第5話 三人官女、初稟議
「事業名は、『声なき存在との持続可能な共生社会実現に向けた省庁横断型未来創造プロジェクト』でどうでしょう」
私が胸を張ると、山本さんの赤ペンが走った。
声なき存在――削除。
持続可能――削除。
共生社会――削除。
未来創造――削除。
最後に残ったのは「事業」だけだった。
「魂まで赤字で殺さないでください!」
「抽象語に税金は付きません。何を、誰に、いくら払うのか書く」
「夢がない」
「夢を支出科目に入れると監査で起こされます」
私たちは、赤目貯水池の契約更新費と古墳の共同調査費を正式化するため、怪異対策室として初めての予算稟議を作っていた。
正確には、初めてではないらしい。
成海さんが書庫の奥から、黄ばんだ様式を次々と取り出してくる。
「昭和六十三年は様式甲、平成十一年は別紙三、令和以降は電子申請です」
「全部覚えてるんですか」
「仕事のことは、比較的」
彼女は電子申請画面の職員番号欄で手を止めた。
「私の番号は、どれでしょう」
「人事発令に書いてありませんでした?」
「氏名と再配置先だけでした」
勤怠端末は相変わらず成海さんを故人扱いしている。
試しに氏名だけで申請すると、ハンコさんが画面へ飛び乗った。
ぽん。
「却下」
「君、成海さんに厳しくない?」
ハンコさんは、成海さんの欄だけをもう一度却下した。
本人は慣れた様子で白手袋を整える。
「では、私の欄は空白で」
「空白にしたら、また一番弱い人の名前が入ります」
山本さんが即座に止めた。
成海さんは少し驚き、それから「そうでした」と小さくうなずく。
◇
稟議を作る前に、三人の役割を整理することになった。
「最初に怪異と当事者の申立を聞くのが斎藤さん」
山本さんがホワイトボードへ「受理」と書く。
「利益、義務、期限、代償を文章にするのが私。契約」
最後に、成海さんが「決裁」と書いた。
「生と死、内と外、過去と現在の境界を確定し、案件へ終期を与えます」
「受理、契約、決裁。三人そろって一件を終わらせる」
私は三つの言葉を丸で囲んだ。
「三人官女ですね」
「却下」
「却下します」
二人の声が重なった。
「息ぴったりじゃないですか!」
私は庁内チャットへ、新しいグループを作った。
グループ名 三人官女。
山本さんが即座に「契約実務連絡会」へ変更する。
私が戻す。
成海さんが「未決裁処理班」へ変える。
ハンコさんが三人のアイコン画像へ「保留」を押した。
最終的に、表示名は「三人官女(仮)」で固定された。ハンコさんの印は、管理者権限より強いらしい。
◇
第一回稟議は、四分で差し戻された。
理由――怪異は会計上の相手方になれない。
「ミツハさんへ直接お金を払うわけではありません!」
「常設展示の制作業者を相手方に書き直します」
第二回。
理由――追悼行事は設備費か役務費か不明。
「三十三分、鐘を鳴らすだけですよ」
「鐘は備品、鳴らす人は役務、祈る気持ちは対象外です」
第三回。
理由――古墳が今後も同一地点に存在する保証がない。
「古墳って移動する前提なんですか?」
「怪異案件では、動かないと断言した側が負けます」
第四回は押印漏れ。
「ハンコさんが押しました」
「登録印ではありません」
「本人、いえ本印は公印を名乗っています」
「名乗りによる公印認定はできません」
電話口の担当者とハンコさんが、互いを偽物扱いして五分争った。最後はハンコさんが受話器へ『差戻』を押し、通話が物理的に庁内交換台へ戻った。
第五回は様式番号違い。旧様式で出すと新様式を使えと言われ、新様式で出すと怪異案件欄がないため旧様式を参照しろと言われた。
「書類が輪廻してます」
「成海さん、決裁で成仏させられません?」
「書類には生死の境界がありません。最も終わりにくい存在です」
第六回は「緊急性の根拠が湖の空中浮遊では客観性に乏しい」。
「これ以上客観的に浮く方法があります!?」
「映像を添付します」
「加工の可能性を指摘されたら?」
「その場合は、審査担当者の窓の外へ湖を移動する条項を検討します」
「山本さん、怒ってますよね」
「契約案を述べただけです」
第七回は、事業目的に「怪異の利益」が含まれているため差し戻された。
「怪異は行政サービスの対象として定義されていません」
審査担当の声がスピーカーから流れる。
「でも、怪異が水位を守っている利益は受け取っているんですよね」
