第13話 怪異は、名前を返せと申しております
零号共同申立の仮受理失効まで、六十八時間。
地下十三階で、怪異の聴聞会を開くことになった。
問題は、会議室予約システムだった。
『出席者の種別を選択してください』
人間。
法人。
国・地方公共団体。
その他。
「水でできた女神、集団化した死者、肉体のない笑い声は、どれでしょう」
山本さんが迷わず『その他』を押した。
「迷いがない!」
画面へ警告が出る。
『その他は三名までです』
「一二四七名いるんですけど」
『会議室定員を超過しています』
「存在の数え方から始める必要がある……」
成海さんが予備椅子を一脚出した。
「代表者三名でよいのでは」
「一二四七名を椅子一脚で代表させるんですか」
「国会より一人当たりの面積は広いです」
「成海さん、どの時代の国会を見てきたんです?」
予約を確定すると、出席者名札が印刷された。
その他1。
その他2。
その他3。
その瞬間、会議室の給水器が逆流した。
「怒ってる! 名札の段階でもう怒ってる!」
ハンコさんが名札へ順番に「失礼」を押した。
◇
代表一人目は、御水守ミツハだった。
会議卓の半分を水面へ変え、古い町名板と住宅地図で顔を作っている。
二人目は、古墳から来た無名の死者たち。
一つの身体へ百を超える白い木札をまとい、顔の位置には何もない。札には『推定成人』『性別不明』『その他遺骨』とだけ書かれていた。
三人目は、百笑祭の百笑主。
姿を作れないため、門脇ナギから借りた古い録音機に入っている。再生ボタンを押していないのに、時々「ふふ」と笑う。
会議用のペットボトルを置くと、ミツハの目が細くなった。
『我を水へ入れて持ち運べると思うか』
「違います。お客様用です」
『その水、どこのものだ』
「庁舎の売店です」
『源流を答えよ』
「会議用のお茶に地理試験をつけないで!」
ペットボトルの中身が蓋を開けずに天井へ逆流した。
百笑主が録音機の中で笑う。
『人の国は、水にまで商品名をつけ、我らからは名を取ったか』
笑いが止まった。
私は、印刷し直した名札を置く。
御水守ミツハ。
古墳無名死者代表。
百笑主。
「仮の呼び方です。間違っていたら、訂正してください」
白札の死者が初めて口を開いた。
『訂正する名が、残っていない』
◇
手を打つ。
一拍。
二拍。
三拍。
朱と金の輪が、会議卓を囲んだ。
「皆さんの申立は、何を求めるものですか」
ミツハの胸で、赤目旧町の地図が広がる。
『我は、かつて赤目水守と呼ばれた。人の水路を守る代わり、人は沈む家と生まれる子の名を我へ知らせた』
「今の契約では?」
『設備付帯現象・水位変動要因』
空中へ、国の管理台帳が浮かぶ。
当事者欄はない。
点検対象、危険度、除去不能、代替費用。
どこにもミツハの名はなかった。
無名死者の木札が鳴る。
『我らは墓を守る者であり、守られる者だった。村ごとに名があり、墓域を移すときは、生者と死者の双方が場所を決めた』
近代の台帳では、『無縁遺骨一括』。
百笑主が低く笑う。
『我は哭き水を鎮める百生守。百の人生を受け取り、山が人の悲しみで崩れぬよう笑いへ変えた』
観光資料では、『地域振興資源』。
「名前を変えられた」
私は言う。
『違う』
ミツハの声が水面を震わせた。
『変えたのではない。相手方から外した』
名前がなければ、契約当事者になれない。
被害者にもなれない。
異議を申し立てても、『設備の異常』『祭祀の老朽化』『自然災害』として処理される。
人間は怪異の働きから利益を受け続ける。
けれど怪異が何を払ったかは、帳簿へ載らない。
「だから、記憶の供出も設備維持費として扱えた」
山本さんが頷く。
声の代わりに、青い契約文字を出す。
『名を消す』
『相手方でなくなる』
『同意が不要になる』
『供出だけ継続する』
四行が鎖のようにつながった。
成海さんの白手袋が、微かに震える。
「一二四七名は、すべて同じ処理を受けたのですか」
『同じではない』
無名死者が答える。
『水は設備へ。土は区域へ。死者は数へ。声は騒音へ。異なる方法で、同じ場所から外された』
「当事者の欄から」
『そうだ』
◇
「なら、名前を返しましょう」
私はすぐに言った。
「原台帳を調べて、一二四七名全員の本名を復元する。契約相手として登録し直す。補償と異議申立の権利も――」
「待ってください」
成海さんの声が、輪の中へ落ちた。
「名は、呼び札だけではありません。役割と境界を伴います」
「でも、奪われたままにはできません」
「一度に返せば、奪われる前の契約も同時に戻ります」
彼女はミツハを見る。
「赤目水守の完全な名が戻れば、ダム建設前の水路を守る義務も復活する。現在の川を旧流路へ戻そうとするかもしれません」
ミツハは否定しなかった。
無名死者へ向く。
「墓守の名が戻れば、今は住宅地になった旧墓域へ死者が帰る可能性があります」
