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第15話 春夏冬成海、十八回目の退職願

平成元年。


 春夏冬成海は、罫線入りの便箋へ書いた。


 退職させてください。


 平成十年。


 ワープロで印字された用紙へ、手書きで一文を足した。


 記憶を返してください。


 平成二十二年。


 春夏冬成海は、職員番号欄を空白にしたまま書いた。


 私は職員ではないのでしょうか。


 令和五年。


 申請画面へ入力する。


 次の自分へ仕事だけを残すことに、同意しません。


 時代の違う十七人が、同じ机へ座っていた。


 髪の長さも、服も、筆記具も違う。


 顔だけが同じだった。


 机の端には、古い公印がいる。


 現在のハンコさんより角張り、手足もない。


 十七人は一人ずつ、退職願を差し出した。


 公印は、どの紙にも押さなかった。


 押せなかった。


 申請者欄に、人として登録された者が一人もいなかったからだ。


 十七枚の紙は、未決裁のまま同じ引き出しへ重なった。


 そして十七人は、一人ずつ仕事へ戻り、一人ずつ死んだ。


     ◇


 十八人目の春夏冬成海は、地下十三階の机で退職願を書き終えた。


 宛先――私を所有しているすべての部署。


 退職希望日――本日。


 退職理由――本人意思による。


「『一身上の都合』ではないんですね」


 私が聞くと、成海さんはペンを置いた。


「私の身体が、私の都合であると確認したかったので」


 山本さんが横から、退職理由の候補欄を指す。


 職場環境。


 上司不在。


 業務内容との不一致。


 死亡回数過多。


「最後だけ専用項目ですよね」


 成海さんは真剣に考えた。


「十七回は、過多に含まれますか」


「一回目から多いです!」


 笑いかけて、笑えなかった。


 退職願が受理されたら、何が起きるのか分からない。


 協定には、再配置または国家終了手続とあった。


 成海さんが役目を離れれば、日本中の境界が切れるかもしれない。


 それ以上に、彼女自身が消えるかもしれない。


 私の手が、紙へ伸びた。


 破るつもりだったのか。


 隠すつもりだったのか。


 自分でも分からない。


 山本さんが手首をつかんだ。


 声は出ない。


 けれど、首を横へ振る目は、どんな契約文より明確だった。


「でも、受理したら成海さんが――」


「生きてほしい、と言ってくださるんですね」


 成海さんは穏やかに言った。


「はい」


「それは、斎藤さんの願いです」


 退職願を、自分の側へ引き戻す。


「私の申立ではありません」


 胸の奥を、正しい刃で切られた。


「私は、あなたを助けたいだけです」


「助ける先を、本人に決めさせずに?」


 言い返せなかった。


 父が言葉を探している間、代わりに答えた日。


 名前を奪われた怪異へ、すぐ本名を返そうとした日。


 私は、声を聞くことを信念にしている。


 そのくせ、大切な人が自分の望まない答えを出しそうになると、聞く前に止めようとした。


     ◇


 山本さんは、白いカードを三枚並べた。


 一枚目。


 死にたい。


 二枚目。


 境界の役目をやめたい。


 三枚目。


 記憶を持ったまま、生きたい。


 成海さんへ、一枚ずつ見せる。


 彼女は一枚目を長く見た。


「分かりません」


 二枚目。


「分かりません」


 三枚目。


「それも、分かりません」


「選びたくないんですか」


「選択肢を持ったことがないんです」


 成海さんは、自分の答えに戸惑っていた。


「案件が来る。閉じる。記憶を失う。再配置される。次の案件が来る。私には、それ以外の順番がありませんでした」


 山本さんが四枚目のカードを置く。


 今は決めない。


 成海さんは、その文字へ指を置いた。


「これも、選択なんですね」


 彼女の声が、わずかに揺れた。


     ◇


 まず、通常の退職手続を試した。


 人事システムへ氏名を入力する。


 春夏冬成海。


『該当する職員は存在しません』


 職員番号は空白。


 生年月日は再配置のたびに違う。


 所属欄へ省庁怪異対策室と入れる。


『当該部署に定員はありません』


「私たち三人、何として出勤してるんですか」


 山本さんが自分の身分証をかざす。


『外部専門員』


 私の身分証。


