第2話 怪異の所管、国交省でも環境省でもありません
赤目貯水池との仮合意が切れるまで、残り九時間。
ところが四省庁合同会議の第一議題は、「この会議をどの省庁の会議として記録するか」だった。
「河川施設に関する会議なら当方ですが、怪異を議題名へ含めると所掌範囲を越えます」
「生態系への影響なら環境分野です。ただし申立人を生物と認定したわけではありません」
「水没した旧町は文化財指定前です」
「内閣府は調整役であり、実施主体ではありません」
地下十三階の大型モニターに、四つの顔が並んでいる。
全員、「関係はあるが主所管ではない」と言っていた。
会議システムの自動字幕だけが、なぜか正確だった。
――責任を取りたくない。
「字幕! 要約しすぎです!」
私が消そうとすると、画面隅の水たまりが口の形になった。
『よくできた人間の道具だ』
ミツハまでオンライン参加している。怪異だけ音声認識が完璧なのは納得がいかない。
「斎藤さん」
議長役を押しつけられた内閣府の参事官が、眼鏡を直した。
「あなたが昨夜作成した仮合意は、権限の裏づけがない無権限行為です。放流停止、避難、物品回収。いずれも新人職員が単独で決めてよい内容ではありません」
「分かっています」
分かっているからこそ腹が立つ。正規の権限が必要なのも、勝手な善意が事故を広げるのも事実だ。だが、正しい手続を待っている間に被害が出たとき、その正しさは誰を守るのだろう。
「では撤回を」
参事官から届いた是正通知は七ページあった。要約すると「事故は起こすな、権限も使うな、何かあれば報告せよ」である。手足を縛ったうえで泳げと言われている。しかも水のほうが空にある。
「撤回したら、湖がまた空へ上がります」
ミツハの画面で、水位が一センチ上がった。
『三十三分は返した。今宵零時までも待っている。人間の言葉は、期限が切れると軽くなるらしいな』
「現在、所管を精査中です」
『二十八年前も同じことを聞いた』
私は机の上の古い申立書を見た。
二十八年前の書類には私の名と職員番号、そして「春夏冬成海に最終決裁をさせるな」という警告が浮かんでいる。
知らない名前に怯えている暇はなかった。
「では本件をどこが引き取るのか、決めましょう」
私が言うと、全員が同時にミュートになった。
三分間、口だけが動いた。
やっと音声が戻ったとき、会議は「発言の記録主体」について揉めていた。
「人間のほうが怪異より会話できない……」
そのとき、机の電話が鳴った。
赤目旧町の元住民、戸村ヨシと名乗る老女だった。
『昨日、町の札が上がったそうですね』
「はい。赤目旧町と書かれていました」
『私が十六まで住んだ町です。沈むときも窓口が別々でした。家は補償、道路は移転、墓は文化、祭りは地域。役所へ行くたび、同じ話を最初からしました』
ヨシさんは怒鳴らなかった。
『うちの表札は、昨日上がりましたか』
「戸村、という表札は見ました」
『そうですか。なら、あの家はまだ、どこかにあるんですね』
安堵した声が痛かった。家そのものは水底で崩れていても、名前を確認できただけで、ヨシさんには帰る場所が戻ったのだ。
『町が一つ沈んだのに、役所では四つも五つも別の出来事だった。だから最後には、町そのものがなかったことになったんでしょうか』
答えを探している間に、私用の携帯が震えた。
父からだった。
「ごめん、お父さん。今、仕事中で――」
『あ……お……』
途切れた音が耳へ届く。
父は労災のあと、言葉を組み立てるのに時間がかかる。会議画面では、参事官が「斎藤さん」と口を動かし、チャット欄に早く戻れと催促が増えていく。
それでも私は待った。
「うん。急がなくていいよ」
十秒。二十秒。
『き……け』
「聞け?」
『きけ』
父はそれだけ言って電話を切った。
会議へ戻ると、参事官が眉を寄せていた。
「私用電話はあとにしてください」
「すみません。でも、答えは出ました」
私は新しい文書を開いた。
「一つの省庁に全部を押しつけるから、全員が逃げるんです。本件を切り分けます」
水位と堤体安全は河川管理。避難と住民周知は県の防災部門。水没資料の保全は文化部門。ミツハとの交渉と全体調整は怪異対策室。
「暫定共同所管実施要領。期限は十二時間。各機関が、自分の権限の範囲だけ責任を持つ」
