第16話 官邸の地下には神棚がない
日本地図の中央で、春夏冬成海という名前が赤く燃えていた。
中核部材。
人の名前へつけていい言葉ではない。
けれど、四十七の警報灯は、こちらの怒りより正確に危機を数えていた。
北辰封土、圧力低下。
恐山境界、死者照合不能。
平安東端、時刻差拡大。
海門境界、外側応答継続。
赤い直通回線が、もう一度鳴った。
『斎藤葵。国土基盤保全監室へ来い』
「三人で伺います」
『一人だ』
「共同代理人と契約官と申立人本人です」
『山本礼世は国家契約への干渉能力を持つ。春夏冬成海は停止中の中核だ。二人を監室へ入れれば、保全措置として拘束する』
脅しではなかった。
久世真臣は、拘束する権限と理由を持っている。
『君なら、話を聞ける』
通話が切れた。
◇
「行かせません」
山本さんは、一時間三十語のうち六語を使った。
貴重な発話予算を、私の外出禁止へ投入しないでほしい。
「相手の本音を聞くのが受理官です」
ホワイトボードへ、青い水文字が走る。
『単独面談を正当化する職務規程はない』
「歴代空席の室長が許可しました」
『空席は許可しない』
「反論が法律的に強い」
成海さんは、自分の手の甲に残る受理印を見つめていた。
「私が停止申立を撤回すれば、警報は止まります」
「その選択肢を、私たちが怖がるたびに先回りして出さないでください」
「ですが、人が傷つく前に」
「だから行きます。戻す以外の方法を、国家が本当に持っていないのか聞きます」
成海さんの目が、少しだけ揺れた。
「戻らなければ」
「迎えに来てください」
「拘束されます」
「では、御厨さんへ所管を押しつけます」
机の端で、ハンコさんが深くうなずいた。
その姿は、私が鞄を持ち上げた瞬間に消えた。
「ハンコさん?」
返事はない。
鞄が、妙に重かった。
◇
国土基盤保全監室は、官邸の地下にあるらしい。
案内役の職員に連れられ、一般用エレベーターを三回、職員用を二回、存在を認めてはいけない階段を一回下りた。
第一受付で身分証。
第二受付で生体認証。
第三受付で「ここまで来た事実を口外しない」という誓約書。
「守秘対象に『守秘義務の存在』とありますけど」
「その項目を読んだ事実も対象です」
「では、今の説明は?」
「説明した事実も対象です」
「会話が国家機密の自家増殖を始めてる」
誓約書は十七枚あった。
撮影しない。
記憶媒体へ保存しない。
夢へ持ち出さない。
死後、黄泉で第三者へ開示しない。
「最後は成海さんの所管では?」
「署名してください」
十七枚目へ名前を書いたところで、鞄の中から、ぽん、と音がした。
警備職員が一斉に姿勢を正す。
「国璽系列公印の入域を確認」
鞄からハンコさんが顔を出した。
胸を張っている。
「私より資格が上なんですか」
「公印は権限主体です。あなたは随行者として登録します」
「私が付属品になった!」
ハンコさんは私の額へ「随行」と押した。
満足そうだった。
◇
長い通路の先に、神棚はなかった。
注連縄も、鏡も、御神体もない。
代わりに、サーバーラックが延々と並んでいた。
青いランプの列。その間へ古文書の保管筒、地質図、死亡台帳、河川管理図。冷却ファンの音が、低い祝詞のように続いている。
「もっと、こう……巨大な岩とか、国を封じた剣とかを想像していました」
案内役は真顔だった。
「剣は保守部品の供給が不安定です」
「神秘を調達仕様で否定しないでください」
現代国家の祭壇は、誰も祈らない代わりに、二十四時間監視されていた。
最奥の部屋で、久世真臣が待っていた。
五十代後半に見える。白髪の混じった髪。濃紺のスーツ。机には湯飲み一つと、何十年も使われた万年筆。
十七枚の死亡届へ残っていた署名と、同じ手がその筆を持っている。
「座れ」
「成海さんを人として扱うまで、私は立っています」
「君の立位は、彼女の法的地位へ影響しない」
「気持ちには影響します」
「行政判断で最も扱いにくい変数だ」
久世は怒らなかった。
壁一面の画面を点ける。
白い海岸が映った。
◇
三十七年前の映像だった。
海水が町へ入っている。
津波ではない。
水面の上を、亡くなった人が歩いていた。
避難所では、母親が二人の子どもを抱いている。一人は息をしている。もう一人は死亡確認票をつけている。
母親は、どちらが生きている子か分からず泣いていた。
救助隊員が担架を選べない。
住民台帳から名前が消える。
死亡届を出そうとすると、対象者が存在しないと表示される。
火災現場では、死者を助けようとした人間が炎へ戻っていく。
崩れた堤防の向こうで、生者と死者の列が混ざっていた。