「それは自然現象または設備機能として整理されています」
「都合のいいときだけ設備にするんですか」
「斎藤さん」
山本さんが私の袖を引いた。
「怒るのはあと。今は通します」
彼女は過去の前例を並べた。
赤目旧町の展示は、水没地域資料の保存事業。
追悼は、ダム安全啓発行事。
古墳調査は、道路計画変更に伴う緊急埋蔵文化調査。
怪異との契約確認は、異常水位監視の実証業務。
「一つの制度で認められないなら、認められる制度を束ねる。名前がないことと、権利がないことは同じではありません」
山本さんが言い切った。
成海さんは古い決裁例から、終了条件と責任分界を拾い出す。
私は戸村ヨシさん、道路担当者、地元住民の申立記録を添付した。
三人で作り直した八回目の文書は、分厚くなった。
昨夜まで、私は聞いた声を一人で抱えようとしていた。今は、私が受け取ったものを山本さんが約束へ変え、成海さんが終わらせ方を決めてくれる。役割を分けるのは責任逃れではない。誰か一人を潰さず、最後まで責任をつなぐためなのだ。
「これ、少額実証事業の厚さじゃないですよ」
「怪異より、説明資料のほうが場所を取りますね」
成海さんが真顔で言う。
「私の葬儀費も福利厚生費へ入れておきますか」
「入れません!」
「再利用の可能性があるなら備品費では」
「山本さんも乗らないで!」
笑いながら、三人で同じ書類へ署名した。
受理官 斎藤葵。
契約官 山本礼世。
決裁官 春夏冬成海。
成海さんの職員番号だけは空白のまま。それでも、氏名は消さなかった。
空白は優しさではないと、教わったばかりだ。けれどこの空白は、誰かを沈めるためのものではない。いつか番号が戻ってくる人を待つための、欄のはずだった。
ハンコさんが書類の上を歩く。
私の欄へ「受理」。山本さんの欄へ「受理」。
成海さんの前で止まり、長いこと迷ったあと――印を押さず、書類の端へ座った。
「またですか」
成海さんは怒らず、ハンコさんの頭を指先で撫でた。
「困らせてすみません」
その言い方が、なぜか引っかかった。
送信ボタンを押してから、三人とも画面を見つめた。
十秒。三十秒。一分。
ハンコさんまでモニターの前で正座する。通知音が鳴った瞬間、全員が同時に立ち上がり、机へ膝をぶつけた。
八回目の稟議は、少額の実証事業として承認された。
地下十三階に、小さな歓声が上がる。
「これで赤目旧町の名を残せます!」
「仮登録です。更新審査を忘れないで」
「古墳の調査も始まります」
「終わるまでが案件です」
二人とも喜び方が地味すぎる。
でも、山本さんは眼鏡を拭くふりをしながら三回も承認画面を見た。成海さんは新しい予定表へ、丁寧な字で「三人で初決裁」と書いた。
たった一枚の承認通知だ。それでも、赤目旧町は「なかった町」から予算を使って記録する町になり、古墳の死者は工事を妨げる障害から、調査し弔う相手になった。制度の文字は冷たい。けれど、その冷たい文字へ名前を載せられれば、次の担当者も簡単には見なかったことにできない。
私は、配属初日に差し戻された辞令を思い出した。ここが外れ部署かどうかは、まだ分からない。少なくとも、三人で通したこの一枚だけは、外れではなかった。
私も写真を撮った。
ハンコさんが三人の顔へ「保留」を押した。
「記念写真くらい承認して!」
◇
承認済み予算の内訳を保存しようとしたとき、画面の下に見慣れない科目が現れた。
私たちが申請したものではない。
毎年度、自動計上されている秘密科目。
境界中核・記憶廃棄・再配置費。
「境界中核って、何ですか」
山本さんが無言で画面を開く。
対象資産名――春夏冬成海。
管理区分は「国土保全用特殊設備」。人事担当欄はなく、保守責任部署だけが記載されている。給与ではなく維持費、研修ではなく性能保持、休職ではなく稼働停止。言葉を一つ置き換えるたび、人間の暮らしが帳簿から消えていく。
職員ではない。
資産。
取得年月日は空白。数量一。更新回数十七。
耐用年数欄には、こう書かれていた。
一回の大規模決裁まで。
背中が冷える。
「成海さん、これ……」
今年度の再配置予定日は、三日後だった。
成海さんは日付を見ても驚かなかった。
予定表に書いた「三人で初決裁」を、白手袋の指で一度なぞる。
「では、それまでに未決裁案件を片づけましょう」




