第1話 配属先は地下十三階、所管はこの世の外
私がそこへ着く三分前。
午前八時五十七分、誰もいない内閣府地下で古いファクスが鳴った。
機械は水滴と一緒に、一枚の苦情申立書を吐き出す。
申立人――赤目貯水池・御水守ミツハ。
「人間が、また沈んでくる。至急、そちらで引き取れ」
◇
「斎藤さんには、省庁横断的な重要部署で、前例にとらわれず、現場に近い仕事をしていただきます」
人事担当は私と目を合わせなかった。
左遷先を褒める三大婉曲表現が、一息で全部出た。
「希望は地域政策部門でした」
「地域の課題にも近い部署です」
「組織図にありません」
「既存の枠に収まりません」
「庁舎案内は地下十二階までです」
「前例にとらわれないでください」
便利だな、その言葉。
辞令には「内閣府省庁怪異対策室勤務を命ずる」とあった。
「怪異って比喩ですか」
「誤字ではありません」
「室長は」
「歴代空席です」
「同僚は」
「備品が先に着任しています」
私は国家公務員総合職二年目、斎藤葵、二十五歳。昨日まで、廊下を速足で歩けば希望部署へ届くと思っていた。今日からは廊下そのものがないらしい。
◇
エレベーターに地下十三階のボタンはなかった。
渡されたメモどおり「閉」を三回押し、扉へ「お疲れさまです」と言う。存在しなかったB13が赤く灯った。
「社会人の礼儀を認証鍵にしないでよ……」
箱が地下十二階を過ぎると、階数表示は数字をやめた。
機密。未登録。該当なし。担当外。
最後に「お察しください」と出て、扉が開く。配属先まで婉曲表現で案内する必要はない。
扉の先には「省庁怪異対策室」。その下へ手書きの注意書きがある。
怪異は駆除できません。駆除すると責任と災害が別の場所へ移ります。
室内に人はいなかった。
年代の違う机が三つ並び、黒電話と最新型モニターが同じ延長コードにつながっている。壁の予定表には「月曜・河童、水曜・道路の泣き声、金曜・世界終末(仮)」とあった。金曜だけ予定の粒が大きすぎる。
代わりに水滴が天井へ昇り、中央の机では手足の生えた朱肉色の怪異公印が歩いていた。
公印は私の辞令を奪い、勢いよく着地する。
ぽん。
「差戻」
「私だって差し戻したいですよ!」
公印は深くうなずき、もう一度押した。
「所管外」
赤い警報灯が回った。
所管未定怪異・緊急案件。
「その言葉が起動スイッチなの!?」
黒電話から録音音声が流れる。
『新任者の着任を確認。現場へ移動してください。室長は歴代空席です』
「質問は」
『解決後、事案として受理してください』
ファクスから水が這い出し、私の靴先で「急げ」と形を作った。
私は公印をつまみ上げる。
「君、名前は?」
手の甲へ、ぽん。
ハンコさん。
「そのまんま!」
◇
赤目貯水池に着いたとき、左遷を嘆いていた自分を殴りたくなった。
ダム湖が、空に浮かんでいた。
巨大な水の塊が上下を逆さにして堤体の真上で静止し、魚が青空を泳いでいる。沈んだ道路標識や家並みが、水越しにこちらを見下ろしていた。
標識の文字は逆さのままでも読めた。赤目旧町。町の名は空の上でまだ生きているのに、地上の地図からは消えている。配属初日の私が知らないだけ、とは思えなかった。誰かが「なかったことにした」場所の気配がした。
管理事務所では、関係者が逆さ湖よりノートパソコンを見ていた。
窓の外には避難用のバスが二台、エンジンをかけたまま止まっている。乗っているのは下流地区の住民だ。子どもがガラスへ額をつけ、空を泳ぐ魚を指さしていた。大人たちは誰も笑わない。避難命令ではなく「念のための移動協力」なので、帰宅時刻も、仕事を休んだ補償も決まっていないらしい。怪異の担当が決まらない間、住民の生活まで仮置きにされていた。
「貯水設備に付随する現象なので設備管理部門で」
「生物と確認できなければ環境分野では」
「旧町跡は文化財指定前です」
「事件性も未確認です」
そのうえ全員が、オンライン会議を誰のアカウントで開くかを相談し始めた。録画データを持つ者が責任も持つらしく、主催権が熱い芋になっている。
「怪異を先に下ろしません?」
全員が私を見た。
「本日付で怪異対策室に配属された斎藤です」
彼らの顔に、大型ごみの回収業者を迎える安心が広がった。
「では本件はそちらで」
「説明を一文字も聞いてませんけど」
