第14話 行間に国家が隠れている
山本さんの声は、完全には戻らなかった。
一時間に三十語。
喉に残った水脈が、契約として意味のある言葉だけを三十語まで通す。使い切ると、次の一時間まで声が出ない。
私はホワイトボードへ大きく書いた。
山本礼世・現在の発話残数 三十。
「おはようございます」
山本さんは黙って頭を下げた。
「体調は?」
親指を立てる。
「朝ごはんは?」
無視。
「鮭、おかか、梅なら?」
眼鏡の奥の目が細くなる。
「無駄話へ使わない覚悟がすごい」
ハンコさんが私の口へ「節約」を押した。
「私の発話まで予算管理しないで!」
山本さんが一語だけ使った。
「静粛」
残り二十九。
「その一語、私に使う価値ありました?」
彼女は深く頷いた。
◇
八洲黄泉戸と刻まれた木札は、内閣官房の特別閲覧室へ運ばれた。
木札の裏に刻まれた古い管理番号を、書庫で作った全角半角の異同一覧へ照合すると、『該当なし』だった一冊が検索結果へ戻った。
久世真臣からは、原本の限定閲覧を認めるという短い指示が届いた。理由は書かれていない。こちらが何を知るかまで、見られている気がした。
御厨真昼が監視役として同席している。
机の中央には、ようやく見つかった『八洲継続協定・原決裁』。
厚さは辞書三冊分。
大部分が黒塗りだった。
「公開できない箇所が多すぎません?」
「公開していません。限定閲覧です」
「限定しても読めないなら、閲覧というより黒色鑑賞会です」
御厨さんは表情を変えず、注意事項を読み上げた。
「撮影、複写、転記、口外、念写、夢への持ち出しを禁止します」
「最後の二つ、違反をどう検査するんですか」
「夢枕の監査担当がいます」
「公務員の職域が広すぎる」
成海さんは木札へ触れたまま、黒塗りの文書を見ていた。
「知っている気がします」
「思い出せそうですか」
「思い出すと、何かが閉じる気もします」
その言葉を聞き、御厨さんの指が非常停止ボタンへ近づいた。
「記憶回復に伴う境界変動を確認した場合、閲覧を中止します」
「何も知らないまま使うことは止めないのに?」
「今ここで崩落を起こせば、知る人も知らない人も巻き込みます」
御厨さんは正しい。
正しいまま、私たちを止める。
◇
最初の頁を開くと、黒塗りが逃げた。
文字どおり、黒い帯が紙から這い出し、机の下へ滑り込んだ。
「機密が物理的に逃亡しました!」
ハンコさんが追う。
黒塗りは椅子の脚を回り、書棚へ飛び、別の文書へ貼りついた。
そこには『職員食堂カレー価格改定』とある。
「国家機密でカレーを黒塗りにしないで!」
黒い帯の下から一行だけ見えた。
土地、水、死者、人の四者は――
すぐ別の黒塗りが覆う。
「山本さん、行間を読めますか」
彼女は原決裁へ指を置いた。
水脈読解。
契約書の文字ではなく、誰が何を引き受けたかを水の流れとして読む力。
紙の繊維へ青い線が入り、黒塗りの下を走る。
机の上へ、四本の水路が立ち上がった。
茶色い土の流れ。
青い水。
白い骨の光。
人の声を含む透明な流れ。
山本さんが空中へ書く。
『原協定は、相互契約』
黒塗りの隙間から古い条文が浮かんだ。
土地は住処を支える。
水は命を巡らせる。
死者は境を守る。
人はその名を記し、役目を忘れない。
誰か一者が供物になる契約ではない。
四者が互いを当事者と認め、負担が偏れば協議を開く。
撤回条項もあった。
名を失った者、役目を果たせなくなった者、継続を望まない者は、次の合意ができるまで供出を停止できる。
「最初から、止める権利があった」
ミツハたちが求めたものは、新しい権利ではなかった。
消された古い約束だった。
ハンコさんが黒塗りを一枚捕まえ、印面で押さえ込む。
その下から署名欄が現れた。
赤目水守。
八洲土守連名。
百生守。
人界代表。
そして、境界署名者。
八洲黄泉戸 第一署名者 春夏冬成海。
「この署名は、あなたの字ですか」
成海さんは、紙へ手を近づけた。
触れる寸前、部屋の温度が下がる。
◇
海辺の白い町が見えた。
今の成海さんより、少し髪の長い女性が、古い神殿のような場所に立っている。
足元では、土、水、死者、人の代表が輪を作っていた。
『一度だけなら』
女性は言った。
『次の協議まで、私が扉になります。ただし、次は必ず全員で決めてください』
筆を取る。
春夏冬成海。
署名した瞬間、海と陸の境へ朱色の線が走った。
記憶はそこで切れた。
◇
成海さんが手を離す。
「最初の私は、一度だけと言っています」
「証拠として採用できるほど明瞭ですか」
御厨さんが聞く。
「いいえ。私の記憶か、文書が見せた再現か、区別できません」
