第3話 お祝いの言葉は、まだ言えない
相談室へ入る前に、二人の名字をもう一度読んだ。
九月七日。初回打合せの資料を持ち、私は廊下の窓で足を止めた。朝倉様、相沢様。仕事の間は、そう呼ぶ。
そう決めれば簡単になると思ったが、口にしないうちから、少し不自然だった。
水野主任が扉を開け、私を見た。
「準備できた?」
「はい」
私たちは廊下側へ並んで座り、二人を待った。
机には、白紙の希望欄と、契約時の概算を置いた。私が昔聞いた好みを書き込んだ物は、一枚もなかった。
美緒は窓を背にする席へ座った。
悠真がその隣で鞄を置き、私を見る。
「本当に、仕事の顔だね」
「今日は、ご希望を伺います」
私は資料を二人へ渡した。
どう返せばよいか考えると、挨拶の先へ進めなかった。だから、今日することから始めた。
美緒は紙をめくり、表紙にある自分の名前へ指を置いた。悠真の名前と並んだ、その文字を見て、小さく笑った。
私は水を一口飲んだ。
「先に、当日、どんな時間があればうれしいかを、聞かせてください」
「写真は、たくさん残したい」
美緒はすぐに答えた。
「海が見えるところで、みんなが集まって。花も、写真にした時に、寂しくならないようにしたいです」
途中で、私以外もいる席の言い方になった。
私は希望欄へ書いた。
「写真は、飾った場所の写真と、ご招待の方と写る写真では、どちらを多く残したいですか」
「両方。でも、みんなと写る方は、来た人が撮ってくれるかな」
「ご自身で撮る方もいらっしゃいます。ただ、どなたと写りたいか、先に決めておくと、ご案内しやすくなります」
美緒はそうですねと言って、手元の紙を見た。
悠真が、その横から、写真ばかりになると、みんな疲れないかな、と言った。
彼女が顔を向けた。
「ずっと撮るわけじゃないよ」
「分かってる。食事の時間も、あるから」
私は悠真の方へ紙を少し向けた。
「朝倉様は、食事の時間を、ゆっくり取りたいというご希望ですか」
初めて客として名字を呼ぶと、彼は少し笑った。
「そうですね。来た人が、堅苦しくならない感じで。あまり決まり事を増やさずに、楽しく」
「ご挨拶や、ご友人の出番を少なくすることもできます。お二人が、必ずお願いしたい方はいらっしゃいますか」
悠真は会社の人には一言、と答えた。
ほかにも、学生時代の友人と、親戚の話が出た。私はその人に依頼済みなのか、これから相談するのかを分けて書いた。
堅苦しくしない、と言っただけでは、挨拶は減らない。
そのことを、責めるように言わずに済ませたかった。
美緒が携帯の写真を見せた。
大きな花の飾りを、二人の席の後ろへ置いた会場だった。天井から下がる布と、幾つもの灯りも写っていた。
「こんな感じ。ここでも、できる?」
私は携帯を預からず、彼女が持つ画面を見た。
「そのまま同じ物を置けるかは、会場と担当者へ確認します。どの部分が、一番お好きですか」
「後ろに、高さがあるところ。座ってても、顔の周りが明るいから」
私は写真の印象を、言葉にして確かめた。
花の量だけを増やせばよいと思っていたわけではなかった。美緒は何を見せたいかを考えるのが上手だった。以前、私が仕事の写真を選ぶ時にも、明るさの違いを教えてくれた。
その時に助けてもらったことまで、なかったことにはできなかった。
私は顔の周りと背景の高さ、と書いた。
「同じ量を置く以外にも、見せ方は考えられると思います。具体的な案は、花店と相談して、お出しします」
「よかった。紗季なら、分かってくれると思った」
美緒は携帯を机へ戻した。
私は紙へ視線を落とし、金額はまだ含めていません、と続けた。
彼女は一瞬だけ表情を止めたが、すぐに、もちろん、と答えた。
料理の話になると、悠真が急に具体的になった。
遠くから来る人に、地元の物を食べてもらいたい。祖母には、あまり硬い物は出したくない。美緒の職場の人には、見た目の楽しい物も喜ばれそうだという。
私はそれぞれ確認が必要な点を記した。
祖母への気遣いは、初めて聞いた物ではなかった。自分の式の話をしていた頃も、彼は同じ人の食事を心配した。
同じ人が来るのだと思った。
私が挨拶するはずだった人へ、今度は客席の準備をする。
「篠原さん」
主任が私の名前を呼んだ。
私は顔を上げた。悠真が何かを尋ねたところだった。
「すみません。もう一度お願いします」
「お菓子、持って帰ってもらうなら、何種類か選べるのかなって」
私は該当の紙を出した。
今決められるのは、どんな物を渡したいかまでだった。種類と数を確認し、実際に用意できる案を店からもらう。
返事をしながら、ペンを持つ手を一度緩めた。
美緒は焼菓子の写真を見て、ここへ名前を印刷した紙も入れたいと言った。
私はその希望を、別の欄へ書いた。
時計を確かめ、私はここまでの希望を読んだ。
写真に残したい背景、客と話す時間、地元の料理と持ち帰る品。
美緒は頷き、悠真も、いいと思うと答えた。
「この中で、予算と時間の都合が重なった時、先に残したい物はありますか」
「全部、そこまで大きなことじゃないですよね」
悠真が言った。
私は今のご希望をそれぞれ形にすると、組み合わせで変わります、と答えた。
「例えば、皆様との撮影を増やす場合、お食事中にお席を回る時間と、どう分けるかを考えることになります。どちらも、同じ時間にはできませんので」
彼は資料を見た。
美緒が、撮影は減らしたくないな、と言った。
「まず、撮りたい方の組合せを出してみましょう。そこから、どれくらい時間が必要かを確認します」
私は二人へ同じ紙を渡した。
悠真の友人の名前を、私が代わりに書き始めることはしなかった。以前なら、知っているからと、自分の方で埋めただろう。
今日は、本人が書くのを待った。
最後に、契約時の概算へ戻った。
六十名で二百四十万円。既に支払われた申込金二十万円も含まれている。今日挙がった希望のうち、何が含まれ、何が別に確認する物かを、主任が説明した。
私は資料を開き直し、追加候補の欄を示した。
「まだ、全てを入れた金額ではありません。これから案を作るにあたり、お二人の上限を、改めて確認させてください」
悠真が口を開きかけ、美緒が先に答えた。
「三百五十万円くらいまでで、考えてます」
私はペンを止めず、金額を書いた。
その横で、悠真が椅子へ座り直した。
「そこまでは、言ってないよ」
美緒が彼を見た。
「でも、やりたいことを入れたら、少し増えるって」
「少しだよ。俺は、二百六十万円くらいのつもりだった」
私は二人を見た。
どちらが正しいかを、こちらへ尋ねるような顔だった。
私は美緒の数字の横へ、悠真の数字も書いた。二つの間に、線は引かなかった。
「ご予算については、お二人で、もう一度確認をお願いします」
「間を取ったら、だいたい三百万でしょ」
悠真が笑いかけた。
その場を楽にしようとする時の声だった。私は笑わなかった。
「その金額を、どなたが、どうご負担されるかも含めての確認です。平均を出して決めることはできません」
主任が頷き、今は追加を確定させないことを伝えた。
美緒は自分の書いた紙を見た。悠真は概算の一番下を指で押さえたままだった。
おめでとうございますとは、今日も言えなかった。
私は次回までの確認事項へ、上限額と負担者、と書いた。
二人で決めたはずの結婚式に、まだ、二つの予算があった。




