ではないのだろう。
「愛されていると分かっていても、大切にされていると感じられないのなら、私にはもう十分です」
その言葉で、オスカーは完全に黙り込んだ。
しばらくして、彼は力なく立ち上がった。
「……今日は帰る」
「はい」
「でも、僕は諦めない」
セシリアは、それに返事をしなかった。
オスカーが部屋を出ていき、扉が閉まる。
その音がしても、胸の中には何も残らなかった。
寂しさすら、もう湧いてこない。
セシリアはそこで改めて、自分の中では本当に終わっていたのだと理解した。
*
その日の午後、父に呼ばれて書斎へ向かうと、そこには珍しい客人がいた。
「失礼いたします」
入室したセシリアは、客人の姿を見て思わず足を止めた。
王弟、クラウス殿下。
現国王の弟にあたり、王位継承権からは距離を置きながらも、外交と行政の双方で高い評価を受けている人物である。
三十歳を少し過ぎたばかりだが、王宮ではすでに国王の片腕とも呼ばれていた。
セシリアも、夜会や式典で何度か言葉を交わしたことがある。
「急に呼び出してすまないね」
クラウスは穏やかな笑みを浮かべた。
「いいえ。こちらこそ、お待たせして申し訳ございません」
「堅いな。今日は公務ではないよ」
そう言われて父の方を見ると、なぜかひどく気まずそうな顔をしていた。
「では、私は席を外そう」
「お父様?」
「殿下から、お前に話があるそうだ」
父はそれだけ告げると、本当に書斎を出ていった。
残されたセシリアは、少し戸惑いながらクラウスへ向き直る。
「お話、ですか?」
「ああ」
クラウスは軽く姿勢を正した。
「婚約を解消したと聞いた」
「お耳が早いですね」
「王宮にいると、嫌でもそうなる」
苦笑したあと、彼はセシリアをまっすぐに見た。
「つらかったか?」
その問いに、セシリアは少し意外な気持ちになった。
周囲の人間は皆、婚約を解消したことそのものを心配してくれた。
大丈夫かと尋ね、つらければ休めと言ってくれた。
けれど、婚約していたこれまでの日々がつらかったのかと尋ねてきた人はいなかった。
「……以前は、少し」
「少し?」
「たくさん、だったかもしれません」
正直に答えると、クラウスは小さく笑った。
からかうような笑いではなく、それでいいと言われているような柔らかな笑みだった。
「君は我慢強いからな」
「それも、よく言われます」
「そうか」
クラウスはそこでわずかに目を細めた。
「だが、我慢強い人間だからといって、我慢させていい理由にはならない」
セシリアは顔を上げた。
「強い人間は助けなくていい。しっかりしている人間なら放っておいていい。私は、そういう理屈をあまり好まない」
その言葉が、ゆっくりと胸の中へ落ちていった。
不思議だった。
オスカーから何度も言われ、いつしか何も感じなくなっていた「強い」という言葉が、今はまるで別の意味を持って聞こえる。
「君が強いことと、君を一人にしていいことは別の話だろう」
セシリアは、すぐには何も言えなかった。
代わりに、胸の奥がほんの少しだけ熱くなる。
それはまだ恋ではなかった。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
けれど、ずっと欲しかった言葉を、ようやく誰かが口にしてくれたような気がした。
「殿下は、以前からそう思っていらしたのですか?」
「もちろん」
「なぜです?」
「君を見ていたから」
あまりにも自然に返されて、セシリアは目を瞬いた。
クラウスはそこで初めて、少しだけ言いにくそうな顔をした。
「夜会で婚約者に置いていかれても、君は他の客に気を遣わせないよう笑っていた。外交使節の歓迎晩餐会では、隣席の老伯爵が具合を悪くした時、誰より早く侍医を呼んでいた。王妃主催の慈善会では、最後まで残って帳簿を確認していただろう」
一つ一つ、セシリアにも覚えがある。
けれど、それをクラウスが見ていたとは思わなかった。
「君は、他人のために動くことが多い」