「白浜境界崩落」
久世の声は平らだった。
「土地、水、死者、人の区別が同時に失われた。発生から七時間で、三つの自治体が行政機能を失った」
「八洲継続協定を改定した日ですね」
「そうだ」
次の画面に、現在の被害予測が出る。
一地点の封土が完全破綻した場合、避難対象三十二万人。
三地点の連鎖破綻で、河川流域と都市地下へ拡大。
最悪想定では、避難対象は数百万人。
「数字で脅すんですか」
「数字へできなかった者は、既に死んでいる」
言い返せなかった。
久世は映像を止めない。
「私は二十一歳だった。境界署名者を再配置し、協定を暫定改定した。彼女一人の自由と、そこにいた全員の生存を比較した」
「正しいと思っていますか」
「正しかったとは言わない」
「では、間違いだった?」
「今、同じ状況へ戻れば、同じ署名をする」
迷いがなかった。
その迷いのなさが、悪意より重かった。
「一人なら差し出していいんですか」
「よくない」
「でも差し出した」
「そうだ」
「十七回も」
「そうだ」
言い逃れをしない。
責任を認めたまま、選択を変えない。
◇
久世が三冊の人事ファイルを出した。
斎藤葵。
山本礼世。
春夏冬成海。
「書庫で見ました」
「見たのは発令案だ。これは選定記録だ」
最初の頁に、未決裁文書の束が描かれている。
長年受理されなかった声が、次に自分を読める人間を選ぶ。
声を受け取る者。
言葉を縛る者。
境界を決める者。
「未決裁文書が、人を選ぶ?」
「国家は、その選定を追跡した」
「追跡だけですか」
「適性が消えない範囲で、進路へ誘導を加えた」
父の労災相談記録が開く。
言葉を待った市職員。
記録の脇に、小さな符号がある。
対異調整課・協力者。
息が浅くなった。
「あの人は、父を助けるよう指示されていたんですか」
「君が窓口行政へ関心を持つ可能性は、事前に算定されていた」
「質問に答えてください」
「協力依頼はあった」
白い窓口。
父の震える指。
職員が時計を伏せ、絵を指すまで待った時間。
私が人生の始まりだと思っていた場面の外側に、知らない人間の設計図があった。
「私の信念は、国家が置いた餌ですか」
「起点は誘導できる」
久世は私を見る。
「継続は、誘導できない」
「都合のいいことを」
「君がここで私へ反抗することは、計画にない」
「相互破壊まで計画した人の言葉を信用しろと?」
久世の目が、初めて細くなった。
まだ見せていない頁を、私は口にしていたらしい。
◇
手を打った。
一拍。
二拍。
三拍。
サーバーの風音が消え、朱と金の輪が部屋を囲む。
「久世真臣さん。あなたは、何を守りたいんですか」
久世の口が開く。
「白浜を、二度と起こしたくない」
短い。
飾りも正当化もない。
その奥に、瓦礫と水音と、呼べなかった誰かの名前があった。
けれど神楽は、私にも同じだけの言葉を要求する。
「私は、自分の正義が借り物かもしれないのが怖い」
喉が勝手に震えた。
「父を待った人も、私が役人になったことも、全部仕組まれていたなら。私が大事にしてきたものまで、国の備品になる気がする」
久世は黙って聞いた。
「それでも、成海さんを戻せば安心する自分がいる。誰かが犠牲になる制度を嫌いながら、被害予測を見ると、その一人へ頼りたくなる。そんな自分が一番怖い」
音が戻った。
久世は、机の引き出しから一枚の通知を出す。
「停止申立を撤回し、現行制度へ戻る。あるいは、七十二時間以内に国家継続が可能な代案を正式審査へ出す」
「七十二時間で、三十七年分の代案を?」
「君たちが止めたのは、三十七年動いていた仕組みだ」
「三十七年、代案を作らなかったのはそちらです」
「だから私の責任で審査する」
久世は三冊のファイルを重ねた。
「通れば、春夏冬成海の停止を維持する。通らなければ、再配置する」
「本人が拒否しています」
「国家終了手続では、緊急保全が優先される」
「それを止めるために、通します」
「なら証明しろ。犠牲をやめても、国が続けられると」
◇
退出する直前、久世が選定記録の最後を開いた。
「君は採用されたのではない」
未決裁文書から、細い線が私の名前へ伸びている。
「受理されなかった側から、召喚された」
図には三つの機能名があった。
斎藤葵――声。
山本礼世――鎖。
春夏冬成海――扉。
その下へ、黒い枠で処分手順が記されている。
三機能が管理者の指示を離れ、自律した場合。
一、声に鎖の本音を暴かせる。
二、鎖に扉を拘束させる。
三、扉に声と鎖の帰属を断たせる。
最終行だけは、赤かった。
三機能が自律した場合、相互に破壊させること。




