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第3話 弁天様は契約書に嘘をつけない

「紙を破らないで! 公文書ですよ!」

「だから破ったんです。公文書の顔をした生贄募集票だったので」


 長身の女は、真っ二つにした仮合意書を机へ広げた。


 銀縁眼鏡の奥で、虹彩が水面のように揺れている。


「山本礼世。契約更新担当です」


 彼女は身分証を突き出した。


 Regulatory and Esoteric Settlement Specialist-I。


「略してRESS-I。レッシーさんですね」

「山本です。人名を型番で呼ばないでください」

「その型番、身分証の名前より大きく印刷されてますけど」

「私の人生で最も不服な行政処分です」


 レッシー――山本さんは、破れた紙の一文を指した。


 必要な代償は、関係者において負担する。


「昨夜、あなたが追加した文です」

「湖を戻してもらう以上、何か対価が要ると思って」

「誰が、何を、いくら、いつまでに。全部ない。善意で代償欄を空白にする担当者は、悪意ある相手より危険です」


「ミツハさんは悪意ある相手じゃありません」

「だから余計に危ない。相手も忘れた契約ほど、止める者がいません」


 山本さんが眼鏡を外す。


 紙の行間から青白い水脈が伸び、机を伝って床へ流れた。水の中に、消された文章が浮かぶ。


 十二年ごと、当事者一名の記憶を供出する。


 水の中には、さらに小さな文字が沈んでいた。供出者の選定は「最も記録上の結びつきが薄い者」から。つまり家族が少なく、転居が多く、役所の台帳で孤立している人ほど先に選ばれる。契約は公平な抽選ですらなかった。忘れられやすい者から、忘れさせる仕組みだった。