鞄の中で警報が鳴る。ハンコさんが空中へ赤い文字を出していた。
所管外発言・累計四件。
長机の議事録用紙が勝手に濡れた。
青い字が滲む。
たすけて。
堤体が鳴り、空中の湖へ波紋が走った。
水面から錆びた町名板、表札、住宅地図、学校の校章が現れ、水をまとって長い女の姿になる。顔の半分は湖面で、目だけが赤い。
「申立書は、届いたか」
声を聞いただけで肺へ水が入った気がした。
「御水守ミツハさん、で合っていますか」
「名を読める者が、まだいたか」
管理所長が私を引く。
「会話しないでください。あれが異常の原因です」
「持ち上げた理由を聞きましたか」
「怪異に理由など」
ミツハの顔を作る地図が裂けた。
「沈めているのは、そちらだ」
堤体へ亀裂が走る。
「点検員を返せ」「名を捨てたのはお前たちだ」「避難判断は県だ」「放流は管理者だ」「指定前は文化財ではない」「所管外だ」
人間と怪異の声が重なり、警報が限界まで上がった。
全員、自分が正しい。だから誰の声も届かない。
足元へ濡れた申立書が流れ着いた。
「少なくとも、この方は苦情を言いに来ています」
「人ではありません」
「では、この存在。呼び方はあとで決めます。聞かないと始まりません」
受理者欄へ自分の名を書く。
斎藤葵。
「本件を、仮受理します」
なぜか手を打たなければならないと思った。
一拍。騒音が一枚はがれる。
二拍。足元へ朱と金の輪が広がる。
三拍。
世界から音が消えた。
管理所長の口が勝手に開く。
「先週の転落事故を、公表したくない」
県の防災担当が続く。
「住民を避難させたい。でも空振りなら責任を問われる」
文化財担当の女性は唇を噛んだ。
「水底の町を調べたかった。指定前だからと止められた」
最後に、ミツハの水でできた喉が震える。
「沈んだ町の名を、忘れられたくない」
白い申請窓口。言葉を探す父の口元。急かす時計の秒針。
父は労災のあと、言葉がうまく出なくなった。窓口で沈黙するたび、「意思確認ができない」と書類を戻された。震える指が申請書の絵へ届く前に、私が代わって答えたこともある。父を助けたつもりで、父の希望を私の言葉へすり替えていた。たった一人、父が指で絵を示すまで待ってくれた職員がいた。あの日、私は行政を志した。
聞き取れない声は、存在しない声ではない。
私の本音まで、胸から押し出された。
「担当外と言われたまま消える人を、もう見たくない」
音が戻った。
膝が抜けそうになる。何が起きたか、私にも分からない。
でも、隠していた声は聞こえた。
「管理所は三十三分だけ放流を止める。その間に旧町の物品を一つ回収。県は周辺住民へ一時避難。文化財担当は回収物を仮保全。ミツハさんは、明日の夜十二時まで湖を戻してください」
「三十三分の根拠は」
ミツハの胸元に、半分割れた鐘が浮かんでいた。
「申立書に書きかけてありました。意味は正式協議で聞きます」
「正式協議をする者がいるのか」
「今、できました」
「あなたに権限はない」
「だから明日の夜までの仮合意です。明日、所管と責任者を決めます」
「決まらなければ」
「私がまた来ます」
ミツハの赤い目が細くなる。
「軽い口で、重いことを言う」
「口は軽いですけど、名前は書きました」
ハンコさんが私の腕を駆け上がり、額へ飛んだ。
ぽん。
「痛っ!」
額には「保留」。正式受理ではない。でも差し戻しもしなかった。
「よい。明日の夜まで、水を返しておこう」
逆さの湖が落ちた。
空いっぱいの水が轟音と共にダムへ戻り、世界が白い飛沫に包まれる。
静まった湖面に、一枚の町名板が浮いた。
赤目旧町。
◇
地下十三階へ戻ったのは午後十一時過ぎだった。
机の引き出しが勝手に開く。
中には、今日と同じ赤目貯水池の申立書。日付は平成十年六月――二十八年前。
受理者欄へ触れると、水と一緒に赤い文字が浮かび上がった。
次回受理者 斎藤葵。
その下には、今日交付されたばかりの私の職員番号。
二十八年前の文書が、今の私を知っている。
偶然では済まない。私は今日ここへ配属されたのではなく、今日ここへ来るよう、ずっと前から待たれていた。
さらに最下段へ、細い注意書きが現れた。
次回の再発時、春夏冬成海に最終決裁をさせてはならない。
「春夏冬……誰?」
ハンコさんが、動きを止めた。
その名を、知っているかのように。