『出向中』


 成海さん。


『設備接続中』


 画面へ、退職ではなく設備管理メニューが開いた。


 稼働停止。


 保守点検。


 部品交換。


 廃棄。


「閉じてください」


 私が言うより先に、成海さんが画面を閉じた。


 顔は平らだった。


 白手袋の指だけが強く握られている。


 秘密予算台帳を開く。


 境界中核設備。


 資産番号――YOMI-00。


 取得年月日――記録なし。


 数量――一。


 現在価額――算定不能。


 更新回数――十七。


 処分制限――国家存続期間中。


 人事記録にはいない。


 資産台帳にはいる。


 国は彼女の給料を払っていない。


 維持費を計上している。


 休暇を認めていない。


 稼働停止を予定している。


 死亡を届けていない。


 機能停止を記録している。


「だから、ハンコさんは」


 三人で初めて通した稟議を思い出す。


 私と山本さんの欄には受理。


 成海さんの欄だけ、何も押さなかった。


 ハンコさんは机の端で小さくなっていた。


「嫌っていたんじゃないんですね」


 ハンコさんは激しく首を横へ振る。


 自分の印面を床へ押した。


 古い規程が浮かぶ。


 公印は、国民、職員、法人その他権利主体から提出された意思表示を受理する。


 その下へ、赤い警告。


 対象資産からの申請は、権限外。


 押さなかったのではない。


 押せなかった。


 人として登録されていない成海さんの意思を、国の公印は受け取る権限さえ与えられていなかった。


「困らせていたのは、私ではなく規程だったんですね」


 成海さんが手を差し出す。


 ハンコさんは、その手へ乗れなかった。


 印面を伏せ、震えている。


 十七回、同じ紙の前で何もできなかった公印のように。


     ◇


 成海さんは白手袋を外した。


 さらに、スーツの袖を肘までまくる。


 腕には、朱色の輪が並んでいた。


 十七本の完成した公印痕。


 旧字体の印。


 角の欠けた印。


 戦後の略字。


 現在の電子印を無理に焼きつけたような四角い痕。


 時代ごとに違う国家の印が、同じ腕へ重なっている。


 十八本目だけは、三か所が途切れていた。


 古墳で、私たちが分割決裁した痕だ。


「大規模な境界を閉じるたび、ここへ押されます」


 成海さんは一本目へ触れた。


「身体を失う印」


 二本目。


「個人記憶を廃棄する印」


 三本目。


「次の私へ、職務記憶だけを移す印」


 十七本を数え終え、未完成の十八本目を見る。


「これだけが、私一人の形ではありません」


 私と山本さんが、彼女を生かした証拠。


 同時に、彼女へ生きることを押しつけた可能性のある証拠。


「斎藤さん」


 成海さんが私を見た。


「あなたの力なら、私の本音を聞けますか」


 私は両手を上げかけた。


 神楽交渉を使えば、隠している声は出る。


 でも、それは拒みたい言葉まで引きずり出す力だ。


「聞けます」


 一度、手を下ろす。


「ただし、無理に言わせることになります」


「では、聞かないんですか」


「あなたが、聞いてほしいと言うなら聞きます」


 成海さんは、三枚の選択肢と四枚目の『今は決めない』を見た。


 それから、自分の退職願へ触れる。


「聞いてください」


 初めて、彼女が自分で選んだ依頼だった。


     ◇


 一拍。


 二拍。


 三拍。


 朱と金の輪が、地下十三階の床へ広がる。


 音が消えた。


 私は問いかける。


「春夏冬成海さん。あなたは、死にたいんですか」


 彼女の口が開く。


「今すぐ死にたいわけではありません」


 平らだった声に、いくつもの温度が戻る。


「明日の鮭おにぎりが、今日と同じ味か確かめたい」


 目から涙が落ちる。


「一二四七名を見て泣いた理由を、思い出したい」


 白手袋のない手が震える。


「山本さんの名前を、もう間違えたくない」


 山本さんが唇を噛む。


「斎藤さんが、なぜ私を失いたくないのかも、聞きたい」


 神楽は、問いかけた者の本音も隠させない。


 今度は私の喉が勝手に動く。


「怖いんです」


 言葉があふれた。


「あなたが辞めたいと言ったら、応援しなきゃいけない。死にたいと言ったら、聞かなきゃいけない。でも私は、あなたを失いたくない。だから、選択を聞く前に紙を破ろうとした」


