第10話 春夏冬成海は、死ぬたびに配属される
平成元年。
春夏冬成海は、自分の死亡届へ署名した。
今より短い髪。白手袋の下には、朱色の輪が一本。
「死亡日時は、午前四時十二分でよろしいですか」
向かいの職員が聞く。
「死亡は三分あとです。あの子たちが避難区域を出るまで、境界を保ちました」
「では四時十五分」
成海は訂正印を押す。
死んだ時刻を本人が直す光景へ、誰も疑問を口にしない。
「次に目覚めた私が、これを読まないことを願います」
「ご安心ください」
職員は届を封筒へ入れた。
「職務記憶のみ再配置します。個人記憶は同期しません」
「退職願は」
「記憶負荷になるため、次個体へは引き継ぎません」
成海は笑った。
「それを、安心と呼ぶんですね」
封筒へ、朱印が落ちた。
◇
現在。
成海さんがいなくなった。
◇
笑門村から戻る車内で、私は十分だけ眠った。
目を開けたとき、後部座席が空だった。
「成海さんは?」
山本さんが携帯画面を見せる。
『古墳境界結び、再亀裂。単独で現場へ向かう』
送信時刻は二分前。
その下に、追伸。
『お二人は再配置手続に立ち会ってください』
「自分の再配置なのに、本人が欠席する気です!」
山本さんは声が出ない。
代わりに窓ガラスへ指を走らせた。
雨でもないのに青い水が集まり、文字になる。
『第一条 本人同意なき単独自己犠牲を禁止する』
「筆談まで契約書式なんですね」
次の文字は、先ほどより大きかった。
『第二条 茶化した者を車外へ排出できる』
「運転中なので適用停止をお願いします」
山本さんの声は失われたままだが、契約の水脈は文字なら細く出せるらしい。
私は古墳の現場へハンドルを切った。
再配置作業開始まで、八十六分。
◇
古墳は、前回より静かだった。
埴輪はいない。
掘削機も入口へ戻っていない。
代わりに、道路予定地の白線から、無数の裸足が生えていた。
足だけが土を踏み、町の方向へ歩こうとしている。
「人へ戻る途中です」
成海さんは古墳の入口に立っていた。
白手袋を外し、朱印を両手で握っている。
「笑門村で代替担保を払ったため、境界を構成する記憶が一部欠けました。ここに誰を閉じたか、封印が判別できなくなっています」
「やっぱり、あの一件が原因なんですね」
私が駆け寄ると、成海さんは少し困ったように見た。
「来てしまったんですね」
「来ますよ。単独処理禁止です」
山本さんが空中へ青い文字を出す。
『違反時の罰則 山本礼世による胸倉保持、期限の定めなし』
「それは困ります」
成海さんは、自分の襟を押さえた。
「でも、今回は私が閉じるしかありません」
「閉じたら、どうなるんです」
「再配置作業が予定どおり進みます」
「日本語を丸めないで」
彼女は土から伸びる足を見た。
「現在の身体は消滅します」
朝の空気が冷えた。
◇
古墳の奥へ入ると、前回はなかった横穴が開いていた。
中には、時代の違う私物が並んでいる。
昭和六十一年の国鉄定期券。
平成十年のポケットベル。
液晶には「4949」。
「至急至急ですか?」
「しくしく、かもしれません」
「公務連絡を泣き声へしないでください」
山本さんが紙へ書く。
『当時の語呂合わせを推測する行為は証拠汚染です』
「無言になってもツッコミの法的強度が落ちない」
ほかにも、折りたたみ式携帯電話、古い職員証、使い切ったテレホンカード、色の違う白手袋。
すべて、春夏冬成海の名義だった。
写真の顔は同じ。
生年月日だけが違う。
成海さんは国鉄定期券を手に取った。
「懐かしいですか」
「いいえ。文字として読めるだけです」
裏側に、鉛筆で小さく書かれている。
次の私へ。駅前の鮭弁当は、よく焼いてもらうこと。
成海さんの指が止まった。
「鮭、好きだったんですね」
私が言う。
「前の私も、そう決めたようです」
最初の古墳案件で、彼女が選んだ鮭のおにぎり。
覚えていなくても、好みだけが細い糸で残っていた。
「全部、あなたなんですか」
成海さんは定期券を戻した。
「国の記録上は」
「あなた自身は?」
しばらく沈黙したあと、彼女は答えた。
「重大な境界決裁を行うと、私は身体と記憶を保てません。国は残った境界情報から、同じ容姿、同じ能力、最低限の職務記憶を再構成します」
「人を、バックアップから戻すみたいに」
「正確には、設備の復旧です」
予算書の言葉が蘇る。
対象資産名――春夏冬成海。
数量一。
更新回数十七。
「個人的な記憶は、なぜ戻さないんですか」
「人格の揺らぎが決裁精度へ影響するからです」
「退職したい記憶も?」
「業務継続に不要です」
平らな声だった。
平らに言えるよう、何度も削られた声だった。
「私は不死ではありません」
成海さんが言う。
