第21話 お支払いになる方のお名前
恵子さんは、私の顔を見てから、一度だけ、隣の夫を見た。
十月二十四日、リーヴェルの相談室には、六人分の椅子を用意していた。
廊下側へ水野主任と私。向かいには悠真と美緒。その隣へ、悠真の両親が座った。
私は私物の鞄を机の下へ寄せ、会社の資料を手前へ置いた。
「篠原と申します。本日は、制作内容の確認と記録を担当いたします」
頭を下げると、恵子さんは、よろしくお願いします、と答えた。
以前、家の玄関で聞いた声だった。
続きに、久しぶりね、とは言わなかった。私も、あの時のお礼をここで話そうとはしなかった。
主任が全員へ挨拶し、今日、何を確認するかを伝えた。
「希望されている内容の費用と、どなたがご負担になるかを、同じ資料で確認させていただきます」
悠真の父親が頷いた。
美緒は見積を開き、悠真は両親の前へ、同じ紙を一枚ずつ置いた。
私が用意して渡した物だった。彼が、これまでどんな説明と一緒に見せたかは、まだ分からなかった。
主任は最初に総額を示した。
出席四十五名。基本の範囲を組み直した二百十万円に、希望する追加が八十万円。合計二百九十万円。
既に支払われた申込金二十万円を含み、残りは二百七十万円になる。
私は内訳のページを開いた。花、映像と写真、演出、衣装の追加手配、紙や包装。どれも、まだ候補として確認している部分があった。
「これは、全部、お願いした物ですか」
恵子さんが悠真へ尋ねた。
「やりたいことを、入れてもらったんだよ。まだ、これから決めるところもある」
彼は答えた。
主任が、その通りです、と補った。
「追加の全てを正式に発注したものではありません。どこまで実施するか、ご負担の確認と合わせて、選んでいただきます」
悠真の父親は、見積の一番下へ指を置いた。
「この金額を用意できるかを、確かめるんですね」
「はい。お二人がご用意になる額と、ご家族がご負担になると確認された額を、分けて伺います」
主任は答えた。
私はその文を急いで書かなかった。返事を書くための欄を空け、顔を上げた。
「ご家族のご負担について、どこまでお話が決まっていますか」
主任が悠真と美緒へ尋ねた。
悠真はまず、自分たちの用意から、と答えた。
私は彼が示した資料の該当箇所を確認した。二人が、現在、用意できると確認した額を、ここで合わせる。
申込金を含め、二百二十万円だった。
私たちはその額を、本人たちが了承した数字として記録した。
「この二百二十万円には、ご両親からの援助を含みますか」
主任が尋ねた。
悠真は首を振った。
「そこは、俺たちの分です」
「ありがとうございます。では、ご家族のご負担として予定していた額を、確認させてください」
少し間があった。
美緒が、悠真の方を見た。
彼は見積の紙を動かし、それから母親へ顔を向けた。
「百五十万くらいは、考えてくれてると思ってたんだけど」
恵子さんは、すぐには返さなかった。
隣の夫が、息子の顔を見た。
「その話は、いつ、決めたの」
母親が尋ねた。
私は紙へ、一度、目を落とした。
大きな声は、出なかった。
それでもいままで空いていた欄が、誰も答えていない場所として、机の真ん中へ現れたようだった。
「前に、式の費用の話をしただろ」
悠真は言った。
「無理をしすぎないようにって。足りなかったら、考えるって」
「見積を見せて、と言いました。何をするのかも分からないうちに、いくら出すとは、言っていません」
恵子さんは、自分の資料を置いた。
「それから、二人で用意したから大丈夫だと、あなたが言ったでしょう」
美緒の手が、見積の上で止まった。
私は顔を上げた。
彼女は悠真を見ていた。私の方へ、助けを求める顔ではなかった。
「二人で、用意したって、話したの?」
美緒が尋ねた。
「だって、ある分は、あるだろ」
「私には、お母さんたちが出してくれるからって」
悠真は母親と美緒を、交互に見た。
それから、総額の方を指した。
