第11話 書庫泥棒は公務員の夢を見るか
死亡予定時刻まで、十六時間。
十七枚の死亡届を並べた机で、私たちは正規の情報開示請求を行った。
回答予定日は、三十日後だった。
「死んだあと二十九日と八時間で回答されても困ります」
電話口の担当者は、申し訳なさそうに答えた。
『緊急性は理解しますが、八洲継続協定は永久保存文書です。閲覧には原課、移管先、機密審査、個人情報審査、文書妖怪対策責任者の確認が必要で――』
「最後の役職だけ急に本音が出ましたよね」
『聞かなかったことにしてください』
「聞いた声をなかったことにしない部署なんです」
通話が切れた。
山本さんは声を失ったまま、ホワイトボードへ書く。
『正規閲覧 三十日』
その下へ、太い赤線。
『成海の死亡予定 十六時間』
「間に合いません」
成海さんは、自分の死亡届を一枚ずつ日付順にそろえていた。
「では、私物整理をしておきます」
「辞める前の机みたいに言わないでください」
「死亡も人事異動の一種です」
「その運用を今から止めるんです!」
山本さんが、新しい紙を掲げた。
『八洲継続協定の原決裁は、中央合同庁舎旧館・特別移管書庫』
「閲覧許可は?」
『ない』
「入館許可は?」
『閉館済み』
「それ、世間では不法侵入って呼びません?」
山本さんは次の一枚を出す。
『自主的現地確認』
「言い換えても犯罪の所管は変わりませんよ」
成海さんが鞄へ白手袋を入れた。
「私は死ぬ前の私物整理と呼びます」
「二人とも名称で合法化しようとしないで!」
机の端で、ハンコさんが小さな黒い覆面をかぶった。
「君は乗り気なんだ」
ぽん。
私の額へ押された文字は「共犯」。
◇
午後十一時四十分。
中央合同庁舎旧館は、建物自体が退職後のような顔をしていた。
正面玄関は閉鎖。窓は板で塞がれ、入口には『耐震改修予定』の札が十七年間かかったまま。予定という言葉へ耐震性能まで任せている。
私たちの潜入装備は、懐中電灯、クリップ、養生テープ、付箋、穴あけパンチだった。
「泥棒の装備じゃなくて、年度末の残業ですね」
山本さんが腰へ下げた二穴パンチを叩く。
『最悪の場合、紙を綴じる』
「何が起きても書類だけは散らさない覚悟が強い」
裏口のカードリーダーへ、成海さんが古い職員証を当てた。
ぴんぽん。
『退室を確認しました』
扉が開く。
「入ったのに退室?」
「平成元年に入館し、まだ退室記録がなかったのでしょう」
「四十九年越しの帰宅扱いなんですか」
成海さんが一歩入るたび、センサーが鳴った。
『退室を確認しました』
『退室を確認しました』
『退室を確認しました』
「追い出す圧が強い」
ハンコさんがカードリーダーへ飛びつき、「在庁」を押した。
機械はしばらく悩んだあと、表示を変える。
『過去に退室済みの職員が在庁しています。矛盾は翌営業日に処理します』
「よし、朝まで合法!」
山本さんが私の後頭部へ『誤解』と書いた付箋を貼った。
廊下の警備箱から、真鍮色の丸印が飛び出した。
印面には「警備確認済」。ハンコさんより一回り大きく、短い警棒まで持っている。
警備印が私たちへ「立入禁止」を押そうとする。
ハンコさんが真正面から受け止め、「所管確認中」を返した。
ぽん、ぽん、ぽぽん。
二つの公印が廊下を転がりながら、互いの額へ「無効」「差戻」「現認」を押し合う。
「止めたほうがいいですか」
「公印同士の管轄争いへ人間が入ると、押印欄が増えます」
成海さんの忠告に従い、私たちは戦っている二体の横を通り抜けた。
しばらくしてハンコさんだけが戻り、角に「暫定通行可」をつけていた。
「勝ったの?」
胸を張った直後、背中の「要監視」が見えた。
◇
特別移管書庫は、旧館の地下六階にあった。
扉を開けると、棚が地平線まで続いていた。
建物の幅を完全に超えている。
「無限書庫ですね」
「最初に驚くところ、そこですか」
「以前もありましたから」
「どの人生で!?」
返事の代わりに、棚の奥から紙の擦れる音が近づいてくる。
ファイルの群れだった。
背表紙へ手足が生え、床を走っている。先頭のファイルには『八洲 継続協定』、次には『八洲 継続協定』、さらに『八洲継続協定』。
「同じ文書が三つ?」
山本さんが首を振り、空中へ水文字を書く。
『一つ目は半角スペース。二つ目は全角。三つ目はスペースなし』
ファイルたちが一斉に口を開いた。
『別文書!』
『別文書!』
『同一視は証拠改変!』
「面倒くさい妖怪が文書管理だけは正しい!」
棚から今度は、『最終版』『最終版2』『本当の最終版』『本当の最終版修正』が飛びかかってきた。
養生テープが足へ絡み、付箋が目を塞ぎ、拡張子の違う紙が頭上で殴り合う。
「山本さん、契約で止められます?」
