第2章 身代わりの決意
夜の街は、やけに静かだった。
人の気配はあるのに、どこか現実感がない。
街灯の光が、アスファルトに滲んでいる。
その中を、鈴は歩いていた。
一歩。
また一歩。
足は、震えている。
(怖い)
当たり前だ。
逃げ出したい。
今すぐ、引き返したい。
(やだ……)
心の奥で、小さな声が泣いている。
(怖いよ……)
でも。
足は止まらない。
止められない。
(行かなきゃ)
その理由だけが、体を動かしている。
スマホが震える。
メッセージ。
指定された場所。
――古い雑居ビル。
人気のない裏通り。
(ここ……)
見上げる。
黒い影のような建物。
窓はほとんど光っていない。
まるで、口を開けて待っているみたいだった。
(ここに……いる)
喉が乾く。
唾を飲み込もうとしても、うまくいかない。
背中に、嫌な汗が流れる。
「……来たな」
その声は、背後からだった。
(……!)
振り向く。
いた。
あの男。
教師の顔をしている時とは、まるで違う。
目が、暗い。
底がない。
「一人で来たか」
値踏みするような視線。
(……昴)
一瞬、よぎる。
でも。
(来ないで)
心の中で強く思う。
巻き込みたくない。
絶対に。
「約束は守った」
声を絞り出す。
震えないように。
「弟たちは……?」
男は、ゆっくり笑う。
その笑みは、歪んでいる。
「中だ」
顎で、ビルを指す。
「無事だよ」
その言葉に、少しだけ息が戻る。
(生きてる)
それだけでいい。
今は。
「行け」
男が、扉を開ける。
軋む音。
まるで、何かが壊れる音みたいだった。
中は、暗い。
冷たい空気が流れてくる。
(……行く)
足を踏み出す。
一歩。
その瞬間。
手首を掴まれた。
「逃げるなよ」
低い声。
皮膚に食い込む指。
(痛い……)
でも、声は出さない。
「逃げない」
はっきり言う。
男の目が、わずかに細くなる。
「そうか」
手を離す。
「いい子だ」
その言葉に、吐き気がする。
(気持ち悪い……)
でも。
顔には出さない。
出したら、終わる。
階段を上る。
一段ずつ。
コツ、コツ、と音が響く。
(静かすぎる)
自分の足音だけがやけに大きい。
(怖い)
頭の中で、何度も繰り返す。
でも。
そのたびに、別の声が重なる。
(守る)
弟たちの顔。
泣き顔。
笑顔。
ホットケーキを作ろうとして、ぐちゃぐちゃにした台所。
「お姉ちゃん!」
あの声。
(……絶対に)
胸の奥が、ぎゅっと締まる。
(守る)
そのためなら。
何でもする。
どんなことでも。
(私が……)
立ち止まる。
階段の途中。
一瞬だけ。
目を閉じる。
(もし……)
この先で。
戻れなくなったら?
全部、壊れたら?
(……それでも)
ゆっくり、息を吸う。
(いい)
自分に言い聞かせる。
(この選択でいい)
怖いまま。
震えたまま。
それでも。
「……行く」
小さく呟く。
足を、もう一度動かす。
最上階。
扉の前。
男が先に立つ。
「ここだ」
扉を開ける。
中は、薄暗い。
そして――
「……っ!」
いた。
部屋の隅。
縛られている。
弟たち。
「お姉ちゃん……!」
その声を聞いた瞬間。
世界が、一気に戻る。
(生きてる……!)
足が勝手に動く。
駆け寄ろうとする。
その瞬間――
ガシャン。
手首に、冷たいものがはまる。
(……え?)
見る。
銀色の輪。
手錠。
「……っ!」
反射的に引く。
でも、外れない。
「条件だ」
男の声。
冷たい。
「お前が、代わりになる」
(……やっぱり)
分かっていた。
でも。
現実になると、違う。
恐怖が、形になる。
「この子たちは返す」
淡々と言う。
「約束だ」
(……信じるしかない)
他に、選択肢はない。
「……分かった」
声が、震える。
でも。
逃げない。
男は、弟たちの縄を解く。
「帰れ」
弟たちは、泣きながら鈴を見る。
「お姉ちゃん……!」
(大丈夫)
目で伝える。
必死に。
(大丈夫だから)
笑おうとする。
でも、うまく笑えない。
それでも。
頷く。
弟たちは、駆け出す。
扉の向こうへ。
その小さな背中が消える。
(……よかった)
全身の力が、一瞬抜ける。
でも。
次の瞬間。
現実が、押し寄せる。
自分は、ここに残った。
逃げられない。
「これで……二人きりだ」
男の声。
空気が変わる。
重く。
濁る。
鈴は、ゆっくり顔を上げる。
恐怖は、消えない。
消えないまま。
それでも。
目を逸らさない。
(逃げない)
もう決めた。
「……何をする気?」
声は、かすれている。
でも。
意思は、折れていない。
男は、笑う。
歪んだ笑み。
「分からないのか?」
一歩、近づく。
鈴の背中が、壁に当たる。
逃げ場はない。
(怖い)
でも。
その奥に、別の感情がある。
(終わらせる)
ここで。
全部。
逃げない。
戦う。
鈴は、ぎゅっと拳を握る。
手錠が食い込む。
痛い。
でも、それでいい。
(私は……)
息を吸う。
(人間だ)
あの言葉が、胸に浮かぶ。
「女神じゃない」
「弱いままでいい」
「それでも――」
「守る」
その瞬間。
鈴の中で、何かが決まった。
完全に。
覚悟が、固まった。
――そのとき。
遠くで、微かな音がした。
足音。
誰かが、来る。
(……まさか)
心臓が跳ねる。
男は、まだ気づいていない。
でも。
鈴だけは分かる。
(来た)
あの人だ。
(昴……)
胸の奥に、熱が灯る。
恐怖の中で。
初めての、確かな光。
鈴は、ゆっくりと目を閉じる。
(お願い)
祈る。
でも。
ただ助けてほしいわけじゃない。
(来て)
一緒に、終わらせるために。
静かに、目を開ける。
その瞳には――
もう、迷いはなかった。
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