第17話 私たちは部品でした。それで?
地下十三階へ戻るまで、鞄の中でハンコさんが一度も動かなかった。
私も、話しかけなかった。
声。
鎖。
扉。
三つが自律したら、互いに壊させる。
国家にとって私たちは、仲間ではない。
故障したとき、隣の部品で止められる安全装置だった。
◇
エレベーターの扉が開く。
「ただいま戻りました」
山本さんが、時計を見せた。
出発から二時間十三分。
次に、ホワイトボード。
『単独面談』
その下。
『連絡なし』
さらに下。
『公印無断持出』
「最後は私じゃなくて本人の意思です」
鞄から出たハンコさんが、私の額へ「共犯」と押した。
「裏切りが早い!」
山本さんは一時間三十語の発話枠を確認し、静かに言った。
「契約違反です」
「契約、してました?」
「今、します。単独行動禁止」
残り二十五語。
「事後法で処罰しないでください」
いつもなら、そこで少し笑えた。
成海さんは笑わなかった。
「久世さんは、何を」
私は三冊の選定記録を机へ置いた。
久世の二択。
七十二時間。
父の窓口へ協力者が置かれていたこと。
未決裁文書が候補を選び、国家が進路を誘導したこと。
そして、相互破壊指示。
一つずつ話した。
話すたび、部屋の空気が冷えた。
◇
山本さんは、自分の頁を読んだ。
幼少契約への誘導可能性。
契約を重く見る性向。
自己拘束の強さ。
声帯損耗後も文書能力を維持。
彼女の指が、紙の端で止まる。
『私が約束を守ろうとするのも、仕様ですか』
水文字は、いつもより薄かった。
「違います」
『根拠は』
「山本さんが、自分で契約を破ったから」
『それも想定済みかもしれない』
「全部を想定した人がいるなら、今ごろ国はこんなに困ってません」
山本さんの目が上がる。
「私たちが言うことを全部読めたなら、七十二時間の審査なんてさせず、初日に机ごと捨てています」
言いながら、自分へ言い聞かせていた。
父を待った職員も、私が行政を志したことも、仕組まれていたかもしれない。
それでも、仕組みを知った今の私は、何を選ぶのか。
答えはまだ出なかった。
成海さんが、選定記録の最後を閉じる。
「私が停止申立を撤回します」
「またそれですか」
「今回は、感情ではなく合理です」
「合理の顔をした自己犠牲です」
「四十七封土が崩れれば、あなたのお父様も巻き込まれる可能性があります」
「だから、あなたを戻していい理由になるんですか」
「一人と多数を比べるなら」
「自分を一人に数えてないでしょう!」
声が跳ねた。
成海さんの表情が固まる。
「私は、中核です」
「人です」
「登録上は設備です」
「その登録を変える話をしてるんです!」
「変わるまで、被害は待ちません」
「だから一緒に代案を――」
「私が戻れば、済みます」
その一言で、何かが切れた。
「それなら勝手に戻ればいいでしょう!」
言った瞬間、取り消したかった。
山本さんが机を叩く。
成海さんは、驚かなかった。
最初から、その言葉を待っていたように白手袋をはめた。
「承知しました」
◇
成海さんが扉へ向かう。
山本さんも別の扉へ向かう。
「山本さんまで、どこへ」
『契約解除方法を一人で探します』
「一人で、って」
『あなたは一人で久世へ会った』
正しかった。
私は仲間だから相談しろと言いながら、自分は結果を持ち帰ればいいと思っていた。
受理官という役目を、単独行動の免許にした。
三人の距離が、国家の図面どおりに開いていく。
声は鎖を責める。
鎖は扉を止める。
扉は二人から帰属を切る。
相互破壊は、能力を使わなくても始められる。
成海さんがドアノブへ触れた。
開かなかった。
足元を見る。
ハンコさんが、扉と床の隙間へ身体を差し込んでいた。
「危ないですよ」
ぽん。
成海さんの靴へ「保留」。
山本さんが反対側の非常口へ行く。
ハンコさんは転がって先回りし、取っ手へしがみつく。
ぽん。
「保留」。
私がエレベーターへ向く。
ハンコさんは机を蹴り、私の額へ飛んだ。
ぽん。
「逃亡不可」。
「そんな印、いつ作ったの」
ハンコさんは三つの机へ一つずつ「保留」を押し、部屋の中央へ寝転んだ。
小さな四角い身体で、全退路を塞いだつもりらしい。
「物理的には全然塞げてませんけど」
ぴくりとも動かない。
誰かが帰ろうとするたび、死ぬほど傷つく顔だけはしてみせた。
「公印が感情で業務を妨害しています」
成海さんが言う。