 涙で視界がにじむ。


「声なきものの窓口になると言いながら、あなたの答えだけは怖くて聞きたくなかった」


 山本さんの喉にも、青い水が集まった。


 一時間の語数制限を越えているはずなのに、神楽の輪の中では本音だけが声になる。


「私も、生きてほしい」


 かすれた声。


「でも、それを契約にはしない」


 山本さんは成海さんを見る。


「あなたが選ぶまで、私は条件を作る」


 成海さんの涙が、白い便箋へ落ちた。


「私は、役目を全部捨てたいのかも分かりません」


「はい」


「死者を閉じずに済むなら、閉じたくない。でも、帰る場所を決められず苦しむ者がいるなら、決めたいと思う自分もいます」


「はい」


「ただ」


 彼女は十七本の印へ手を置いた。


「次の私へ、選ばなかった人生を押しつけたくない」


 声が震えた。


「忘れれば耐えられるからと、忘れる役を次へ回したくない」


 不完全な十八本目へ触れる。


「私で、終わらせたいんです」


「命を?」


「いいえ」


 成海さんは、はっきり首を横へ振った。


「私の同意を、次の私の同意として使うことを」


 音が戻った。


     ◇


 山本さんは退職願を引き寄せた。


 破らない。


 上から新しい表題を書いた。


 境界中核としての無期限提供停止申立。


「退職できないなら、同意を止めます」


 声は再び出なかったが、水文字が強く光る。


 八洲継続協定の第一署名者として、現人格の同意を撤回する。


 再配置、記憶廃棄、身体再構成を停止する。


 本人の個別同意なく、境界決裁の代替担保へ使用しない。


 申立日から三十日間、撤回権は本人だけが持つ。


 三十日以内に新たな協定が成立しなければ、国家終了手続の審査へ移行する。


「無期限なのに、三十日?」


 私が聞く。


 山本さんが書く。


『提供停止は無期限。三十日は、本人が考え直す権利を国に奪わせないための保護期間』


「国からの撤回圧力は?」


『本人以外による撤回は無効。説得、威迫、記憶操作を含む』


「山本さん、声を失ってから文章が短くて強いです」


 彼女は一瞬考え、余白へ書き足した。


『斎藤葵による感想も撤回圧力に含む』


「そこまで封じなくても!」


 成海さんが、ほんの少し笑った。


 鮭おにぎりを選んだときより、確かな笑顔だった。


     ◇


 申立人。


 春夏冬成海。


 共同代理人。


 受理官、斎藤葵。


 契約官、山本礼世。


 私たちは署名した。


 最後に、成海さんが自分の名を書く。


 十八回目で初めて、退職させられる次の自分のためではなく、今ここにいる自分のために。


 書類をハンコさんの前へ置く。


 ハンコさんは動かなかった。


 印面を上げる。


 下げる。


 また上げる。


 規程上、対象資産の申立は受理できない。


 紙へ押せば、権限違反になる。


「ごめんなさい」


 成海さんが言った。


「困らせてしまいました」


 ハンコさんが、勢いよく首を横へ振った。


 机を走る。


 申立書を飛び越える。


 成海さんの裸の手へ跳び乗った。


「え」


 小さな身体を震わせ、手の甲へ全身で押しつける。


 ぽん。


 朱色の文字が浮かんだ。


 受理。


 紙ではない。


 人事記録でも、資産台帳でもない。


 春夏冬成海が今ここで示した意思そのものへ、公印が押された。


 ハンコさんは規程を破った。


 山本さんは契約を破った。


 私は、聞きたくない声を聞いた。


 三人と一体で、ようやく一人分の申立を受け取った。


「受理しました」


 私が言う。


「春夏冬成海さん。あなたの提供停止申立を、国家に対する正式な陳情として扱います」


 成海さんは、手の甲の印を見つめた。


「私の書類が、通ったんですね」


「書類より先に、あなたが通りました」


 その瞬間。


 地下十三階が割れた。


     ◇


 朱色の亀裂が、床から壁、天井へ走る。


 霞が関の地下を抜け、日本列島へ広がっていくのが見えた。


 警報灯が四十七個、同時に点灯する。


 北海道・北辰封土、圧力低下。


 青森・恐山境界、逆流予兆。


 京都・平安東端、死者数不一致。


 奈良・山稜結び、再審請求。


 熊本・火輪封土、温度上昇。


 沖縄・海門境界、外側から応答。


 画面が警告で埋まる。


「停止申立が、全国へ伝わった」


 成海さんの声は震えていた。


 電話が鳴る。


 黒電話ではない。


 これまで一度も光らなかった、赤い直通回線。


 表示名は、内閣官房国土基盤保全監室。


 私が受話器を取る。


「省庁怪異対策室、斎藤です」


『斎藤葵』


 若くも老いても聞こえる男の声だった。


『君たちは今、日本国の生命維持装置を止めた』


「久世真臣さんですね」


『四十七の封土が、春夏冬成海の継続同意を前提に動いている。七地点で既に圧力が低下した。このままなら、怪異だけではない。水、土地、死者、人の境界が同時に緩む』


 受話器を持つ手が震えた。


 この選択で、傷つく人が出るかもしれない。


 久世は、それを知っている。


 私たちは、まだ代案を持っていない。


 それでも、成海さんを装置へ戻す一言だけは言えなかった。


「では」


 息を吸う。


「装置ではなく、本人と交渉してください」


 電話の向こうで、短い沈黙があった。


『交渉には、対案が要る』


「作ります」


『時間はない』


「今まで、本人へ与えなかった時間よりは残っています」


 久世は怒鳴らなかった。


『ならば、責任を持って来い』


 通話が切れた。


 同時に、地下十三階の全照明が消える。


 闇の中へ、日本地図が浮かんだ。


 四十七の赤い点。


 点を結ぶ朱色の線。


 すべてが列島中央の一点へ集まっている。


 赤い点の横へ、名称が表示された。


 地名ではない。


 中核部材 春夏冬成海。


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