自分に不利でも、成海さんは境界を曖昧にしない。
御厨さんは記録へ『参考情報』とだけ書いた。
山本さんが次の頁へ水脈を流す。
四本だった契約の線が、途中から一本へ束ねられていた。
改定一号。
改定二号。
改定七号。
時代を下るごとに、怪異側の名前が消える。
協議条項が消える。
供出停止権が消える。
最後に、境界署名者の撤回条項が黒く塗り潰されていた。
代わりに追記される。
国家が存続する限り、境界署名者の同意は継続する。
再配置された人格、身体、記憶の異同は、契約継続へ影響しない。
「人が変わっても、署名だけ同じものとして使う」
七歳の山本さんへ結ばれた契約より、さらに長い。
死んでも終わらない。
忘れて拒否できなくなったことを、同意の継続と呼んでいる。
山本さんの水脈が激しく波打った。
発話残数は二十九。
彼女はまだ使わない。
「この改定は、誰が決めたんですか」
御厨さんが無言で最終頁を開く。
決裁日、白浜境界崩落の三日後。
緊急権限による暫定改定。
決裁者、久世真臣。
当時二十一歳。
頁の最下部に、米粒ほどの脚注があった。
緊急状態が解消した後も、代替制度が整うまで本改定を継続できる。代替制度の完成時期は、決裁者が別途判断する。
「終了条件を、始めた人だけが決めるんですか」
ハンコさんが脚注へ飛び降りた。
ぽん。
「却下」。
公印を押された黒い文字が、ミミズのように暴れて逃げる。ハンコさんは二度、三度と追いかけ、最後は脚注の上へ四角い身体で座り込んだ。
「気持ちは分かりますけど、昔の決裁は今の公印で無効にできません」
ハンコさんは悔しそうに角を床へ打ちつけた。
正しく怒っても、権限がなければ変えられない。
その姿は、私たちとよく似ていた。
「二十一歳で、こんな契約を?」
「白浜では、生者と死者の境が消えました」
御厨さんの声が低くなる。
「避難者は、家族が生きているか死んでいるか分からなくなった。死亡確認も救助順位も成立しない。海へ入った者の名前が一晩で消え、役所の住民台帳からも家族の記憶からも抜け落ちた」
彼女は被害一覧を閉じる。
「久世審議官は、自分の署名で崩落を止めました。改定がなければ、翌朝までに境界は三県へ広がっていたという推計です」
「だから、成海さんの同意を永久にした」
「犠牲が正しいとは言いません。あの時、ほかに間に合う方法がなかった」
「その『暫定』が、何年続いてるんですか」
御厨さんは答えなかった。
答えそのものが、文書の日付にあった。
◇
「この改定は無効ですか」
私は山本さんを見る。
「無効なら、今すぐ止められる。成海さんの再配置も、怪異の記憶供出も」
山本さんは眼鏡を外した。
発話残数二十九。
喉へ手を当てる。
「緊急権限、決裁形式、当時の権限者。成立要件は満たしています」
言葉が一つずつ、青い波紋になった。
「契約は、有効です」
胸が落ちる。
御厨さんが目を伏せた。
山本さんは続ける。
「ですが、正当ではない」
水脈が原決裁を貫いた。
「自由意思を失った後継人格へ、同意を更新していない。契約相手を消し、撤回手段を奪い、利益だけ受けた」
ホワイトボードの発話計が、残り一語で止まる。
最後の一語を、山本さんは成海さんへ向けた。
「選べ」
声が消えた。
成海さんは、原決裁を見つめる。
「有効だけど、不正当」
私は言う。
「なら、不正当な部分を今すぐ止めましょう」
山本さんが首を振った。
黒塗りの頁へ、青い図を描く。
八洲継続協定から、全国四十七の線が伸びる。
ダム、河川、墓域、火山、都市の地下。
一つを引き抜くと、ほかの線が連鎖して切れた。
契約は国土の安全網へ組み込まれている。
不正な柱でも、屋根が載っている。
いきなり抜けば、下にいる人が潰れる。
「正しくない制度ほど、長く使うと止めにくくなる」
御厨さんが言った。
「それを理由に止めなければ、永遠に止まらないです」
「だから代案が必要です」
「代案が完成するまで、成海さんが払う?」
御厨さんは答えない。
成海さんが最終頁をめくった。
黒塗りが一斉に逃げ、最後の条項だけが露出する。
境界署名者が継続を拒否した場合。
一、境界署名者を再配置し、同意状態を復旧する。
二、再配置不能または継続拒否の場合、国家終了手続へ移行する。
「拒否することは、できます」
成海さんが言う。
「拒否したあと、国が何をするかまで決められているだけです」
彼女は閲覧室の備付用紙を一枚取った。
上部へ、整った字を書く。
退職願。
「成海さん」
「最初の私が一度だけと言ったなら、十八回目の私は、その続きを選びます」
理由欄へ一行。
本人意思による。
成海さんは原決裁を閉じた。
「では、拒否します」




