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第9話 山本レッシー、約束を破る

午前一時四十七分。


 十二年前の成海さんの声が、地下十三階へ残っていた。


『次は、私の記憶を使ってください』


 録音が切れても、誰も動かなかった。


 成海さん本人だけが、他人の声を聞くような顔をしている。


「覚えていないんですか」


 私が聞く。


「はい」

「子どもの代わりに、自分の記憶を差し出したことも?」

「記録が正しければ、そうなのでしょう」

「自分のことですよ」

「自分だった人のことです」


 その言い方へ反発する前に、山本さんの手首が青く光った。


 百笑祭の水縄。


 彼女の袖の下から伸び、床へ一滴の水を落とす。


 水面に、門脇ナギの顔が映った。


『礼世さん』


 声が遠い。


『井戸の中に、もう一人うちがおる』


 映像が大きく揺れる。


 ナギの背後から、七歳くらいの女の子がこちらを見た。


 銀縁眼鏡のない、幼い山本礼世。


『交代して』


 水面から白い手が伸び、ナギの肩をつかんだ。


 映像が途切れる。


「笑門村へ戻ります」


 山本さんはもう鞄を持っていた。


「再配置作業は朝九時です」


 成海さんが時計を見る。


「だから全員で行きます」

「私は残ります。過去記録を――」

「一人にしたら、また勝手に記憶を払うでしょう」


 山本さんの声が鋭くなる。


「私の案件です。私が処理します」

「その台詞、単独で生贄になる人がよく使います」

「赤目ダムで無茶をした自分へ言ってください」

「反省したので分かるんです!」


 ハンコさんが二人の間へ飛び込み、私たちの額へ交互に押した。


 山本さんへ「頑固」。


 私へ「同類」。


「公印が人格評価しないで!」


 成海さんは小さく息を吐いた。


「では、三人で行きましょう」


 その言葉が、朝まで同じ意味で残ることを願った。


     ◇


 笑門村では、すべての水面が鏡になっていた。


 井戸、田んぼ、浴槽、やかんの底。


 どこをのぞいても、ナギが水の中で眠っている。


 村長が社の前へ膝をついていた。


「祭りは終わったはずです。契約も更新した!」

「祭りの契約は更新しました。別の条項が生きています」


 山本さんは社の石板へ触れた。


 青い水脈が浮く。


 百人百話の新契約、その下。


 七歳の署名から細い線が伸び、石板の裏へ回り込んでいる。


「署名そのものを、別契約への同意欄にしてある」


 彼女が石板を返す。


 裏面へ、小さな文字が刻まれていた。


 山本礼世、成人後、笑門水脈の継承者となる。


 本人が履行不能の場合、最も近く継承意思を示した者を代替者とする。


「ナギは昨夜、『大人になったらまた百個集めたい』と言いました」

「それが継承意思になるんですか」

「契約は、都合のいい言葉だけ耳がいい」


 山本さんの指が震えた。


「私がここへ残れば、ナギは戻ります」

「そのあと、あなたは?」

「水脈の管理者になります」

「任期は?」

「記載がありません」

「退任条項は?」

「ありません」


 永遠だった。


「帰ってください」


 山本さんが私たちへ背を向ける。


「これは私の署名です。私の責任です」

「七歳だったんですよね」

「字が書ける年齢です」

「同意できる年齢じゃない!」


 私の声が境内へ響く。


 村長が顔を上げた。


 山本さんは振り返らない。


「母が何をしたにせよ、私も書いた」

「お母さんを悪い人にしたくないから、自分を悪い人にしてるだけでしょう」


 水縄が彼女の首へ食い込んだ。


「知ったように言わないでください」

「知らないから聞いてるんです。一緒に見ます」


 私は水鏡へ手を入れた。


 冷たさが肘まで上がる。


 山本さんが止めるより早く、世界が裏返った。


     ◇


 二十三年前の笑門村。


