第18話 国家を相手取る場合、様式は何号ですか
特別審査まで、残り四十一時間。
御水守ミツハの人格情報削除を止めるには、日本国より上位の根拠が必要らしい。
「日本国より上って、何があります?」
私は庁内検索へ入力した。
『該当する組織はありません』
「ですよね」
山本さんが検索語を変える。
国家を相手取る申立。
『該当する様式はありません』
国家契約に対する不服申立。
『想定されていません』
国家による人格削除の緊急差止。
『申立人の人格を確認できません』
「様式がないから申し立てられない。申し立てられないから、様式を作る必要もない」
完璧な永久機関だった。
前例がないことは、作れない理由ではない。まだ誰も作っていないという証拠だった。
ハンコさんが端末へ『循環論法』を押す。
画面は一度暗くなり、『ご意見ありがとうございました』と表示した。
「受け取った顔だけして終わらせた!」
成海さんが書庫から空のバインダーを持ってきた。
「様式がないなら、作るしかありません」
「国家を相手に、自作の申立書を出すんですか」
「最初の契約も、最初は様式がなかったはずです」
古い制度に挑む人は、最初に文房具を買うところから始まるらしい。
◇
行政不服申立書。
災害対策緊急措置請求書。
文化財仮保全異議申出書。
設備稼働停止処分審査票。
秘密指定解除申請書。
人権救済申立書。
共同所管設定協議書。
私たちは、使えそうな様式を机へ積んだ。
「全部を合成します」
私が言うと、山本さんが水文字を出した。
『怪異を作る気ですか』
「書類の怪異なら、すでにこの国で最大勢力です」
申立人欄が十七か所。
住所欄の一つは『現世に存在しない場合、その理由』。
設備番号と戸籍番号を同時に要求する頁もある。
成海さんが両方へ記入した。
設備番号、YOMI-00。
戸籍番号、該当なし。
「同じ紙に並べると、ひどさがよく分かりますね」
「比較できることは改善です」
「成海さん、前向きの基準が地下に埋まってます」
百八十頁目で、ホチキスが負けた。
二百枚対応の大型機を借りる。
今度は針が国家機密指定に引っかかった。
『特殊文書への金属綴じ具使用不可』
「国を訴える前に、綴じ方で負けそう!」
山本さんが青い水脈で背を縫う。
ハンコさんは書類の山に埋まり、印面だけを出していた。
「大丈夫?」
ぽん。
一番上の紙へ『下敷』。
「公印が自分の被害状況を押印で報告してる」
◇
問題は、申立先だった。
国土基盤保全監室へ出せば、相手方が審査者になる。
内閣官房へ出せば、所管は監室へ戻る。
裁判所へ持ち込めば、怪異と成海さんの法的主体性から争う必要があり、ミツハの削除に間に合わない。
「赤目ダムの前例を使います」
私は赤目ダムで作った暫定共同所管実施要領を出した。
一つの部署が全部を負えないなら、権限ごとに分ける。
設備停止は施設管理。
人格情報は人権担当。
怪異名の保全は文化担当。
災害予測は防災担当。
契約審査は法制担当。
全体調整は怪異対策室。
「国家を一つの相手として受理できないなら、国家が持つ権限を分割して共同所管にします」
山本さんが、久しぶりに一語を使った。
「可能です」
一時間三十語のうち、たった二語。
その二語が、百八十頁より頼もしかった。
各部署へ持ち回る。
防災担当は、怪異という語を消せば押すと言った。
文化担当は、文化財という語を足せば押すと言った。
設備担当は、成海さんを人と書かなければ押すと言った。
「そこは押さなくて結構です」
成海さん本人が書類を引いた。
「設備として審査へ参加すれば、同じ結果になります」
人権担当が迷う。
「戸籍がありません」
「意思があります」
「資産登録されています」
「本人が登録を拒否しています」
「前例がありません」
「今、目の前にいます」
担当者は成海さんを見た。
白手袋のない手に、『受理』の印が残っている。
「仮の権利主体として、三十日だけ」
印が押された。
最初の一つだった。
そこから法制、防災、文化が続く。
設備担当だけが最後まで拒んだため、ハンコさんが机へ『所管外』を押して置いてきた。
「公印による置き土産が強い」
◇
提出から十一分後、久世から呼出しが来た。
国土基盤保全監室の会議室。
今度は三人で入る。
ハンコさんは正式な随行者として、私より先に入館証を受け取った。
「納得できない」
