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第6話 祭りをやめたい村と、やめさせない神様

 再配置まで、あと二日。


 その表示を見ないふりして開いた朝一番のファクスには、こう書かれていた。


 申立人――笑門村百笑祭保存会。


 申立内容――祭りをやめたい。


 同時に、もう一枚が吐き出される。


 申立人――笑門山御祭神・百笑主。


 申立内容――やめたら全員笑わせる。


「脅迫ですよね、これ」

「相手が神の場合、御神託と呼ぶことで角を立てない運用があります」

「脅迫の呼び方だけ丁寧にしないでください、成海さん」


 山本さんは二枚を透かし、眉間へ深い縦線を作った。


「同一案件で、履行希望と解除希望が同時に出ています。最悪です」

「話し合いの余地があるってことでは」

「両者とも自分が契約当事者だと思っている案件を、世間では泥沼と呼びます」


 机の端で、ハンコさんが朱肉へ飛び込んだ。


 ぽん。


 申立書へ押された文字は「笑止」。


「君、最近語彙が増えてません?」


 ハンコさんは得意げに角を磨いた。


     ◇


 笑門村は、県境に近い山間の集落だった。


 人口百四十三人。平均年齢六十八・七歳。コンビニまで車で四十分。村役場のホームページは二〇一一年から更新されていないのに、百笑祭の特設ページだけ今年になって急に動画と英語へ対応している。