さらに、一つの作業が終わっても、案件全体の未処理事項が残っている限り全員へ通知が飛ぶ欄を加えた。責任を混ぜて薄めるのではない。誰がどこまで引き受けたかを切り分け、切れ目だけは全員から見えるようにする。
「他部門の進捗まで確認義務が生じます」
「はい。水位が戻っても避難所が閉じられなければ、案件は終わりません」
「負担が重すぎる」
「空中に湖を保留している方の負担よりは軽いです」
会議画面の隅に水滴が集まり、ミツハの赤い目になった。賛成なのか監視なのかは分からない。少なくとも、彼女は人間の会議を最後まで聞いていた。
「共同所管では責任者が曖昧になります」
「だから全体調整責任者を置きます」
欄の一番上へ、自分の名を書いた。
斎藤葵。
昨日の署名は勢いだった。今日は違う。誰か一人が全部を救えるとは思わない。けれど、連絡先の欄まで空白なら、困っている側はまた最初から説明することになる。私は、その一番目の欄だけは空けたくなかった。
参事官の声が一段低くなる。
「あなたは、何を背負うか理解していますか」
「全部ではありません。全部を背負えるほど偉くないので。私は、連絡が途切れたときに集め直す責任を負います」
「河川側は副担当で」
画面の表示名が「河川担当(副)」へ変わった。
「文化部門も副担当として」
「文化担当(副)」へ変わる。
「全員が副になったら主担当が私一人になるでしょうが!」
私が叫んだ瞬間、ハンコさんがモニターへ飛び込んだ。
画面越しに、ぽん、ぽん、ぽん。
責任を避けた参加者の額へ「差戻」が浮かぶ。
「遠隔押印までできるの!?」
ハンコさんは、河川担当の前で手を止めた。
その職員は黙り込み、やがて息を吐く。
「……堤体安全と水位操作は、当方が主担当として引き受けます。ただし超過放流時は県と即時共有を」
怪異字幕が、一拍遅れて画面下へ本音を出した。
【怖い。だが昨日の映像を見て、逃げ切れないと思った】
本人は表示に気づいていない。私は本来の発言だけを議事録へ残した。暴かれた本音を罰する窓口になったら、次から誰も本心を口にできない。聞くことと、利用することは違う。
ぽん。
額へ「保留」。
文化担当も言った。
「回収物を仮保全します。指定の可否は、調査後に判断します」
ぽん。
県は一時避難の継続を了承した。環境部門はミツハを生物と断定せず、「水域環境へ影響する意思主体」という、分からないことだけはよく分かる呼称で調査対象に加えた。
「呼び方は長いですけど、いない扱いより百倍いいです」
「百倍の算定根拠は議事録から削除してください」
四つの保留印が並んだところで、ハンコさんは自分の角を満足そうに磨いた。正論では動かなかったくせに、責任を引き受けた瞬間だけ素直だ。
会議システムが初めて「合意成立」と表示した。
正式決裁ではない。だが、誰が何をするかは決まった。
『十二時間、待とう』
ミツハの顔が水面から現れる。
『ただし、名を返す契約がなければ、同じことは繰り返す』
「契約?」
『人間は忘れたのか。私だけに覚えていろと言ったくせに』
水面が閉じた。
◇
会議後、私は二十八年前の申立書を照明へ透かした。
紙の裏に、現在の内閣府印とは違う朱印がある。
濡れた指でなぞると、上に重ねられた印影が薄れ、古い文字が現れた。
対異調整課。
印の周囲には、削り取られた人名が輪のように並んでいた。消した跡だけが残り、誰が責任を負っていたのかは読めない。昨夜の申立書と同じだ。役所は空白を作るときだけ、妙に丁寧だった。
「廃止年月日も、設置記録もない……」
組織図にない怪異対策室より前に、さらに記録のない部署があった。
隠し印の横には、細い指示が残されている。
契約更新担当 RESS-Iを招集せよ。
「れす、いち?」
その瞬間、会議室の扉が蹴り開けられた。
長身の女が入ってくる。黒髪を一本に結び、銀縁眼鏡の奥から私の書類を一瞥した。
「あなたが斎藤葵?」
「はい。あなたは――」
女は私の仮合意書を奪い、真っ二つに破った。
「紙を破らないで! 公文書ですよ!」
「だから破ったんです」
女の虹彩に、水面のような波紋が広がる。
「公文書の顔をした生贄募集票だったので」
破れた行間から、青い水が滴った。
「この署名、今夜零時に人間を一人、記憶から消します」




