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第8話 ダムは、十二年前のことを覚えている

再配置作業開始まで、十三時間。


 赤目貯水池から、水が消えた。


     ◇


 電話をかけてきた管理所長は、第一声で「契約違反ではありません」と言った。


「まだ何も聞いてませんけど」

『水位低下は当方の操作ではなく、御水守ミツハによる自主的な――』

「何が起きてます?」

『ダム湖の底に、町が出ました』


 通話の向こうで、鐘が鳴った。


 三十三回。


 山本さんは受話器を奪う。


「行政地図を確認してください。赤目旧町の仮登録は」

『今朝、削除されています』

「誰の決裁で」

『上位権限です。記録が閲覧できません』


 山本さんの手首に残る青い縄痕が、脈打った。


「契約相手の名称を一方的に消す。明確な不履行です」


 成海さんは、机の予定表を見た。


 明日午前九時――再配置作業開始。


「先に赤目へ行きましょう」

「あなたのことも調べます」

「町は今、沈み直すかもしれません。私は明日もいます」


 言い切ったあと、成海さんはわずかに視線をそらした。


 明日の彼女が、今日と同じ彼女である保証はない。


     ◇


 ダム湖は、巨大な空の器になっていた。


 水が引いた湖底に、赤い屋根、商店街、学校、鐘楼、細い路地が現れている。


 泥に埋まっているはずの町は濡れてさえいなかった。


 軒先の風鈴が鳴り、自転車が壁へ立てかけられ、食堂の暖簾から湯気が上がる。


 十二年前のカレンダーが、すべての家で同じ日を示していた。


「水没したのは、もっと前ですよね」

「町そのものではなく、誰かの記憶が十二年前で止まっています」


 山本さんが地面へ触れる。


 石畳の下を青い水脈が流れていた。


 岸には元住民が集まり、規制線の向こうの故郷を見つめている。


 その前へ、見慣れない一団が並んでいた。


 全員、濃紺の防水服。胸には「特殊事案証拠保全班」。手には透明な書類箱。


 湖底へ下りる装備より、クリアファイルの防水性能が充実している。


「国って、水中でも紙を守るんですね」

「人より保存期間が長いので」


 先頭の女性が振り返った。


 三十代前半。短い黒髪。化粧も声も隙がなく、泥の上なのに靴だけ新品のように光っている。


「内閣官房特殊事案証拠保全班、御厨真昼です」


 みくりや・まひる。


 彼女は私たちの身分証を一枚ずつ確認した。


「省庁怪異対策室。現場介入権限は暫定共同所管実施要領の範囲内ですね」

「赤目旧町の地図登録を消したのは、そちらですか」


 山本さんが聞く。


「回答権限がありません」

「否定権限は?」

「ありません」

「便利な権限設計ですね」

「実務上、よく使われます」


 御厨さんは表情を変えなかった。


「湖底区域は国家機密に係る証拠保全対象となりました。元住民を含め、全員退去してください」

「町が出てきたのに、また持ち主を外へ置くんですか」

「ここへ入れば、現在の記憶が浸食されます」


 彼女は透明な袋へ入れた携帯電話を見せた。


 画面の写真が、一枚ずつ白く消えていく。


「調査員一名が八分滞在し、今朝食べたものと娘の年齢を忘れました。二十分を超えれば、現在の生活との結びつきが切れる可能性があります」


 正論だった。


 その正論を聞き終わる前に、規制線の脇を小柄な老女がすり抜けた。


「ヨシさん!」


 戸村ヨシさんが、湖底の町へ走っていた。


     ◇


 追いかけて入った瞬間、空気の匂いが変わった。


 泥ではない。


 炊きたての米、蚊取り線香、乾ききらない洗濯物。


 道路脇の商店から、店主らしき男性が顔を出す。


「お客さん、ポイントカード作る?」

「十二年前の店で新規会員を増やさないでください!」

「今日なら入会特典で卵六個」

「物価まで十二年前だ。ちょっと惹かれる」


 山本さんが私の襟を引いた。


「買い物すると現在への帰属が弱くなります」

「危なかった。卵で人生を捨てるところでした」


 ハンコさんは泥を避けて私の肩に乗っていたが、町へ入ると急に元気になった。古い郵便受けへ一つずつ印を押して回る。


 朱肉が水気で流れ、印面が青くなった。


 ぽん。


 青い「受理」。


「新色を開発しないで!」


 ヨシさんは一軒の家の前で立ち尽くしていた。


 表札には戸村。


 引き戸が開く。


「遅かったな、ヨシ」


 男性が立っていた。


 白髪は少なく、背筋が伸び、十二年前の古い作業着を着ている。


 ヨシさんの夫、栄吉さん。


 六年前に亡くなったと聞いていた。


「お父さん……」


 ヨシさんは、八十歳を越えた人とは思えない速さで抱きついた。


 栄吉さんは驚き、彼女の背へ手を回す。


「どうした。ずいぶん年を取ったな」

「そっちは、ずるいくらい若いわ」


 二人が笑う。


 私は一歩近づき、足を止めた。


 ヨシさんの鞄から落ちた写真には、孫たちが写っていたはずだ。


 今は顔が薄れている。


「ヨシさん、長くいられません」

「分かっています」


 口ではそう言いながら、彼女は家へ上がった。


 茶の間には二人分の湯飲み。


 栄吉さんは当たり前のように茶を入れる。


「ここへ残れば、今の家族を忘れます」

「もう少しだけ」


 ヨシさんは夫の顔を見つめた。


「私は、この人にさよならを言ってないんです」


 栄吉さんが倒れた日、ヨシさんは遠方の娘の家へいた。病院へ着く前に夫は亡くなった。