 駐車場では、観光課の職員が巨大な横断幕を広げていた。


『#百人で笑えば世界が変わる 映えスポット十二選』


「変える前に、村の人が倒れます」


 保存会の代表である門脇村長は、目の下へ祭りより深い歴史を刻んでいた。


「昔は百人が夜通し笑いました。今、祭りへ出られる者は十二人です」

「残り八十八人は?」

「腰、膝、介護、夜勤、転出、死去です」

「不可抗力が人間の一生を網羅してる……」


 百笑祭は日没から日の出まで、百人が山の社を囲み、順番に笑い続ける祭りだという。


 ただし、面白い話をする必要はない。


 笑えばいい。


「昨年は十二人で八周しました」

「一人当たり八・三人分?」

「小数点以下は村長が担当しました」


 村長は真顔だった。


「終盤は全員、笑っているというより呼吸器へ異常が出ていました」


 隣にいた若い女性が、腕を組む。


「だから今年で終わりにするべきなんです。伝統って言えば、誰かが無償で潰れていいんですか」


 大阪から移住してきた診療所職員、岸本理香さん。夜通し笑った高齢者三人を昨年診たらしい。


「やめれば、山からあれが出ます」


 村長が村境を指した。


 杉林の暗がりで、誰もいないのに笑い声がした。


 くすくす。


 けらけら。


 声だけが木々の間を転がり、標識へ絡みつく。『笑門村』の「門」が口の形に歪んだ。


 通りかかった軽トラックの運転手が突然、腹を抱えて笑い始める。


「は、はは、ははははは!」


 目は泣いていた。


 成海さんが白手袋で額へ触れる。


「笑っているのは身体だけです」

「精神は?」

「助けを求めています」


 私たちが運転手を村側へ引き戻すと、笑いは止まった。男は息を吸いながら、「何も面白くない」と繰り返した。


 笑えと言われて笑うのは、笑いではない。


 祭りを守ろうとする村人も、祭りをやめさせない怪異も、同じことを人へ強いていた。


     ◇


 社の前では、観光課が百笑主への協力依頼を始めていた。


「御祭神さまにも公式アカウントを開設いただき、指定ハッシュタグで――」


 担当者のスマートフォンが勝手に起動した。


 画面に口が百個並び、一斉に笑う。


『は』『は』『は』『は』『は』『は』『は』『は』


「投稿への反応は良好ですね」

「あなたの危機管理、フォロワー数でできてるんですか」


 村中のスマートフォンが同時に笑い始めた。


 山本さんが社の石板へ手を置く。


「静かに。原契約を読みます」


 眼鏡を外すと、苔の間から青い水脈が浮かび上がった。


 百の生、百の声、百の笑みをもって、哭き水を山中へ留める。


「百人とは書いてありません」


 山本さんが指で古語をたどる。


「『百の生』です。異なる百の人生が、一年に一度、ここへ笑いを返す」

「じゃあ同じ十二人が何周しても駄目だったんだ」

「行政が『延べ人数』でごまかすのを、神様は認めなかったようですね」

「急に神様が会計検査院寄りになった」


 境内の奥から、低い笑いが響く。


 石灯籠の口が開き、狛犬の歯が鳴り、杉の洞へ巨大な笑顔が浮かんだ。


『同じ者が百度笑っても、一つの生だ』


 百笑主の声だった。


「あなたが必要なのは、人数ではなく違う人生の記録なんですね」

『人が去り、死に、戻らぬことは知っている。ゆえに待った。二十三年、契約を更新する者を』


 青い水脈が、山本さんの指へ巻きついた。


「山本さん?」


 彼女は手を引いた。


 水は離れない。


 細い縄となって手首から肘、肩へ這い上がる。


 石板の契約者欄に、泥で埋もれていた名が現れた。


 山本礼世。


 七歳。


「……偽造です」


 山本さんの声が、一音だけ遅れた。


「筆跡は?」

「私の字に似ています」

「七歳の頃を覚えていますか」

「覚えていません」


 答えが早すぎた。


 社の階段に座っていた女の子が、私たちを見上げる。


 門脇ナギ、十歳。村長の孫で、祭りの聞き取り係を任されているらしい。首から古い録音機を下げていた。


「礼世ちゃん、戻ってきたん?」


 ナギではない。


 社の奥にいた八十代の女性が、山本さんを見ていた。


「お母さんと一緒に、ようここで笑うてた」

「人違いです」

「その目ぇは、澪さんとこの礼世ちゃんや」


 山本さんの水縄が締まった。


『契約者、帰還』


 山が笑った。


 鳥が飛び立ち、枝が震え、村境の笑い声が一斉にこちらを向く。


「この祭りを絶やさないと、あなたは誓った」


 村長がすがるように言う。


 山本さんは唇を噛んだ。


「……契約があるなら、確認します。この祭りは絶やさない」


 言った瞬間、水縄が喉まで跳ね上がった。


 青い文字が空中へ並ぶ。


 不足分八十八。契約者による代替履行を開始。


「一人で八十八人分笑わせる気ですか!」

「笑うだけなら――」

「去年の診療記録、見ましたよね!」


 山本さんの口角が、本人の意思と関係なく上がる。


「は」


 乾いた声が漏れた。


「は、はは」


 目が笑っていない。


 私は彼女の頬を両手で挟んだ。


「笑わないでください」

「今、命令口調で笑いを止めるという高度な矛盾を――ははっ」

「細かいこと言えるならまだ大丈夫!」


 ハンコさんが水縄へ飛びつき、ぽん、と押した。