彼女は声のない喉を押さえ、床へペットボトルの水をまいた。
青い文字が走る。
『原表記を保存する』
『検索時のみ空白を正規化する』
『異同一覧を添付する』
『勝手に上書きしない』
四行だけだった。
文書妖怪が止まる。
『原本、消さない?』
山本さんが頷く。
『違いを、違いとして残す』
ファイルたちは急におとなしくなり、棚へ一列に戻った。
最後の一冊だけが私の足へ噛みつく。
背表紙は『議事録_確定_確定解除』。
「君は何がしたいの」
『決めて』
「公務員の亡霊みたいな悩みを持つな!」
◇
目当ての年代へ着くと、棚が百メートル分、きれいに空いていた。
埃さえない。
平成元年から令和五年まで。
成海さんの死亡届が集中している時期と重なる。
「移管記録はありますか」
山本さんが端末を調べる。
『移管先 空白。廃棄決裁 空白。閲覧履歴 空白』
「空白が多すぎて、逆に誰かの意思が見えます」
「見えてはいけないものは、黒く塗るより棚ごと消したほうが早いからね」
背後から声がした。
古い作業着の老人が、書庫用の台車を押していた。胸札には『記録補助・望月』。年齢は八十を越えて見えるのに、台車だけは電動で妙に速い。
「警備員さんですか」
「警備員なら、君たちを見つけた時点で呼んでいるよ」
「では味方?」
「記録係は、味方にも敵にもならない。残ったものを残すだけだ」
望月さんは成海さんを見た。
「今度は、三人で来たんだね」
「私をご存じですか」
「何度も」
成海さんの指が白手袋の中で動く。
「以前の受理官と契約官は」
望月さんは、空の棚へ目を向けた。
「忘れた。正確には、忘れさせられた」
彼は作業着の裏から小さな鍵を取り出す。
「対異調整課は、怪異を忘れさせるための部署だと思われていた。違う。自分たちが忘れられるために作られたんだ」
「なぜです」
「誰が契約したか残れば、責任を問える。誰が人を差し出したか残れば、次は拒める。だから、担当者ごと消した」
鍵を私へ渡す。
「棚の最奥、壁に見えるロッカーだ。開けたら、記憶保全規程が動く」
「保全なのに忘れるんですか」
「国家に都合のよい状態を保つ規程だからね」
望月さんは穏やかに笑った。
「私が君たちを忘れても、鍵を渡した事実は消さないでくれ」
警報が一度だけ鳴った。
望月さんの目から、私たちを見ていた光が薄れる。
「……どなたですか」
「望月さん」
「ここは関係者以外立入禁止です」
彼は機械的に台車を押し始めた。
すれ違うとき、作業着の袖から紙片が落ちる。
忘れたときは、記録を信じろ。
自分で書いた文字だけが、彼の代わりに私たちを覚えていた。
◇
壁にしか見えないロッカーを開けると、三冊の薄いファイルがあった。
斎藤葵・人事発令案。
山本礼世・人事発令案。
春夏冬成海・再配置案。
「現在の人事書類……」
私の発令案の作成日は、国家公務員試験を受ける三年前だった。
山本さんのものは、彼女が怪異対策室へ来る五年前。
配属先も、役割も、席順まで今と同じ。
山本さんの発令案には、笑門水脈の幼少契約番号まで記されていた。
契約官適性――有効な契約を守る傾向が強く、自身を相手方へ含めることで拘束可能。
声帯損耗時も文書契約能力を維持する見込み。
参照元として添付された候補者台帳は、彼女が七歳で署名するより前の日付だった。
山本さんは紙を握り潰しかけ、手を止める。証拠を壊さないために、怒りまで折り目へ変えて丁寧に畳んだ。
誰かが彼女の約束を利用したのではない。
利用できる約束が生まれるよう、先に席を空けて待っていた。
私の頁をめくる。
選定理由――未決裁文書による受理適性確認。
父・斎藤和臣に係る労災相談案件を経由し、候補者の志望形成を誘導。
呼吸が止まった。
父が言葉を失った窓口。
私が父の代わりに答えてしまった日。
父が絵を指すまで待ってくれた、たった一人の職員。
その職員の名前は黒塗りだった。
「私が行政を志したのも、用意されたんですか」
声が思ったより弱くなった。
「父が待ってもらえたことも。私がここへ来たことも。全部、誰かの人事案どおり?」
山本さんが紙を奪い、黒塗りへ爪を立てる。怒りで水脈が震えたが、声は出ない。
成海さんは、すぐには慰めなかった。
「理由を置かれた可能性はあります」
「なら、私の信念まで国家の備品です」
「いいえ」
成海さんは、私の発令案を閉じた。
「作られた入口から入っても、今どちらへ歩くかは、あなたのものです」
「成海さんは、そう思えますか」
彼女は答えられなかった。
自分の再配置案を開く。
作成日は空白。
更新欄には、同じ文面が十七回繰り返されている。
受理官と契約官は代替可能。
境界決裁官は継続使用。
最後の採用理由だけが、一行だった。
境界中核につき、本人意思の確認を要しない。




