第29話 仕事ではない約束
打ち上げの席では、誰も私に、おめでとうとは言わなかった。
十一月十九日、会場の仕事をした人たちで、小さな食堂に集まった。水野主任、小野さん、会場の担当、高瀬さん。ほかにも、準備と当日の仕事を分け持った人が来ていた。
食事が来ると、当日、次の案内が早く分かって助かったという人がいた。反対に、ここは、もう少し前に共有してほしかったという話もあった。
私は聞いて、覚えておきたいところを短く書いた。
主任が、今日は、そのメモを閉じる時間も取ってねと言った。
私は笑い、鞄へ戻した。
小野さんは、食べたかった一品が先になくなりそうだと、自分の皿へ取った。
私はその人にも食べたい順番があることを、仕事の外で初めて見ていた。
高瀬さんは少し遅れて手を伸ばし、まだありました、と笑った。
「高瀬さんはほかに、何が食べたいですか」
私が尋ねると、彼は皿を見比べた。
「そちらの、きのこの物を」
私は手元にあった皿を、彼へ渡した。
彼は受け取り、ありがとうございますと答えた。
そんな一往復が、今は、うれしかった。
店を出て、みんなと道が分かれる時、高瀬さんが私へ声を掛けた。
私は隣へ並び、駅の方へ歩いた。
今日は仕事の資料を持っていないと、そこで気づいた。
「篠原さん」
彼が呼んだ。
「仕事で会わない日に、会いたいです」
私は足を少し遅くした。
彼も同じようにして、続けた。
「帰りに食事をする時間だけでなくて。こちらから、誘ってもいいですか」
私ははい、と答えた。
声が小さくなり、もう一度言った。
「私も、会いたいです。仕事ではない日に」
高瀬さんは目を伏せるようにして笑った。
その顔を見て、私は自分の鞄の紐を持ち直した。
今は、彼の返事で、自然に笑っていた。
私たちはそれぞれの連絡先を確かめた。
仕事の窓口に、休日の約束を紛れ込ませる必要はなくなった。
空いている日は、十一月二十四日が合った。
高瀬さんは行きたいところはありますか、と尋ねた。
「水族館へ、行きたいです」
自分でも、すぐに答えたことに驚いた。
ずっと前、帰り道の広告を見て、いつか行こうと思った場所だった。誰かのために下見をしたこともなければ、婚礼企画に関わるところでもなかった。
「小さな水槽を、順番に見たいです。何を見たか、覚えきれないくらい、ゆっくり」
言うと、彼はいいですね、と答えた。
「私も、ゆっくり見たいです」
その返事を受け取り、日と場所を決めた。
もっとよい案を出されるのを待つ必要はなかった。自分の行きたい場所が、二人の予定になった。
十一月二十四日、駅の改札で、高瀬さんが手を上げた。
いつもの大きな鞄は、なかった。小さな肩掛けの鞄に、上着の前を開けていた。
私は彼へ近づき、おはようございます、と言った。
仕事を始めるためでない朝に、その声を聞いた。
「今日は、撮らないんですか」
私が尋ねると、彼は携帯はあります、と答えた。
「ただ、ずっと画面を見ていると、ここへ来たのを忘れそうなので」
「では、私は撮りたくなったら撮ります」
「はい。見せてもらっても」
私は頷いた。
水族館の入口で、それぞれの分を支払った。
彼が私の分を先に持とうとしたので、私は自分で出しますと答えた。
高瀬さんは少し手を止め、分かりました、と自分の分だけを出した。
最初の水槽の前で、私は思ったより長く立ち止まった。
薄い魚が、向きを変えるたびに、一度見えなくなる。横から光ると、また輪郭が戻った。
高瀬さんは隣で見ていた。
「あれ、同じ魚ですか」
私が指すと、彼は少し近づき、たぶん、と答えた。
「私も、途中で見失いました」
私は笑った。
撮る人だから何でも見ていると、また決めつけかけていた。
二人で案内の文を読み直し、次の水槽へ移った。
