第4話 死亡者が出勤してきました
「本人確認に失敗しました。理由――故人」
勤怠端末が、妙に丁寧な音声で告げた。
春夏冬成海さんは、自分の職員証を端末へもう一度かざす。
「本人です」
『故人です』
「出勤しました」
『ご冥福をお祈りします』
「会話が進んでるようで一歩も進んでない!」
私が端末の電源を抜くと、成海さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「初日からお手数を。遅刻理由は死亡で申請しておきます」
「それ、特別休暇ですか。有給ですか」
「前回は出勤扱いでした」
「前回があるんですか」
山本さんが死亡届を机へ置く。
「平成元年に死亡。なのに昨日付で人事発令。説明してください」
「説明できる記憶がありません」
成海さんは平らな声で答えた。
そのくせ、地下十三階の暗証番号を知り、三番目の机から自分用の白手袋を取り出し、ハンコさんが右角から触ると噛むことまで知っていた。
給湯棚の奥から茶葉まで見つけ、「前はここでした」と湯を沸かす。缶の賞味期限は十七年前だった。記憶はないのに、手順だけが職場へ残っている。人が忘れたのか、職場が人を覚えているのか、判断がつかなかった。
「ずいぶん職場に詳しいですね」
「長く勤めていた気がします」
「私たちのことは?」
成海さんは私と山本さんを交互に見る。
「斎藤さん。山川さん」
「山本です」
「惜しいです」
「一文字しか合っていません」
昨夜の「あなたまで、ここへ来たんですね」という言葉も、本人は覚えていなかった。
尋ね直そうとしたところで、黒電話が鳴る。
『高速道路延伸予定地で、掘削機が毎朝入口へ戻されます!』
「盗難ですか?」
『自力で戻ります! あと埴輪が議事録を要求しています!』
受話器を置いた。
「普通の事件ではなさそうです」
「この電話が普通だったこと、まだ一度もないです」
山本さんが鞄を持つ。
「現場へ。契約前に掘った人間は、だいたい契約後より高くつきます」
成海さんは白手袋をはめた。
「では、閉じに行きましょう」
その言い方だけは、長年の仕事へ戻る人のものだった。
◇
現場へ向かう途中、コンビニで昼食を買った。
成海さんは鮭のおにぎりを選び、包みを両手で持って少し笑った。
「鮭、好きなんですか」
「分かりません。好きだったことにします」
冗談に聞こえず、私はそれ以上聞けなかった。
高速道路の工事現場では、掘削機が整然と入口へ並んでいた。作業員が奥へ運んでも、夜になると無人で戻ってくるらしい。
私たちの目の前で、停止中の掘削機がひとりでに始動した。アームが土盛りへ伸びたかと思うと、土の中から突き出た無数の手に押し返される。重機はしょんぼりした動物のように後退し、入口の白線へぴたりと駐車した。
「安全運転だけは徹底していますね」
「死者にコンプライアンスで負けないでください」
その前を、埴輪の列が行進していた。
小さな埴輪は測量杭を引き抜き、大きな埴輪は工事看板の矢印を古墳側から駐車場側へ直している。昨夜は現場事務所の複合機まで占拠し、『埋め直せ』を二百部印刷したらしい。用紙設定だけは両面・白黒で、経費節減への理解が妙に深い。
「怪異にまでコスト意識で負けてますよ」
「感心するところではありません」
一体が粘土板を抱え、私たちを見るなり差し出す。
協議事項 一、埋め直せ。二、埋め直せ。三、埋め直せ。
「議事録というより要求書ですね」
山本さんが赤ペンを入れる。
「『埋め戻す』が行政文書として適切です」
埴輪書記が土の塊を投げた。眼鏡へ命中する。
「誤字を指摘しただけでしょう!」
「相性よさそうですね、レッシーさん」
「山本です。あなたも埋めますよ」
現場では、道路事業者、文化財担当、地元住民が三方向から主張していた。
「工期が一日延びるだけで損失が出ます」
「未調査の古墳を壊せません」
「道路が来なければ若い人の仕事がない」
「工事内容を住民へ説明したのは、埴輪が出る前です」
「出たあとも説明してくださいよ」
私が割って入ると、地元代表の男性が吐き捨てるように言った。
「また、決まってから知らせるんですか。この土地はダムのときも、堤防のときもそうだった」
男性は、工事区域の外れにある小さな石碑を指した。洪水で亡くなった者を弔う碑だという。計画説明会の資料では、ただの「移設可能工作物」と記されていた。