 雨が山を叩いていた。


 七歳の礼世が、濡れた社で震えている。


 隣には母親の澪さん。


 若い。顔色は青く、腕には血が付いている。


「お父さんたちが、向こう岸にいるの」


 澪さんは娘へ言い聞かせる。


「橋が流れた。でも百笑さまが水を引いてくれる。だから、ここに名前を書いて」


 石板の前には、スーツ姿の男がいた。


 胸章は、対異調整課。


『緊急時の標準契約です。水位低下の対価として、山本家から将来の祭祀継承者を一名』


「娘はまだ七歳です」

『成人後の履行です。今すぐ何かを失うわけではありません』

「私が継ぎます」

『既契約者は対象外です。次世代の署名が必要です』


 澪さんは何度も首を振った。


 山の向こうで土砂が崩れる音がする。


 救助を待つ夫と、三歳の息子。


 選べる時間はなかった。


「礼世。お名前、書けるよね」


 幼い礼世が頷く。


「これ書いたら、お父さん帰ってくる?」

「帰ってくる」

「お母さん、泣かない?」

「泣かない」


 全部、守りたい人へつく嘘だった。


 礼世は、覚えたばかりの字で自分の名を書く。


 山本礼世。


 雨が止まる。


 川の水位が不自然な速さで下がり、向こう岸へ道が現れた。


 澪さんは娘を抱きしめる。


「ごめんね。大人になる前に、お母さんが必ず解くから」


 その約束は、果たされなかった。


 記憶が水に崩れる直前、対異調整課の男が別の書類へ印を押すのが見えた。


 水系第零号・継承者確保済。


     ◇


 現代へ戻る。


 山本さんは水鏡の前へ膝をついていた。


「父と弟は助かりました」


 感情を切り離すような声だった。


「母は五年後に亡くなった。契約を解けないまま。なら、結果を受け取った家族の私が払うべきです」

「助かったことと、七歳の子へ一生を払わせたことは別です」

「母を責めるんですか」

「責めることと、されたことをなかったことにしないのは両立します」


 山本さんがこちらを見る。


 怒っていた。


 泣いてもいた。


「お母さんを愛していていい。でも、被害を被害と呼んでいいんです」


 水鏡の中でナギが苦しげに身を丸めた。


 幼い礼世の影が、彼女へ重なり始めている。


「契約を解除します」


 山本さんが言う。


「ただし、笑門水脈は一晩停止する。飲料水だけではありません。消火、診療所、家畜、農業用水。村へ被害が出ます」

「隠さず、みんなへ話しましょう」

「反対されたら?」

「それでもナギを差し出す契約には署名しません」


     ◇


 午前三時。集会所へ村人が集まった。


 山本さんが原契約を読み上げる。


「私が継承すれば、水は止まりません。ナギも戻ります」


 村長が唇を噛む。


「なら、それが一番被害は少ないのでは」


 空気が凍った。


 村長自身が、言ったあとで顔を歪める。


「違う。分かっとる。分かっとるが、診療所には酸素濃縮器がある。火事が出れば消せん。牛も百二十頭おる。わしは村長として――」

「数字で考えるのは間違いではありません」


 山本さんが答える。


「だから、全部の数字を出します。私一人の人生も、一として入れてください」


 岸本さんが立った。


「診療所は県立病院へ患者を移します。給水車を呼ぶ。酸素ボンベは持つ」


 畜産農家が続く。


「牛は隣町の共同水槽へ運ぶ。夜明けまでなら何とかする」


 消防団は貯水槽を確認し、若者は高齢者宅へペットボトルを配ると言った。


 村長は両手を膝へつく。


「一晩の不便を、村中で引き受けます」


 ナギの母親が、震えながら言った。


「娘の代わりに、誰かの娘を置いていく村にはしたくありません」


 山本さんは目を閉じた。


 彼女が守ろうとした契約より、契約の外にいた人たちのほうが、責任を分け合おうとしていた。


     ◇


 午前四時。


 社の前で、山本さんは七歳の署名へ手を置いた。


 青い水脈が全身へ巻きつく。


