第15話 代わりに決めないで
高瀬さんは私が返事をする前に、もう一つの案を話し始めた。
十月八日、会場での確認を終えたあと、私たちは業務用の出入口に近い休憩場所へ座っていた。庭から戻るスタッフが見える、廊下の端の小さな机だった。
「別の方へ引き継ぐことは、今からでもできるんですよね」
彼が尋ね、私ははい、と答えた。
それで、私の返事は済んだと思われたらしかった。
「それなら、降りた方がいいと思います。篠原さんが、最後までやる必要はないです」
私は水のコップから手を離した。
高瀬さんは私の顔を見ていた。
声は穏やかで、誰かを責めている様子もなかった。私が楽になる方を、考えたのだろう。
それが、分かったからこそ、返事が遅れた。
少し前、彼に、顔色がよくないと尋ねられた。
私は眠れてはいます、と答えた。自分でも、聞かれたことへの答えになっていなかった。
仕事の確認はできる。食事も取る。でも、打合せのたびに、終わってからも考えていることがある。
そこまで話した。
美緒が何に困り、自分がどんな問いを口にしかけたか、その細部を、彼へ伝えたわけではなかった。
会社で主任と相談しているとも、伝えた。
彼は頷き、では担当を、と話を進めたのだった。
「主任には、相談しています」
私は言った。
「聞いています。ただ、話しても、つらい状態が変わらないなら」
「つらくなくなるまで、仕事をしてはいけないんですか」
言葉が速く出た。
彼は少し黙った。
「そういう意味では、ありません」
「では、どんな意味ですか」
自分で聞きながら、少し詰めすぎたと思った。
高瀬さんは机の端へ手を置いた。
「篠原さんが、無理をしなくてよい方法があるなら、そちらを選んでもいいと思ったんです」
「選んでもいい、なら、分かります」
私は答えた。
「でも、降りた方がいいと、言いましたよね」
彼は私を見た。
私は水を飲みたかったが、コップを持たなかった。
「自分の企画を、やりたいです」
私は言った。
「あの二人のためだけに、受けたわけではありません。ここまで相談した店の方と、実際に形にしたい。途中で離れたら、もう続かないということではないと、分かったうえで、それでも私が関わりたいです」
高瀬さんは頷いた。
「はい。そのことは、聞きました」
「聞いて、でも、降りた方がいいんですね」
彼は返事をしなかった。
私は言い直すために、一度口を閉じた。
仕事を受け続けたいと言えば、どんな状態でも認めてもらえるわけではない。監督する会社が、適切にできないと判断すれば、体制を変えることもある。
それは、分かっていた。
「仕事がちゃんとできているかは、主任と確かめています。私だけが大丈夫と言って、何も見てもらわない進め方には、していません」
「はい」
「でも、私が何を続けたいかを聞く前に、やめる方がよいと決められると、話せなくなります」
声は、少しだけ小さくなった。
彼にそう言わなければならないことが、悲しかった。
昼食を選んだ時、私が何を食べたいかを聞いてくれた人だった。その人なら、仕事の話でも同じようにしてくれると、勝手に思っていた。
「代わりに、決めないでください」
私は彼を見て、伝えた。
高瀬さんはゆっくり息を吐いた。
「私は続けてほしくないと思ったわけではないです」
「はい」
「仕事の確認のあと、篠原さんが、しばらく動かずにいた日があって。私が、何かできることはないかと考えていました」
私は目を伏せた。
あの日のことか、と思う日が、幾つかあった。
見られていたことが嫌なのではない。助けたかったと言われると、怒る理由まで自分が片付けなければならない気がして、困った。
「何かしてほしい時、私から頼んでもいいですか」
私は尋ねた。
彼は顔を上げた。
「はい」
「その時、できないことは、できないと返してください。でも、先に仕事をなくせばいいと、決めないでほしいです」
高瀬さんは頷いた。
私は自分も言わなければならないところがあると思った。
「私も、高瀬さんなら、何も説明しなくても、分かってくれると思いました。それは、勝手でした」
言うと、彼は少し困ったような顔をした。
「分からないことは、多いです」
「そうですよね」
私は頷いた。
それで笑えたらよかったが、笑うところまでは戻れなかった。
廊下の向こうから、台車を押す音がした。
私たちは少し椅子を寄せた。通る人は、ありがとうございますと挨拶をし、そのまま行った。
周りの仕事は、続いていた。
自分たちだけが、同じところで止まっていた。
「今日、言い切ったことは、すみませんでした」
高瀬さんが言った。
私は彼を見た。
「やめた方が楽になると、こちらで考えていました。篠原さんが、どうしたいかを、先に聞くべきでした」
私ははい、と答えた。
そう言ってもらえたことは、うれしかった。でも、すぐに、もう大丈夫ですとは言えなかった。
私が疲れているところを見せれば、この人は、仕事を取り上げる方へ考えるのだろうか。
その疑いが、少し残った。
「今日は、すぐに、何もなかったようには話せないです」
私は伝えた。
高瀬さんは分かりました、と答えた。
「今度から、何も聞かない方がよいということでも、ないですよね」
私は首を横へ振った。
「はい。聞いてほしいです。意見も、言ってもらっていいです。ただ、私の返事を、待ってください」
「はい」
彼の返事を聞き、私はようやくコップを持った。
水はすっかりぬるくなっていた。
席を立つ前に、次の仕事の予定を確かめた。
資料を渡す日と、会社で確認を受ける順番。私と彼が気まずくなったからと、原稿の確認を遅らせたり、ほかの担当の予定を変えたりはしなかった。
高瀬さんも自分の予定を開き、仕事の返事をした。
いつもの話し方より、少し硬かった。
私はその硬さを、今すぐ責めたくはなかった。自分も、同じだったからだ。
「では、次回、よろしくお願いします」
彼が鞄を持った。
私はこちらこそ、と答えた。
今日は一緒に駅へ歩かなかった。
事務室へ戻ってから、私は主任へ短く伝えた。
高瀬さんに、担当を降りた方がよいと言われ、言い合いになったこと。仕事上の確認は予定通り進めること。
主任はその意見を聞いて、自分はどう思ったかと尋ねた。
「やめたいとは、思いませんでした。でも、やめたいと思った時に、負けたことになるようにも、したくないです」
答えると、主任は頷いた。
「そのためにも、続ける理由は、時々、確かめましょう」
私は手帳を開いた。
前のページには、見たくなかった自分の文が残っていた。
二人が困るところを見たい。
今日はその下へ、自分の仕事を続けたい、と書いた。
どちらかを消せば済むほど、単純ではなかった。
家へ帰り、私は携帯を机へ置いた。
高瀬さんに送る文を、何度か考えた。言いすぎました、と書けば、彼はまた、すみませんと返すだろう。
今夜、それだけを送り合いたいわけではなかった。
私は画面を閉じ、夕食の皿を出した。
青い鳥の窓を、一緒に見た人だった。
今日、私が言われたくないことを言った人も、同じ人だった。
あの帰り道が全部、間違いだったようには思いたくなかった。
次に会う仕事の日が、決まっている。
その先に、もう一度用件のない話をしたくなるかどうかは、今は、急いで決めなかった。