「あなたの文に主語がないせいで、二十八年前に止まった基礎契約へつながりました。今夜零時、赤目旧町に関わる人間が一人、自分の大切な誰かを忘れます」


「そんな行間、読めるわけないでしょう!」

「読めないなら、署名しないことです」

「署名しなければ、湖が落ちていました!」

「正しい。だから今から、読める人間が直します」


 腹は立つのに、言葉だけは頼もしい。


 私は破れた紙を拾った。


「レッシーさん、赤目貯水池へ行きます」

「山本です」

「一分惜しいので訂正は現地で」

「訂正を軽く扱うな!」


     ◇


 ダム湖は元の位置にあったが、水面だけが空を映していなかった。


 映っているのは、水没前の町だった。


 管理所の倉庫には、昨夜回収した町名板と、湖底から出た石板が保管されていた。石板へ触れた山本さんの目に波紋が広がる。


 文字の溝から青い水が走った。


「原契約です」


 昭和期のダム建設時、赤目旧町の住民は移転に同意した。ただし条件があった。


 町名を公の地図へ残すこと。


 水を守ってきた御水守への祭祀を、年に一度続けること。


 水没した家、墓、道の記録を保存すること。


「その代わり、ミツハさんは水位を安定させる。人間と怪異の相互契約だったんですね」

「ええ。ところが町名は地図から消され、祭祀予算も『効果を測定できない』として廃止。資料庫も統合の際に閉鎖された」


 山本さんが昭和の契約書を透かす。


「不履行分を何で埋めたと思います?」

「……人の記憶」

「町を公に記録しない代わりに、個人の中へ沈めた。十二年に一人、故郷や家族の記憶をミツハへ供出して、契約を延命した」


 昨夜の私の一文が、その仕組みを再起動させた。


「三十三分は?」


 石板の端に、小さな鐘が刻まれている。


「赤目旧町が水没する日、最後の鐘を鳴らし続けた時間です。住民が高台へ上がってから、水が鐘楼へ届くまで三十三分」


 数字だと思っていたものは、町が町でいられた最後の時間だった。


 携帯が鳴った。


 戸村ヨシさんからだ。


『息子が、私を誰だと聞くんです』


 電話の向こうで、男の声が震えていた。


『写真を見ても、母親の顔だと分からない。名前だけは読めるのに、何も思い出せない』


 供出が始まっている。


 零時まで、五十四分。


     ◇


「契約を無効にしましょう」


 私は言った。


「同意のない生贄なんて、契約じゃない」

「原契約を一方的に消せば、ミツハが担っている水位調整も消えます。下流域まで危険になる」

「なら、記憶を差し出し続けろと?」

「そんなことは言っていません」

「さっきから有効だ、履行だって、紙の心配ばかりじゃないですか」


 山本さんの目が冷えた。


「私は、紙の向こうで誰が代金を払うか見ています」


 低い声だった。


「あなたは『助けたい』と書いて、代金欄を空けた。空白は優しさではありません。そこへ一番弱い人の名前が入る」


 何も言い返せなかった。


 正しいからではない。正しいだけでは、ヨシさんの息子の記憶は戻らないからだ。


 水面が盛り上がり、ミツハが現れた。


「また、名が一つ沈む」

「あなたが取っているんですか」

「契約が寄越す。私は、沈んでくるものを抱えているだけだ」


 水の顔には、知らない人々の表情が幾重にも浮かんでいた。


 私は申立書を握る。


「もう一度、聞かせてください」


 一拍。二拍。三拍。


 朱と金の輪が広がり、音が消える。


「ミツハさん。あなたが本当に欲しいものは?」


 水の喉が震えた。


「人の記憶など欲しくない。町があったと、国の記録へ戻してほしい」


 岸へ集まった元住民たちも、隠していた声を漏らす。


「ダムを壊したいんじゃない」

「ここで暮らす人を責めたいんでもない」

「沈んだ故郷を、恥のように消されたくない」


 岸のいちばん後ろで、杖をついた老人が呟いた。


「弁天様は、契約書に嘘をつけん。破ったのは、いつも人のほうじゃ」


 弁天様。祭りの残り火のような古い呼び名だった。水を守る神への祭祀が、この土地では弁天様への信仰と重なっていたのだろう。約束を守る側が水底へ沈められ、破った側は記録を閉じた。それを契約と呼ぶのなら、紙のほうが人間より正直だ。


 そして私の番が来た。


「私は――助けたいだけじゃない」


 喉が痛む。


「この配属が外れじゃなかったと、役に立てると証明したかった。だから急いで署名した」


 音が戻る。


 恥ずかしくて湖へ沈みたい。だが、空白にした動機まで認めなければ、同じことを繰り返す。


 山本さんは笑わなかった。


「動機を記載できるなら、修正可能です」


 彼女は新しい契約書を開いた。


「対価を、人の記憶から公の記録へ置き換えます」


 赤目旧町を行政地図へ仮登録する。


 年一回、三十三分の公的追悼を行う。


 ダム資料館へ旧町の常設展示を設ける。


 ミツハは水位安定に協力し、異常時は怪異対策室へ申立を行う。


 双方に更新、異議申立、解除協議の権利を置く。


「祈りでも脅しでもない。だから、撤回する権利も書きます」


 文章の行間を青い水脈が巡り、責任の流れが一本ずつつながっていく。


「でも、国側の正式な署名者がいません」


 私がペンを取ると、山本さんが手を押さえた。


「あなたは受理者です。約束を履行させるのは、私の仕事です」

「証人署名をしたら、山本さんも毎年の確認義務を負うんでしょう」

「読める人間が、読まなかったふりをするよりましです」


 山本礼世。


 彼女が名を書くと、青い水が手首へ輪を作った。


 零時まで、三分。


     ◇


 行政地図の更新画面が回り続ける。


「仮登録でも審査項目が多すぎる!」

「備考欄へ『湖が空へ上がるため緊急』と書かないで。差し戻されます」

「事実なのに!」


 零時三十秒前。


 湖が空へ持ち上がり始めた。


 ヨシさんの息子が、母の名前を何度も読み上げる。声から意味が消えかけている。


 十秒前。


 画面へ、仮登録完了の文字が出た。


 行政地図の水色の中に、小さな名が戻る。


 赤目旧町。


 湖底の道路標識が一斉に表を向いた。


 ミツハはそれを見上げ、初めて穏やかに笑った。


「仮の名でも、無名よりよい」


 逆さの湖が静かに戻る。


 ヨシさんの息子が、電話の向こうで泣いた。


『母さん』


 ハンコさんが契約書へ飛び乗った。


 ぽん。


 初めての「受理」。


「やりましたね、レッシーさん」

「山本です」


 握手はしなかった。同時に契約書を守ろうとして、額をぶつけた。


「痛っ」

「近い!」

「そちらが長いんですよ!」

「身長を行政責任にするな!」


     ◇


 地下十三階へ戻り、原契約の証人欄を確認した。


 一人だけ、消されずに残る名がある。


 境界決裁官 春夏冬成海。


「『春夏冬』で、あきなし、と読みます」


 山本さんが添付書類をめくる。


 死亡届。平成元年受理。


「亡くなってる……」

「人事システムでは、本日付で怪異対策室へ出勤予定です」

「人事と戸籍、どっちが間違ってるんですか」

「この部署では、その質問に期待しないでください」


 扉が開いた。


 色の薄い長髪、黒いスーツ、季節外れの白手袋。


 女は花束と、自分の死亡届を抱えていた。


「遅れてすみません。死亡届の訂正に時間がかかりました」


 彼女は私を見るなり、ほんの一瞬だけ目を見開いた。


「あなたまで、ここへ来たんですね」


「私を知っているんですか?」


 女――春夏冬成海は、首を傾げた。


「……今、私は何か言いましたか?」


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