クラウスはそう言って、少しだけ声を和らげた。
「だから私は以前から思っていたんだ。君のために動く人間も、必要なのではないかと」
また胸が熱くなる。
今度は、先ほどよりもはっきりとした感覚だった。
「殿下」
「うん」
「今日は、それをお伝えになるために?」
「いや」
クラウスは一度息を吸い、それから少し困ったように笑った。
「本当は、もっと時間を置くべきだと思っていた」
セシリアは何も言わず、続きを待つ。
「婚約を解消したばかりの女性に、こんな話をするのは無神経だとも思う」
その言葉で、ようやく彼が何を言おうとしているのか察した。
「だが、君に次の縁談が持ち込まれる前に、私も候補に入れてほしい」
「……候補?」
「求婚だよ」
あまりにもさらりと言われたため、セシリアはすぐには意味を飲み込めなかった。
「私と結婚してほしい」
クラウスは、冗談を言っている顔ではなかった。
「返事は今すぐでなくていい。むしろ、今はしないでくれ。君はようやく一つの婚約から自由になったばかりだ」
「では、なぜ今……」
「先ほど言った通りだ。君に次の縁談が山ほど届く前に、私も手を挙げておきたい」
思わずセシリアは笑ってしまった。
王弟殿下ともあろう人物が、随分と率直なことを言う。
「殿下でも、そのようなことを気になさるのですね」
「するとも。私は王弟ではあるが、恋愛に関して他の男より特別に有利なわけではない」
「十分有利だと思いますが」
「肩書きだけで選ばれても困る」
クラウスも笑ったあと、少しだけ表情を改めた。
「私は、君を後回しにはしない」
その言葉に、セシリアの笑みが止まる。
クラウスは、彼女の反応を見ながら静かに続けた。
「もちろん、公務で約束を守れない日もあるだろう。どうしても君より先に国を選ばなければならない時もある」
そこを綺麗事で誤魔化そうとしないところが、いかにも彼らしいと思った。
「だが、君なら我慢できるからという理由で、君を後回しにはしない。約束を破るなら謝るし、埋め合わせもする。君が嫌だと言うなら、その言葉をきちんと聞く」
一つ一つは、ごく当たり前のことのようにも聞こえた。
けれどセシリアにとっては、長い間ずっと与えられなかったものだった。
「私は、君を大切にしたい」
静かな声だった。
大げさな愛の言葉ではない。
それなのに、胸の奥まで深く届いた。
「……少し、考える時間をいただいてもよろしいですか」
「もちろん」
クラウスは穏やかに笑った。
「半年でも一年でも待とう」
「そんなに?」
「五年待ったからね」
セシリアは思わず瞬いた。
「五年……?」
クラウスの表情が、明らかに固まった。
どうやら完全な失言だったらしい。
「殿下」
「今のは忘れてほしい」
「無理だと思います」
「そうか」
「はい」
しばらく見つめ合ったあと、どちらからともなく笑いがこぼれた。
その日の夜。
自室へ戻ったセシリアは、久しぶりに自分の未来について考えていた。
今すぐ結婚したいと思ったわけではないし、もう誰かを愛せるのだと確信したわけでもない。
それでも、クラウスと話している間の自分が、とても自然に笑えていたことだけは確かだった。
その事実を、今は少し大切にしてみたいと思った。
一方、その頃。
オスカーのもとには、別の知らせが届いていた。
王弟クラウス殿下が、エルヴァルト公爵家を訪問した。
それだけなら、特別珍しい話ではない。
けれど、その目的がセシリアへの求婚だったらしいと聞いた瞬間、オスカーの顔から血の気が引いた。
「……何だって?」
そこでようやく、彼は理解し始めた。
セシリアは、ただ怒っているわけではない。
自分が謝れば、以前のように戻ってきてくれるわけでもない。
彼女は本当に、自分のもとから離れようとしている。
そして、これまで自分が当たり前のように後回しにしてきた女性を、大切にしたいと言う男がいる。
その現実を突きつけられて初めて、オスカーは自分が失おうとしているものの大きさを、少しずつ理解し始めていた。