 声をかける時間も、手を握る時間もなかった。


「町が沈むときも、家へ別れを言えんかった。この人が死ぬときも、言えんかった。今度こそ、自分で終わりを決めたい」


 御厨さんが家の外へ立つ。


「お気持ちは理解します。しかし、この町を公開すれば別の被害が出ます」


 元住民の土地所有権。


 追加補償を求める者。


 既に新しい生活を築いた家族。


 戻りたい者と、二度と見たくない者。


「真実を公開すれば全員が救われるとは限りません。水没の記憶から離れた人まで、再び当事者へ戻されます」

「だから本人に選ばせず、国が消すんですか」

「選択肢を提示するだけで傷になる場合もあります」


 御厨さんの声は冷たくなかった。


 だから腹が立った。


 彼女は、消す側の痛みを知っているように見えた。


 それでも、消される側の代わりにはなれない。


     ◇


 町の中央で、ミツハが水路から姿を現した。


 表札と地図でできた顔が、以前より崩れている。


「名をまた消された。ゆえに、抱えていた時を返した」

「十二年前、何があったんですか」


 ミツハの胸元で、古い映像が揺れる。


 夜の湖底。


 防水服の国家職員。


 泣く子ども。


「国の者が来た。町を覚えている子を一人、記録から外へ連れていった」

「記憶供出は事故じゃなかった?」

「手順に沿っていた。名を呼び、同意を取り、泣く母へ印を押させた」


 山本さんの顔が強張る。


「同意を取った形にしただけです」


 手首の縄痕を袖の上から握った。


 御厨さんが部下へ合図する。


「原記録を回収します」


 透明な箱がミツハへ向けられる。


 水路から伸びた地図が切り取られ、箱へ封じられていく。


「待ってください!」

「上級指示です」

「誰の?」


 御厨さんは一瞬だけ黙った。


「久世審議官です」


 初めて聞く名なのに、古い文書の奥で何度も見ていた気がした。


     ◇


 鐘が鳴る。


 町の家々が薄くなり始めた。


 ヨシさんの写真から、孫の顔が完全に消える。


「成海さん。どれくらい、つなげられますか」

「過去と現在を、三十三分」

「代償は」

「今度は分かりません」


 彼女は静かに答えた。


「それでも、ヨシさんが自分で戻るための時間を作ります」


「勝手に払わないでください」


 山本さんが言う。


「契約を作ります。三十三分を超えない。現在の名前を三度呼ぶ。帰還後、家族写真を本人へ見せる。境界負担は当事者全員で分担する」


「死人と別れるのに、そんな書類が要るんですか」


 栄吉さんが苦笑した。


「要ります」


 ヨシさんが答えた。


「この子ら、書類がないと無茶するから」


 反論できない。


 私は手を打った。


 一拍、二拍、三拍。


「ヨシさん。ここに残りたいんですか」


 静寂の中で、彼女の本音が落ちる。


「残りたいんじゃない。今の家へ、自分で帰りたい」


 栄吉さんの本音も、十二年前の茶の間から届いた。


「ヨシを待っていた。でも、連れていきたくはない」


 成海さんが朱印を置く。


 町と現在の境へ、三十三本の細い朱線が伸びた。


「この時間だけ、別れを当事者のものとして認めます」


 時計が動き出す。


 ヨシさんは夫と茶を飲んだ。


 長い話はしなかった。


 孫のこと、娘の腰痛、庭の柿が今年も実ったこと。


 栄吉さんは一つずつ聞き、最後に言った。


「そっちで生きたんだな」


「うん。お父さんがおらんでも、ちゃんと」


 三十三分目。


 ヨシさんは玄関で靴を履いた。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 さよならではなかった。


 生きている家へ帰る言葉だった。


 彼女が境を越えた瞬間、町へ水が戻り始める。


     ◇


 山本さんは、地図登録の削除ログを御厨さんへ突きつけた。


「更新契約第三条違反。国側の不履行です。原本を回収しても、履行義務は消えません」

「承知しています」

「なら戻してください」

「私の権限では戻せません」

「あなたは何を守っているんですか」


 御厨さんは透明な箱を抱えた。


「公開される順番です。真実が人を救う前に、人を切ることがあります」


「消す順番を決める人よりは、ましです」


 山本さんの声は低かった。


 御厨さんは反論しなかった。


「三十三分、介入を遅らせた事実は報告しません」


 それだけ言い、保全班を引かせる。


 敵ではない。


 味方でもない。


 最も厄介な種類の人だった。


 湖が旧町を覆い尽くす直前、ミツハが私の手へ水滴を落とした。


「奪われなかった声だ」


 水滴は、ハンコさんの青い印面へ染み込んだ。


     ◇


 地下十三階へ戻り、山本さんが青い印へ紙を当てる。


 ぽん。


 水でできた文字が録音波形になった。


 十二年前の音声。


『第零号維持のため、記憶一名を回収する』


 若い男の声。変声か古い録音のせいか、妙に年齢の分からない声音だった。


 記録上の発言者名は、久世真臣補佐官。


『対象は旧町を明確に想起できる未成年者。家族同意取得済み』


 子どもの泣き声がする。


 私の爪が掌へ食い込んだ。


 そのとき、別の女性が割って入った。


『その子では足りません』


 成海さんが、ゆっくり顔を上げる。


『次は、私の記憶を使ってください』


 十二年前の声も、春夏冬成海だった。


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