白札がざわめく。
百笑主へ。
「百生守の全権が戻れば、祭りを行わない周辺集落まで哭き水の範囲へ含まれる」
『それが元の約定だ』
「今そこに暮らす人は、その約定を知りません」
成海さんは私を見る。
「正しいものを急いで返すことで、別の誰かを同意なく当事者へ戻します」
胸へ刺さった。
父の代わりに答えた過去。
聞こえない声を助けたいと思いながら、待てずに自分の言葉へ置き換えた。
「でも、ゆっくりしている間に仮受理が切れます」
「速度を決めるのも、当事者です」
成海さんは静かだった。
その静かさに、過去の何人分もの後悔が混じっていた。
◇
会議室の扉が開いた。
「そこまでです」
内閣官房特殊事案証拠保全班、御厨真昼。
赤目ダムで会ったときと同じ濃紺の制服。手には分厚い命令書。後ろの職員たちは、怪異三名分の保全箱を持っている。
「零号共同申立に係る記録を、証拠保全対象へ指定します。代表者の身柄、木札、録音機、台帳写しを提出してください」
百笑主が録音機から笑った。
『我を箱へ入れるのか』
「防音仕様です」
『人の冗談は、時に怪異より冷たいな』
「御厨さん。申立内容の特定中です」
「だから止めます。名前の全面復元は認められません」
「国が奪った名前です」
「返した瞬間に、現在の土地登記が無効だと主張する者が出ます。補償済みの家族へ返還請求が届く。宗教団体が祭祀権を争う。無縁とされた遺骨のDNA照合を、望まない遺族へ迫る者も出る」
御厨さんは机へ資料を置いた。
匿名化された相談記録。
水没地から離れ、出自を子どもへ伝えていない人。
古い墓の存在を巡り、家族が分裂した例。
怪異の名を利用して寄付を集めた団体。
「秘密にすることで生きられた人もいます」
「だから、名前を奪われた側は黙り続けろと?」
「違います」
御厨さんは即答した。
「返す順番と、公開範囲と、責任者を決めろと言っています。真実は正しい。正しい刃物だから、誰が持つかを決めなければ人を切る」
彼女の完璧な命令書へ、ハンコさんが歩み寄った。
ぽん。
「保留」。
「正式命令です」
ぽん。
「保留」。
「二回押しても効力は変わりません」
ハンコさんは御厨さんの靴へ「頑固」を押した。
「そこは公文書ではありません」
御厨さんの表情が、初めて少しだけ崩れた。
◇
御厨さんの言うことは、間違っていなかった。
だから、全面公開はやめた。
全面放棄も、やめた。
「本名を今すぐ公開しません」
私は新しい申立書を出す。
「ただし、名前を奪われた事実を理由に、当事者資格を認めます」
「仮名で契約主体を作るつもりですか」
「仮名ではありません。現在の共通状態を名称にします」
申立人欄へ書く。
名無し一二四七名共同申立人。
「個別の本名は封印別紙。本人が望んだ範囲だけ、段階的に照合する。公開しない権利も、名を取り戻す権利も、どちらも申立人へ戻す」
山本さんが文面を読む。
喉に手を当てた。
青い水脈が一度だけ強く光る。
「名前を返せなくても、奪われた事実は、相手方資格になります」
声が出た。
掠れていた。
それでも、山本礼世の声だった。
「山本さん!」
「残りは……筆談で」
すぐに声が消える。
彼女は顔をしかめ、契約を続けた。
仮登録期間、三十日。
個別名の公開は本人同意制。
土地・遺骨・祭祀に影響する変更は、関係者聴聞後。
異議申立先、省庁怪異対策室。
御厨さんは文面を読み、長く黙った。
「証拠保全命令は維持します。ただし、共同申立人としての登録を妨げない。別紙は私の班で封印保管します」
「信用していいんですか」
「信用ではなく、保管責任者として私の名を記録してください」
御厨真昼。
自分の名前で責任を負った。
ハンコさんが、ようやく命令書へ「保留」を一つだけ押す。
差し戻さなかった。
◇
仮契約が成立すると、三人の怪異から白い光がほどけた。
ミツハの地図へ、赤目水守の古い字が一瞬戻る。
百笑主の録音機から、百人分の安堵が漏れた。
無名死者の札には、まだ本名がない。
けれど『その他』の文字だけが剥がれ落ちた。
「七十二時間の仮受理は、共同申立として更新します」
成海さんが決裁しようと一歩出る。
そのとき。
ミツハが水の身体を低くした。
無名死者が膝をつく。
百笑主の録音機まで、机の上で成海さんへ向きを変えた。
『零号の扉よ』
一二四七の声が重なる。
『我らを、覚えているか』
成海さんは動かなかった。
「……いいえ」
白手袋の指が震える。
「申し訳ありません。私は、何も」
言葉の途中で、涙が一滴落ちた。
本人は泣いていることに気づかず、頬へ触れる。
「なぜ」
無名死者が、胸の木札を一枚外した。
何百年も水と土へ削られた古い札。
それを、成海さんの前へ差し出す。
表には、彼女の名ではなく、本来の役職が刻まれていた。
八洲黄泉戸 第一署名者。




