第12話 処理済み怪異、いっせい再申請
午前四時十一分五十九秒。
地下十三階で、私たちは成海さんを見ていた。
机には十七枚の死亡届。
端末には、人事案の一文。
境界中核につき、本人意思の確認を要しない。
午前四時十二分。
秒針が重なる。
成海さんは消えなかった。
「……生きてます?」
「今のところ」
「もっと喜びません?」
「死亡予定時刻を超えた経験がないので、比較対象がありません」
山本さんが胸へ手を当て、長く息を吐いた。声は戻っていない。代わりに水文字で『保留成功』と書く。
ハンコさんが成海さんの手袋へ飛びついた。
ぽん。
「生存確認」。
「公印の語彙として正しいんですか、それ」
次の瞬間。
ファクスが爆発した。
◇
紙だった。
火ではない。
全国から届いた申請書が白い噴煙になり、天井まで吹き上がった。
「うわっ!」
ハンコさんが紙の雪崩に飲まれる。
電話が鳴る。
庁内端末が鳴る。
私用携帯が鳴る。
黒電話、無線機、誰も接続していないオンライン会議、床下の伝声管まで鳴り始めた。
窓のない地下十三階へ、伝書鳩が一羽飛び込んでくる。
「どこから入ったの!?」
鳩は机へ着地し、足の筒を外す前に秘密保持誓約書を差し出した。
「情報セキュリティだけ完璧!」
さらに、成海さんが一度まばたきした。
「今、夢枕へ一件来ました」
「起きてる人の夢枕を問い合わせ窓口にしないで!」
山本さんが申請書を一枚拾う。
処理済みだった赤目貯水池。
受付番号の上から、赤い文字が浮かぶ。
再申請。
百笑祭も、古墳境界結びも、同じだった。
全国の書類から「処理済」の印が剥がれ、床を這い、まとめてごみ箱へ飛び込んでいく。
「終わった案件が、全部戻ってきてます」
壁の地図へ赤い点が灯る。
一、十、百。
数えられなくなった。
◇
『ダム湖がまた空へ上がりました!』
赤目貯水池の管理所長が叫ぶ。
画面の後ろでは、湖の半分が逆さになり、魚と道路標識が空を泳いでいた。
『ミツハが話しません。町名板を抱えたまま、水位操作へ応じない!』
別の画面では、笑門村のスマートフォンが一斉に笑っている。
『礼世さん! 百笑さまが、祭りを毎日にする言うてる!』
門脇ナギの顔の横で、村長が泣きながら笑っていた。
道路予定地からは、古墳の裸足が再び生えている。
現場担当者がカメラを下へ向ける。
『足が増えてます! しかも横断歩道でちゃんと止まります!』
「交通法規を守る死者を急いで止めてください!」
私は電話を三本同時に取った。
「全件、順番に聞きます。まず人命に危険のある案件から――」
山本さんが受話器を二本奪い、ホワイトボードへ大きく書いた。
『一件ずつ聞いていたら、最後の申立人が百年待つ』
「でも、聞かずに分類したら、また所管で切り捨てます」
『聞く。だが、同じ訴えを束ねる』
彼女は三つの画面を指した。
赤目貯水池では、戸村ヨシさんが町名板の前に立っている。
『ヨシさん。ミツハへ、今の町と昔の町、両方の名を呼んでください』
山本さんが水文字で指示する。
ヨシさんは、赤目旧町、現在の赤目地区、自分が今暮らす家の住所を一つずつ読んだ。空へ上がっていた湖が、それ以上は動かなくなる。
笑門村では、ナギが録音機を抱えた。
「百笑主へ、笑いを止めろと言わないで。一人分だけ、今年の話を渡して」
『今年は、礼世さんが声をなくしたけど、字ぃは前より短うなった』
「そこを笑い話にするの!?」
山本さんが画面へ『後日訂正要求』と出す。百笑主の強制笑いが一拍だけ、本物の笑いへ変わった。
古墳では、道路担当者が裸足の列へ工事用の誘導棒を振っている。
『行き先未確認の方はこちら! 氏名確認済みの方は右! 横断歩道は二列で!』
「怪異対応が交通整理になってる」
成海さんは遠隔で境界を三つに分けた。帰属先がある死者、調査を待つ死者、人へ伝えたいことがある死者。最終決裁はしない。仮の待機場所だけを作る。
一度解いた案件だから、誰が何を怖がり、どの言葉なら届くかを私たちは知っていた。
同時に、前回と同じ解決では足りないことも分かった。
再発しているのは、個別の約束が破れたからではない。もっと下にある何かが、全件を引き戻している。
山本さんは申請書を床へ並べた。
生命危険。
境界崩壊。
名称消去。
担当変更。
供出予告。
声が出なくなってから、山本さんの文章は短くなった。
以前なら前提、定義、例外、準拠法まで一息に書いた人が、今は必要な責任だけを五文字で切る。
短いから、逃げ道がない。
「私は、同じ声を探します」
手を打った。
一拍。
二拍。
三拍。
電話、ファクス、夢枕、鳩の喉。
全国の雑音が、一つの輪へ入る。
◇
最初は悲鳴だった。
水が戻る。
墓が開く。
祭りが止まらない。
けれど、その奥に同じ言葉がある。
『名前が消える』
ミツハの声。
『次の担当者は、私を知らない』
古墳の死者。
『今年の契約を、また誰か一人へ押しつける』
百笑主。
知らない山、川、橋、病院、トンネルからも続く。
『次は私が供出される』
『処理済みにされたくない』
『担当者が変わるたび、最初から苦しまなければならない』