 印面から、やけに甲高い「ぷぇっ」という音が出る。


 私たちは一瞬、全員そちらを見た。


 山本さんの喉から、本物の笑いが一音だけ漏れた。


「……何ですか、今の」


 ハンコさんは知らないふりをした。


 水縄の数字が一つ減る。


 不足分八十七。


「今のは山本さん自身の笑いとして数えられた」

「分析しないでください。屈辱です」


 それでも、偽物の笑いを百回出すより、本物を百個集めればいい。


     ◇


 私は社の前で手を打った。


 一拍。


 二拍。


 三拍。


 朱と金の輪が村を包み、笑い声の雑音が消える。


「祭りを続けたい理由と、やめたい理由を、一つずつ聞かせてください」


 村長の肩が落ちた。


「祭りをやめた村長として、先祖へ顔向けできん」


 岸本さんが言う。


「祭りが嫌いなんじゃない。祭りのために、断れない人から壊れていくのが嫌」


 観光課の職員は横断幕を握りしめた。


「人が来る理由を作れと言われた。村が消えるのが怖かった」


 ナギは録音機を胸へ抱く。


「うち、百人の話を聞いてみたい。笑う前に、その人が何で笑うんか知りたい」


 百笑主の巨大な口が、杉の幹でゆっくり動いた。


『我が欲しいのは、愉快な音ではない。ここで生きた者が、生きたと分かる笑みだ』


 最後に、山本さんの本音が引き出される。


「私は、覚えていない約束に負けたくない」


 水縄が軋む。


「でも、約束をなかったことにする自分にもなりたくない」


 音が戻った。


「なら、誰か一人に守らせる形をやめましょう」


 私はナギの録音機を指した。


「百人百話です。村にいる人だけじゃない。出ていった人、ここへ来た人、もう亡くなった人。笑う前に、自分の話を一つする」

「死者を参加者へ含めるんですか」


 観光課が聞く。


「旅費精算はしません」

「そこではありません」


 成海さんが社を見上げた。


「死者の記録が残っているなら、一夜だけ『こちら側の参加者』として裁定できます」

「代償は」

「小さなものです」


 山本さんと私が同時に睨む。


「具体的に」

「……今夜の夢を一つ」


 成海さんは少し考え、言い直した。


「明日の私が忘れても、困らない程度です」

「困るかどうかを国に決めさせないでください」


 彼女は返事の代わりに、白手袋を整えた。


     ◇


 祭りは、夜七時に始まった。


 最初に笑ったのは、村長だった。


「妻に初めて作った味噌汁が、海より塩辛かった」


 村長夫人が「今も大差ない」と言い、二人で笑った。


 東京へ出た元住民が、画面越しに語る。


「祭りが嫌で村を出たのに、都会で一番恋しかったのが、夜中に聞こえるみんなの笑い声だった」


 移住者は、「この村へ来て初めて、玄関へ鍵をかけ忘れた」と笑った。


 ナギは一人ずつ名前を呼び、録音を再生する。


 古いカセットから、亡くなった女性の声が流れた。


『うちの亭主は、祭りの日だけ歯を入れ忘れて、ふがふが笑うた』


 成海さんが朱印を地面へ置く。


 声の主が一瞬だけ、社の灯りの向こうへ姿を結んだ。家族が泣きながら笑う。


 一つの人生につき、一つの話。


 一つの話のあとに、一つの笑い。


 数が八十を越えた頃、村境の笑い声が苦しげなものから、誰かを待つ柔らかなものへ変わった。


 九十九番目は、山本さんだった。


「私は七歳のとき、この村で祭りへ参加したそうです。覚えていません」


 水縄が彼女の首へ食い込む。


「今日、ハンコに変な音を出されて笑いました。人生で最も認めたくない笑いです」


 境内に笑いが起きる。


 山本さん自身も、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 不足分、一。


 百番目に、ナギが前へ出た。


「うちの話は、まだ十年分しかない。でも今日、百人の話を聞いた。大人になったら、また百個集めたい」


 彼女は録音機を掲げる。


「だから今は、礼世さんの顔が、ハンコの変な音よりおもろかったです」


 山本さんが絶句した。


 私が吹き出し、村中が笑い、最後に山本さんまで肩を震わせた。


 百。


 山全体を縛っていた声が、夜空へほどける。


 百笑主は、杉の幹に穏やかな口を作った。


『百の生を受領した。来年は、今年と違う百を』


「毎年固定メンバーを要求しない。参加と撤退は自由。記録提供だけでも可。負担上限を一人一話、一笑とする」


 山本さんが更新契約を読み上げる。


「祭りを残すために、人を使い潰さない。これが新しい条件です」


『よい』


 水縄が彼女の喉から離れた。


 ハンコさんが契約書へ飛ぶ。


 ぽん。


「受理」。


 その横へ、もう一つ見慣れない古印が浮かんだ。


 対異調整課・水系第零号。


 赤目ダムの原契約と同じ印だった。


「山の祭りとダムが、同じ案件番号……?」


 山本さんが印へ触れた瞬間、水縄が消えずに手首の内側へ沈んだ。


 彼女だけが、祭りのあとも笑わなかった。


 社の暗がりから、女の声がした。


『礼世、ごめんね』


 山本さんの顔から血の気が引く。


『次は、あなたが差し出す番』


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