見てから説明を読み、戻ってもう一度見る。そういう歩き方になった。
決めた順に全部回るのが、今日の仕事ではなかった。
途中、私は携帯で一枚撮った。
ガラスに、自分の上着の一部が写ってしまった。高瀬さんへ見せると、ここを少しと言いかけて、彼は止まった。
「直し方を、聞きたいですか」
私は彼を見た。
それから、今日は、失敗を見せただけです、と答えた。
彼は笑い、分かりました、と返した。
私はその写真を消さずに、携帯を鞄へ戻した。
昼食では、私は魚の形をした子供向けの皿を見て、少し迷った。
高瀬さんが、食べたいんですか、と尋ねた。
「見ていたいだけかもしれません。量は、足りないと思います」
私が答えると、彼は笑った。
「その違いは、大事ですね」
私は普通の定食を選び、彼は麺の物を頼んだ。
食べ終わってから、子供の頃に好きだった物の話をした。
私は折ると中から小さな絵が出る紙のおもちゃを、何度も作っていた。彼は同じ映画を、場面を覚えるほど繰り返して見たという。
話しているうちに、今も少し似ている、と二人で笑った。
まだ知らない頃の、その人の手の動きを、少し想像したかった。
午後も、全部の場所を急いで見なかった。
私が先の水槽へ進んでから、高瀬さんがまだ前のところにいるのに気づいた時は、戻って並んだ。
彼も、私が立ち止まったところで、少し待った。
どちらかがいつも同じ速さになる必要はなかった。
外へ出ると、夕方の風が冷たかった。
私たちは駅へ向かう前に、建物の横のベンチへ座った。
私は今日の写真を一度開き、ガラスに写った上着を見て、笑った。
高瀬さんも、その画面を見ていた。
「また、どこかへ行きたいです」
私が言うと、彼ははい、と答えた。
それから、携帯を見るのをやめ、私へ顔を向けた。
「私は篠原さんが好きです」
私は手元の画面を閉じた。
彼は私が顔を上げるのを待っていた。
「仕事をしているところを見て、もっと知りたいと思いました。何を頼まれても引き受けるからではなくて、どこまでできるかを考えて、相手にも返事を待ってもらうところを」
私は小さく頷いた。
「その人に、こちらが先に答えを決めて話したこともありました。今度は、何をしたいかを聞いて、一緒に決める人になりたいです」
彼は少し息を吸った。
「恋人として、付き合ってもらえますか」
私はすぐに、はい、と答えた。
返事をしてから、少し笑ってしまった。
高瀬さんは驚いたように目を開き、それから口元を緩めた。
「私も、好きです。一緒にいる時、自分がしたいことを、後回しにせずに言いたくなります」
私は続けた。
「今日は、ここへ来たかったです。次も、自分から行きたいところを、言いたいです。高瀬さんの行きたいところも、聞きたいです」
彼は頷いた。
私は今度こそ、はっきり伝えた。
「私も、恋人として、付き合いたいです」
言い終えると、私は少しだけ肩の力を抜いた。
ここへ一緒に来た人が、同じように次を望んでいた。それが、うれしかった。
「名前で、呼んでもらっても、いいです」
私は言った。
彼は少し迷ってから、紗季さん、と呼んだ。
私は頷き、遼さん、と返した。
二人とも少し笑った。
仕事の時に聞いていた名前が、自分へ向いた別の声になった。
ベンチを立つ時、遼さんが、手をつないでも、と尋ねた。
私は自分から手を出した。
取られた手は温かく、指が少し動いた。私はその分だけ、持ち直した。
歩き始めるまで、ほんの少し時間が掛かった。
「次は、私からも、候補を出します」
遼さんが言った。
「はい。でも、私も、もう一つ、行きたいところがあります」
答えると、彼は笑った。
「聞かせてください」
私はその返事がうれしくて、駅までの道で話し始めた。
私たちはまず二つ出し、次の休日を一緒に見てみることにした。