ハンコさんは、自分の胸へ「職権」と押した。
「強引な正当化!」
それでも、三人とも扉から離れた。
◇
電話が鳴った。
父だった。
画面を見たまま、出られなかった。
今まで、あの日のことを人生の原点として何度も思い出した。
それが誰かの誘導だったと、父へどう話せばいいのか分からない。
呼出音が切れる寸前、通話を取った。
「お父さん」
『あ……お……い』
「うん」
『き……いた』
何を、と急かしそうになり、口を閉じる。
父の呼吸。
時計の音。
山本さんも成海さんも、動かない。
十秒。
二十秒。
父は言葉を一つずつ、遠い岸から運んだ。
『あの、ひと……だれの、しじ、でも』
「知ってたの?」
『あとで……きいた』
胸が詰まる。
『でも……まった』
「え?」
『おれが……えを、さすまで……まった』
父の声が震えた。
『しじ、は……まて、まで』
待てという指示があったとしても、待つ時間をどう扱うかは、その人のものだった。
同じ沈黙でも、使い方は選べる。
『おまえが……やくしょ、いくのも……だれか、はじめた』
長い息。
『だれが、はじめても……おまえが、つづけた』
涙が落ちた。
「うん」
『きけ』
「うん」
『じぶん、も』
通話が切れた。
◇
「私は、自分の声を聞いてませんでした」
二人へ頭を下げた。
「一人で行って、結果だけ持ち帰ればいいと思った。成海さんには一人で決めるなと言ったのに、自分は受理官だからいいと思っていました。ごめんなさい」
山本さんは、しばらく黙っていた。
「私も」
二語。
残り二十三。
「契約を守る自分まで、奪われたと思いました」
残り十五。
「でも、破る契約を選んだのも私です」
残り七。
それでも七語は残っていた。残す言葉を自分で選べるなら、それはもう奪われた声ではない。
山本さんは大切に残した七語で言った。
「三人の契約を、更新します」
青い水が、床へ細い円を作る。
彼女は声を使い切り、紙へ続きを書いた。
『配属理由を、本人の価値としない』
『単独で供出しない』
『相手の選択を、聞く前に止めない』
『異議は、関係終了ではなく協議開始とする』
「最後、友達の契約にしては硬すぎません?」
山本さんが書き足す。
『解除条項は必要』
「友情へ中途解約を入れないでください」
成海さんが、真剣に尋ねた。
「友達は、人事上どの区分ですか」
「人事に登録しません!」
「資産台帳にも?」
「絶対に載せません!」
成海さんは、わずかに笑った。
「では、今の私が選べる区分ですね」
白手袋を外す。
受理印の残る手を、円の中へ置いた。
「次の私ではなく、今の私が、お二人と一緒に行きたいです」
私も手を重ねた。
山本さんも重ねる。
ハンコさんが三人の手の上へ飛び乗った。
ぽん。
「更新」。
「君が締結権者だったんだ」
◇
七十二時間で代案を作るには、怪異が国土を壊すだけの存在ではなく、守ってきた当事者だと証明する必要がある。
「最初の証人は、ミツハさんです」
赤目貯水池の水位を守り、町の記憶を保ち、人間側の契約違反にも三十三分を与えた。
国家の義務と、怪異の履行を両方知っている。
管理所へ電話した。
誰も出ない。
監視映像を開く。
ダム湖が、空だった。
水面も、魚も、ミツハの姿もない。
画面へ、御厨真昼からの通知が届く。
『零号共同申立に係る証拠散逸を防ぐため、御水守ミツハを回収しました』
添付映像を開く。
濃紺の防水服を着た職員たちが、湖の中央へ巨大な透明管を下ろしている。
ミツハが、水の腕で町名板を抱いたまま抵抗していた。
『我は証拠ではない』
声が画面を震わせる。
『我は相手方だ』
吸引装置が動く。
巨大な水の女神が、細い透明タンクへ引き上げられていく。
地図でできた顔が崩れ、赤い目だけが最後までこちらを見た。
「御厨さん!」
電話をかける。
『命令に従っています』
「誰の命令です」
『国土基盤契約網による自動保全命令。審査開始一時間前に、証拠価値を固定するため人格情報を削除します』
「人格を消したら、証言できないでしょう!」
『それが目的です』
御厨さんの声は、初めて怒っていた。
『命令書を送ります。止めるなら、私より上の根拠を持ってきてください』
届いた命令書を開く。
起案者、特殊事案証拠保全班。
審査者、国土基盤保全監室。
久世真臣の欄は空白だった。
その上に、見たことのない承認欄がある。
押印者名ではない。
個人名でも、部署名でもない。
承認者。
日本国。