「ここに何があるか知ってる人間は、年々減ってる。だから道路に反対したら、古いものへしがみつく住民と言われる。賛成したら、先祖を売ったと言われる。せめて、何を選ばされているのか先に教えてくれ」
古墳を守りたいだけではないらしい。道路か保存かという二択へ押し込まれる前に、自分たちを当事者として数えてほしいのだ。
成海さんは騒ぎから離れ、土の盛り上がりへ白手袋を当てた。
目を閉じる。
「王の墓ではありません」
風が止まった。
「古代の洪水で亡くなり、名を記録されなかった人々を一時的に収めた場所です。墓ではなく、生者と死者を結び分ける境界結び」
「掘ったらどうなるんですか」
「道路は、人を帰すための道にもなります。境界を開いたまま舗装すれば、死者は道路沿いに町へ戻るでしょう」
道路事業者の顔から血の気が引いた。
「それを先に言ってください!」
「先ほど確認しました」
成海さんは責めなかった。ただ事実を置いた。
その静けさに、全員が口を閉じる。
私は手を打った。
一拍、二拍、三拍。
朱と金の輪が地面へ広がる。
「本当に守りたいものを、一つだけ言ってください」
道路担当がうつむく。
「工期より、作業員を死なせたくない」
文化財担当は古墳を見る。
「物ではなく、ここにいた人の名を調べたい」
地元代表は拳をほどいた。
「道路は欲しい。でも、また自分たち抜きで土地を決められたくない」
そして私の口からも、本音が落ちた。
「私は、成海さんが私を知っていた理由を聞くのが怖い」
音が戻る。
成海さんは驚かず、少しだけ寂しそうに笑った。
「私も、知りたいです」
その一言を、山本さんは黙って聞いた。
◇
「線形を東へ二百八十メートル変更。古墳周辺を慰霊・共同調査区域へ指定。調査委員会に地元代表を加え、道路開通までに身元推定記録を公開する」
山本さんが契約案を読み上げる。
「工期延長分は、境界障害による設計変更として共同負担。異議のある方は今、言ってください。あとから『聞いていない』は契約上も呪術上も通しません」
道路担当、文化財担当、地元代表が署名した。
しかし、古墳の入口から黒い風が漏れ続ける。
「条件は整いました」
成海さんが、袖から古い朱印を出した。
「ここからは決裁です」
彼女が印を地面へ落とす。
ぽん、という小さな音。
次の瞬間、朱色の亀裂が彼岸花のように古墳全体へ広がった。
周囲の色が一瞬だけ抜ける。
土の下から無数の足音が響き、入口へ向かい、見えない線の手前で止まった。
「あなた方の名を調べます。けれど今は、こちらへ戻らないでください」
成海さんの声とともに亀裂が閉じる。
埴輪たちは一斉に頭を下げ、そのまま土へ沈んだ。
誰も拍手できなかった。
格好よかった。それ以上に、何かを代わりに失ったように見えた。
「決裁は完了しました」
成海さんは朱印を拾おうとして、一度だけ手を空振りした。私が差し出すと、礼を言って受け取る。白手袋の手首に、細い赤い痕が一本増えていた。
「痛くないんですか」
「痛みは、覚えているうちだけです」
「それ、安心できる説明じゃありません」
成海さんは答えず、工事関係者へ最終確認の署名を求めた。自分に起きたことだけを、案件の外へ追い出すように。
帰りの車で、成海さんが尋ねた。
「ところで、昼食はまだでしょうか」
「食べましたよ。鮭のおにぎり」
「私が?」
座席のポケットには、彼女が丸めた包みが入っていた。
「好きだったことにするって、言ってました」
成海さんは包みを見つめた。
「そうですか。では、好きだったのでしょう」
笑ったが、今度はその笑顔に何も浮かばなかった。
山本さんが眼鏡を外す。
「決裁のたびに、忘れるんですか」
「すべてではありません。仕事に不要なものから少しずつ」
「昼食が、仕事に不要だから?」
「国の運用上は」
成海さんは穏やかに答えた。山本さんの指が、眼鏡のつるを強く握る。
「あなた自身の運用上は、どうなんです」
成海さんは答えなかった。
ハンコさんも動かなかった。
◇
共同調査中、古墳の奥で壁画が見つかった。
色の薄い髪。白い手袋。朱印を地面へ置き、死者を閉じる女。
衣服も髪型も古代のものなのに、白手袋だけが今の彼女と同じ形をしている。壁画の女の周囲には、閉じた境界の数を示すように十七の朱印が並んでいた。
時代が違う。なのに顔は、成海さんと同じだった。
「あなた、以前ここへ来たんですか」
「覚えていません」
壁画の足元だけ、古代の顔料ではない。
土を払うと、現代語の文字が現れた。
十八回目は、退職させること。