彼らは暴れたいのではない。
成海さんの再配置が止まったことで、自分たちの契約も更新されなくなると気づいた。
更新されなければ消える。
更新されれば、また誰かが差し出される。
「全件、同じ契約につながっています」
頭へ流れ込む声が多すぎて、視界が白くなる。
成海さんが私の肩を支えた。
「受理を切ってください。零号が私の再配置を要求しています」
「零号?」
「個別案件より前にある、境界維持の基礎番号です」
彼女は朱印を握った。
「私を予定どおり再配置すれば、全件は止まります」
全国の警報が、その言葉を待っていたように鳴る。
最短の解決だった。
成海さん一人を交換すれば、ダムも祭りも墓も静まる。
「却下します」
「斎藤さん」
「本人意思を確認しない人事案は、根拠にできません」
「今は何千人もの安全が――」
山本さんが成海さんの前へ、紙を積み始めた。
保留。
保留。
保留。
朱印を押そうとする手元へ、二十枚、三十枚。
「山本さん、それ物理的に邪魔してるだけでは」
彼女は力強く頷いた。
成海さんが横から印を出す。
ハンコさんが飛びつき、朱印の柄へ噛みついた。
「ハンコさんまで」
かたかたと首を振り、離さない。
「一人で最終決裁しない。古墳で決めたでしょう」
「明文化されていません」
「今、私の名前で明文化します!」
成海さんの口元が、ごくわずかに緩む。
その隙に、山本さんが新しい契約を書いた。
現状変更を停止。
人命保護を優先。
名称削除を禁止。
個別契約は失効させない。
期限、七十二時間。
異議申立先、省庁怪異対策室。
六行。
彼女がこれまで作った、最も短い契約だった。
青い水脈が書類の山から全国へ走る。
けれど、一か所だけ線が切れた。
北の海沿いにある古い病院。画面では、空の病室へ看護師が名札を並べている。患者名が一人ずつ消え、電子カルテが『該当者なし』へ変わっていく。
『名前が消えた患者は、避難名簿へ載せられません!』
「氏名欄を空白にしないでください。仮称でいい。病室番号と、本人が覚えている呼び名を入れて!」
『それでは正式登録になりません』
「正式になるまで、人が消えるのを待つんですか!」
看護師は一秒だけ迷い、名簿へ『三〇二号室・ゆきさん』と書いた。
青い線がつながる。
山本さんが、その仮称を契約の相手方へ加えた。
名前を失っても、呼ばれる場所があれば、まだこちら側へ留まれる。
「これだけで通じるんですか」
山本さんは指を一本立て、空中へ書いた。
『守れない約束を削った』
画面はさらに増えた。
海沿いの防潮堤では、波が沖ではなく町の井戸へ流れ込んでいる。閉鎖された小学校では、卒業名簿から消された児童の名を、始業ベルが一人ずつ読み上げていた。
『駆除許可を』
現地担当から届いた文字へ、私は首を横に振る。
「まず、攻撃している者と、帰る場所を探している者を分けてください」
『その間に被害が出ます』
「だから成海さんが、分けるための時間だけ作ります」
成海さんは大きな最終決裁を使わず、海岸へ十分、小学校へ十五分の保留境界を置いた。
ぽん。ぽん。
四件目で指が震える。五件目へ朱印を置こうとすると、ハンコさんが印の下へ身体を滑り込ませた。
ぽん。
「過労」。
「まだできます」
ハンコさんは首を横へ振った。
「では三分休みます。その間はお願いします」
一人で全部を閉じる代わりに、誰かへ途中を渡す。
それ自体が、成海さんにとって新しい処理だった。
◇
私は全国の声へ呼びかける。
「個別に処理済みへ戻しません。皆さんを、一つの共同案件として仮受理します」
申請番号欄が空白だった。
成海さんが、朱印を噛まれたまま答える。
「基礎案件なら、番号は零号です」
「零号共同申立。七十二時間だけ、全件の状態を固定してください。私たちは原契約を探し、申立人の名前と要求を確認します」
『また忘れる』
どこかの橋が言う。
「忘れたら、再申請してください」
『また担当が変わる』
「変わっても、この番号を消せない形にします」
『お前も選ばれた役人だ』
「それでも今、私の名前で受けます」
受理欄へ署名した。
斎藤葵。
山本さんが契約官欄へ、山本礼世。
成海さんは最終決裁ではなく、「七十二時間の境界保留」と記す。
三つの名が並ぶ。
ハンコさんが朱印を離し、書類へ飛んだ。
ぽん。
仮受理。
全国の音が止まった。
空の湖が半分だけ戻る。
スマートフォンの笑いが消え、村長が床へ倒れ込む。
裸足の死者たちは横断歩道の手前で座り、信号が変わるのを待った。
勝ったのではない。
七十二時間、全員で息を止めただけだ。
◇
静まり返った地下十三階で、壁が透けた。
コンクリートの向こうに、水、土、骨、古い地図の層が現れる。
赤い線が、北海道から沖縄まで走っていた。
ダム、山、古墳、海、都市。
すべてが一つの網で結ばれている。
そして、全国の怪異が同じ声で私へ囁いた。
『やっと思い出したか、巫女の役人』
「私は、あなたたちを知ってるんですか」
返事はない。
代わりに、床へ散らばった申請書が一斉に動いた。
空白だった申立人欄へ、同じ文字が浮かぶ。
氏名を奪われた者 一二四七名。