「百五十万、全部が絶対に必要っていうわけじゃないんだよ。今、足りない分は、そこまでじゃないし」
主任が、金額の確認を一つずつ行います、と声を挟んだ。
私は空けていた行へ、親の援助として本人が了承した額、という見出しを書いた。
「恵子様、ご負担されるとお約束された金額は、ありますか」
主任が尋ねた。
恵子さんは首を横へ振った。
「ありません。夫とも、そういう約束はしていません」
父親も、していません、と答えた。
私はその二つの返事を、同じ欄へ記した。
悠真は黙った。
美緒が、じゃあ、百五十万って何だったの、と聞いた。
声は小さかったが、はっきりしていた。
「出してもらえると思ってたんだよ」
「思ってたことを、私には、出してくれるって言ったの?」
彼女は見積の端を押さえた。
紙が少し曲がった。
悠真はそこを今、責めても、と言いかけた。
恵子さんが息子の名前を呼んだ。
「美緒さんへ、どう説明したかを、答えなさい」
私はペンを持つ手を少し緩めた。
その言葉を聞きたかった自分がいた。
彼が私へ、説明するほどのことではないと笑った時にも、誰かがそう言ってくれればと思っていた。
でも、今日、彼女が求めているのは、私の過去を正す返事ではなかった。
目の前の見積を、美緒へどう説明したかだった。
「相談したら、出してくれると思ったから。そのつもりで、言った」
悠真は答えた。
美緒は目を伏せた。
恵子さんは、見積の紙をもう一度読み始めた。
私を見て、かわいそうだったねと言うことは、なかった。
それで、よかった。
主任が、いま確認できた内容を読み上げた。
二人が用意できる額は、申込金を含め二百二十万円。親が費用を引き受ける合意は、現在ない。
希望を全て入れる案との差は、七十万円になる。
「今日、この席で、ご両親へ、その差額をご負担いただくと決めることはしません」
主任は言った。
「新たにご家族で相談される場合も、どなたが何を了承したかを、改めてご確認ください。会社は、未確認の額を、払われる予定として扱いません」
恵子さんは、ありがとうございます、と答えた。
父親が、まず二人で、できる範囲を考えてほしい、と言った。
私はその返事を記した。
「全部、やめるということですか」
美緒が主任へ尋ねた。
「そうと決まったわけではありません。何を残し、何を変更するか、案を比べていただきます。実施しない場合も含め、会社から手順と費用を説明します」
私は基本の案の紙を、机の中央へ置いた。
花も、料理も、映像の基本の範囲も、そこにあった。
今日の結論は、ここまでになった。
新たな援助は、その場では決めない。二人は用意できる範囲と、残す希望を話し直す。会社は、次の打合せで選択肢と判断の期限を示す。
私は確認した内容を読み、全員から、違うところがないかを聞いた。
悠真も、小さく、はい、と答えた。
席を立つ時、恵子さんが私の方を向いた。
私は何を言われるかと、少し身構えた。
「今日は、分かるようにしてくださって、ありがとうございました」
彼女は言った。
私は頭を下げた。
「こちらこそ、お越しいただき、ありがとうございました」
それ以上、今は言わなかった。
悠真の両親は先に帰り、二人も少し遅れて、会場を出た。
美緒は悠真と並ばず、数歩先を歩いていた。
相談室へ戻ると、私は全員分のコップをまとめた。
主任が、記録を一度見てから、今日は少し休憩を取りましょうと言った。
私は返事をして、空いた椅子へ座った。
胸がすいた、とは違った。
彼が、期待を、約束のように話したことは分かった。美緒も、彼の説明を問い直した。親は、自分が了承していない額を引き受けなかった。
それで、私の五月が戻るわけではなかった。
私は資料の一番上を見た。
お支払いになる方のお名前。
その問いに、今日、本人が答えた。
私が見たい顔を見せてもらうことより、次に進むために必要なのは、その返事だった。
コップを運ぶために立つと、脚は少し重かった。
でも、悠真の返事の続きを、どこまでも待っている必要はなくなっていた。