「死ぬたび、仕事に必要なところだけが配属されます」
山本さんの水文字が乱れた。
『その手続に、本人同意は』
「最初の私が同意した記録はあります」
『今のあなたは』
「再配置後は、継続同意済みとして扱われます」
山本さんが拳を握る。
七歳の署名を、一生の同意へ変えた契約と同じだった。
◇
古墳の奥から、土を踏む音が迫る。
一人ではない。
何百人分もの足音。
横穴の闇から、輪郭のない死者たちがあふれ出した。
名札も顔もない。
ただ「未確認遺体」「その他」「推定数」と呼ばれてきた者たち。
「道路へ出る前に、一括して閉じます」
成海さんが朱印を掲げた。
「待って」
「時間がありません。再配置開始にも間に合います」
「それを間に合わせるって言わない!」
死者の波が迫る。
私は手を打った。
一拍。
二拍。
三拍。
朱と金の輪が、古墳の闇を照らす。
「聞かせてください。どこへ行きたいんですか」
音が消えた。
代わりに、声が一斉に入ってきた。
母の墓の隣。
村の北の松。
川向こうの寺。
名前を呼んでほしい。
名前がない。
子どもだけ先に。
ここでよい。ただ、その他と書かないで。
多すぎる。
頭の中へ何百人も押し寄せ、膝が崩れた。
成海さんが私を支える。
「受理を切ってください。あなたまで失います」
「全員、外へ出たいんじゃない」
私は息を整える。
「帰る場所が違うんです。ひとまとめに閉じるから、成海さんが全部の境界を背負う」
山本さんを見る。
「分けられますか」
彼女は声の出ない喉へ手を当てた。
それから、ペットボトルの水を床へまく。
指先で線を引くと、青い契約文が浮かんだ。
『仮帰属契約第一号 北丘共同墓所』
次の線。
『第二号 川向こう無縁墓地』
第三号。
『第三号 氏名調査完了まで現地保全』
契約は短い。
帰属先、確認者、期限、異議申立先。
声を失っても、約束の形を作ることはできた。
「成海さん。一件ずつなら?」
「負担は小さくできます。ただし、数が多い」
「三人でやります」
「私は、何度か忘れます」
「そのたび、言い直します」
成海さんは私と山本さんを見た。
そして、朱印を大きく振り上げる代わりに、指先へ持ち替えた。
「第一号。北丘共同墓所への帰属を認めます」
ぽん。
死者の一団が、淡い光になって消える。
「第二号。川向こう無縁墓地への仮帰属を認めます」
ぽん。
「第三号。氏名確認まで、現地に留まる権利を認めます」
ぽん。
一括決裁ではない。
小さな終わりを、何十個も作る。
私は死者の声を聞き、行き先ごとに分ける。
山本さんが契約を書く。
成海さんが境界を確定する。
受理、契約、決裁。
三人官女などと呼んで笑った形が、今は彼女を生かす手順になっていた。
◇
最後に残ったのは、名のない赤子だった。
母親も墓所も分からない。
ただ、誰かの腕に抱かれていた記憶だけがある。
「行き先が決められません」
私が言う。
山本さんは水文字を一行だけ書いた。
『氏名判明まで、省庁怪異対策室が申立人として預かる』
「私たちが?」
彼女は頷く。
成海さんが赤子へ手を差し出した。
「では、この子は未決裁です」
朱印を押さず、白手袋の中へそっと抱く。
古墳の亀裂が閉じた。
大規模決裁は、起きなかった。
成海さんは消えなかった。
同時に、午前九時を知らせる携帯のアラームが鳴る。
再配置作業開始時刻。
何も起きない。
庁内通知へ「対象消滅を確認できないため保留」と表示された。
「生き残った理由が、システムエラー扱いです」
「保留なら、今は十分です」
成海さんが白手袋をはめ直そうとする。
布が裂けた。
手首から肘へ、細い朱印痕が並んでいる。
一、二、三。
十七本。
その外側に、今できたばかりの十八本目が浮かんでいた。
完全な輪ではない。
三か所が途切れている。
私たち三人で負担を分けた跡のようだった。
◇
地下十三階へ戻ると、ハンコさんが成海さんの机の前で待っていた。
彼女を見るなり飛びつき、白手袋へ「保留」を押す。
「今日は噛まないんですね」
成海さんが撫でると、ハンコさんは机の引き出しを何度も叩いた。
奥に隠し板がある。
外すと、封筒が十七通出てきた。
すべて死亡届。
死亡者氏名――春夏冬成海。
平成元年。
平成十年。
平成二十二年。
年代を飛びながら、十七枚。
死因欄は「境界決裁に伴う機能停止」。
埋葬欄は空白。
死亡届の下に、十八枚目の用紙があった。
氏名と生年月日、職員番号は印字済み。
死亡日時だけが未来になっている。
明日、午前四時十二分。
「私はこの部署に、何度も配属されています」
成海さんは、初めて自分の言葉として認めた。
山本さんが一枚目と十七枚目を並べる。
届出人欄には、同じ名がある。
久世真臣。
十七枚すべて、同じ筆跡だった。