私より手続に強い公印だった。
久世の机には、私たちの百八十頁が既に項目別に整理されていた。
付箋の色も、目次も完璧。
私は一枚だけ黄色い付箋を貼った。
『心がない』
久世はそれを剥がさず、資料を開く。
「共同所管による仮審査を認める」
「早いですね」
「制度の穴を使っただけで、要件から逃げてはいない」
「褒めてます?」
「評価している」
この人は、敵の正しい手続を潰さない。
だからこそ、勝つには本当に代案が必要になる。
「争点を確認する」
久世の背後へ四十七封土の地図が出た。
「春夏冬成海の無期限供出を停止したまま、国土境界を維持できる合理的可能性があるか」
次の画面。
透明タンクへ封じられたミツハ。
水位は肩まで下がっている。
「御水守ミツハは法的人格を持たない。原則、証言は採用しない。名無し一二四七名共同申立人も、仮登録にすぎない」
「仮登録を作ったのは、名前を奪った国です」
「事実でも、資格の根拠にはならない」
成海さんの資産台帳が出る。
「春夏冬成海は設備分類。本人証言ではなく、稼働記録として扱う」
私が机を叩く前に、成海さんが言った。
「それでは、私の停止意思も設備の異常値ですか」
「現行規程では」
「その規程を争う審査で、規程を前提に私を外すのですか」
久世は黙った。
「仮の当事者資格を、審査の争点へ含める」
一歩、譲った。
けれど条件は重い。
残り時間内に、成海さんを戻さず四十七封土を維持する暫定策を示す。
理論だけではなく、怪異側の履行意思と、被害時の責任分担まで用意する。
失敗すれば緊急再配置。
「その前に」
久世は三つの封筒を置いた。
「国家として、個別解決案を提示する」
◇
私の封筒には、人事発令案が入っていた。
内閣府怪異共生政策準備室・室長補佐。
怪異の仮登録、地域窓口、予算要求の権限。
私が望んだ仕事を、正式な部署と肩書で進められる。
「対策室を離れ、停止申立の代理を辞任することが条件ですか」
「利益相反を避ける」
「声を上げた人を置いて、制度だけ取れと」
「制度が残れば、次を救える」
正しい言葉だった。
正しいから、欲しくなった。
山本さんの封筒には、笑門水脈契約の完全解除証書。
声帯損耗の修復。
母・澪さんの契約責任を国家へ移し、山本家への請求を終了する。
山本さんの指が、一瞬だけ止まる。
母を責めずに済む。
声も戻る。
七歳の署名から、ようやく自由になる。
「対価は」
残りの発話から三語を使った。
「停止申立への共同代理を辞任し、八洲継続協定を十年維持する」
久世が答える。
最後の封筒は、成海さんの前へ置かれた。
中身は一枚だけ。
境界中核YOMI-00・最終停止許可。
「再配置しない」
久世の声が低くなる。
「記憶を消さない。次の春夏冬成海を作らない。現在の人格を保ったまま、境界から完全に切り離す」
「切り離した後は」
「死亡する」
私の身体が動きかける。
退職願の夜、成海さんに返された言葉が止めた。
それは私の願いで、彼女の申立ではない。
成海さんは、書類を最後まで読んだ。
「最終の死」
「君が望んだ、『次の自分へ押しつけない終わり』だ」
「対価は」
「停止申立を撤回し、現在の身体で中核へ戻る。十年後、次の制度へ移行するときに切り離す」
十年。
今までの三十七年より短い。
それでも、一人の人生をもう十年使う。
「拒否してください」と言いたかった。
言えば、また私の願いで彼女を囲う。
「成海さんは、どうしたいですか」
やっと、それだけ聞いた。
成海さんは書類を閉じた。
「条件を聞きます」
胸が落ちた。
山本さんも目を見開く。
久世だけが表情を変えない。
「審査開始まで、御水守ミツハの削除を停止する」
透明タンクの映像へ『執行保留』が出た。
しかし、水位低下は止まらない。
「保全状態を維持できるのは、審査終了までだ」
久世は席を立った。
「条件を受けるか、審査で代案を示せ」
◇
審査前夜。
成海さんが、地下十三階からいなくなった。
机には白手袋と、鮭おにぎりの包み紙だけが残っている。
監室の入退室記録を開く。
午前零時十二分。
春夏冬成海、単独入室。
会議室の監視映像に、久世と向かい合う彼女が映っていた。
『最終の死をいただく条件として、一つ確認させてください』
音声は、そこで切られた。
久世が操作盤へ手を伸ばす。
扉が閉まり、続きは聞こえなかった。