『契約者による一方的解除は認めない』


「有効な契約です」


 山本さんは言った。


「履行利益も、救われた命も存在する。母の署名も、私の筆跡も本物です」


 水鏡の中で、幼い礼世が彼女を見上げる。


「それでも、正当ではない」


 初めて、彼女が契約の正しさを否定した。


「七歳の私には、人生を差し出す意味が分からなかった。母には選ぶ時間がなかった。ナギは当事者ですらない」


 山本さんが眼鏡を外す。


 虹彩の水面が大きく波打った。


「私は、山本礼世の名で、この契約を破棄します」


 石板へ指を走らせる。


 契約の水脈を、自分の手で断ち切った。


 音はしなかった。


 青い線が一斉に彼女の喉へ集まり、内側から裂いた。


 山本さんの口から血ではなく、水があふれる。


「山本さん!」


 彼女は何かを言おうとした。


 声が出ない。


 水鏡が砕け、ナギの身体が井戸の縁へ投げ出される。


 母親が抱きとめた。


 同時に、村中の蛇口から水が消えた。


 井戸が空になり、田の水が地面へ吸い込まれる。


「予定より速い!」


 地中で大きな亀裂音がする。


 契約は水を止めるだけではなく、笑門山から水という概念そのものを引き上げようとしていた。


 斜面が沈み始める。


 山本さんは声のない喉を押さえ、契約文字を出そうとする。


 何も浮かばない。


 能力まで失っていた。


「全員、村の外へ!」


 私が叫ぶ。


 成海さんは動かなかった。


 白手袋を外し、乾いた井戸へ手を向ける。


「水がある側と、ない側の境界を、朝まで固定します」

「何を代償にするんです」

「一件だけです」

「答えになってません!」


 山本さんが彼女の腕をつかむ。


 声が出ない。


 首を横へ振る。


 成海さんは、やさしくその手を外した。


「あなたは今、自分の約束を破りました。私は、私の職務を果たします」


「職務じゃない。勝手な肩代わりです!」


 私の声へ、成海さんは少しだけ笑った。


「では、手続違反ですね」


 朱印を井戸へ落とす。


 ぽん。


 地中へ伸びた亀裂が止まった。


 乾いた井戸の底へ、薄い水面が戻る。


 成海さんのこめかみから、色が一筋抜けた。


     ◇


 夜明け。


 給水車が村へ入り、住民たちは配水を始めた。


 誰も山本さんを責めなかった。


 ナギは毛布に包まれ、彼女へ何度も頭を下げた。


「礼世さん、声……」


 山本さんはメモ帳へ書く。


『契約業務上の労災です。気にしないこと』


 文字だけでも相変わらず硬い。


 私が少し安心しかけると、次の紙を突きつけられた。


『成海の処分を要求します。本人同意なき代替担保。重大な手続違反』


「賛成です」


 成海さんは不思議そうに首を傾げた。


「何のことでしょう」


「井戸を止めた記憶は?」

「あります」

「何を払ったかは?」

「余っていた記憶を一つ」

「記憶に余りはありません」


 成海さんは、私たちを順に見る。


「高梨さん。山川さん。帰りましょう」


 山本さんの筆が止まる。


「私は斎藤です。山本さんは山本」


「失礼しました」


 成海さんは微笑もうとした。


 口角が途中で止まった。


「三人で初めて稟議が通った夜、覚えていますか」


 写真を撮った。


 ハンコさんが三人の顔へ保留を押した。


 成海さんが予定表へ「三人で初決裁」と書いた。


 彼女は長いこと考えた。


「記録には残っていると思います」


「あなたの中には?」


「ありません」


 山本さんの手から、ペンが落ちた。


 成海さんは、できなくなった笑顔の形を指で確かめる。


「大丈夫です」


 静かに言った。


「次の私が、また覚えますから」


 声の出ない山本さんが、成海さんの胸倉をつかんだ。


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