第13話 仕事の帰りという言い訳
仕事が終わる時刻を、二度確かめてしまった。
十月二日、高瀬さんと映像の確認を終えたあと、私は資料をそろえながら壁の時計を見た。七時を少し過ぎていた。
差し替えた原稿は、新郎新婦が確認し、制作へ渡してあった。今日は使う範囲と、次に確認する素材を合わせたところだった。
私が返す仕事は、明日で間に合った。
「このあと、どちらへ帰られますか」
高瀬さんが尋ねた。
私は駅の方と答え、それから、もう帰るだけです、と付け足した。
彼は鞄を持つ手を替えた。
「よければ、何か食べてから帰りませんか。私、夕食がまだで」
「私も、まだです」
すぐに返してしまい、少し恥ずかしくなった。
彼はでは、と小さく笑った。
私は水野主任へ退室する旨を伝え、資料を所定の場所へ戻した。
持ち帰れば、食事の席でも、一枚くらいは確認できる。
そう考えたのに、今日は置いていった。
入ったのは、駅へ行く道の途中にある、小さな食堂だった。
窓の横の席はふさがっていて、奥の二人席へ案内された。高瀬さんが鞄を足元へ置き、私は上着を隣の椅子へ掛けた。
机の上には、メニューと水のコップだけがあった。
「今日は、乾く前に食べられますね」
私が言うと、彼は笑った。
「熱すぎないといいんですが」
私はメニューを開き、きのこのクリームコロッケを見つけた。
いつもなら、出てくるのが早そうな定食を選ぶ。高瀬さんが何を頼むかを聞くより先に、私は写真の端へ指を置いた。
「私、これにします」
「はい。私は焼き魚に」
彼は答えた。
私は水を飲み、前にパンの店で笑ったことを思い出した。
「自分で選ぶ練習をしているみたいです」
言うと、彼は首を傾げた。
「今も、ですか」
「はい。食べたい物より、面倒の少ない方から考えてしまうので」
「この店なら、どれを頼んでも、同じくらいご面倒を掛けるのかもしれません」
私は笑った。
彼も口元を緩め、でも、作る人には違いがあるでしょうね、と言った。
どちらが正しいか、そこまで話す必要はなかった。私は自分が頼んだ料理を、待つことにした。
青い鳥の話をすると、高瀬さんは覚えていた。
私は晴れた日に見たことを伝えた。影になって、青というより濃い灰色に見えた。
「雨の日の方が、色が分かりましたか」
「私には。その話を、仕事の連絡に書きかけました」
言ってから、彼を見た。
高瀬さんは少しだけ目を開き、それから、読んでみたかったです、と答えた。
「用件がなかったので、消しました」
「鳥の色の話をする、という用件では」
私はそういうことにしてもよかったんですね、と笑った。
彼も少し笑い、仕事の返事をしたつもりにならなければ、と付け足した。
私は頷いた。
「高瀬さんは撮っていない時も、よく周りを見るんですね」
「見ない時も、多いです。仕事が終わると、もう何も考えたくない日もあります」
「その時は、何をされるんですか」
「家へ帰って、同じ映像をまた見たりします」
私は彼を見た。
彼も自分の答えのおかしさに気づいたように、笑った。
「何も考えていないつもりで、やっています」
「私が、休むつもりで予定表を整理するのと、似ていますね」
「はい。それは、休めますか」
「時々、予定が増えます」
今度は二人で笑った。
料理が来ると、私はクリームコロッケを半分に割った。
湯気が上がったので、少し待つ。高瀬さんは魚の端へ箸を入れ、骨をよけた。
食べながら、私たちは帰宅が遅くなる日の話をした。
高瀬さんは前に付き合っていた人と、帰る時刻のことで何度も話したという。
「忙しいと、説明を短くするんです。今週は難しいとか、また今度とか」
私は箸を置かずに聞いた。
「相手が分かったと言ってくれると、話が済んだような気がして。でも、いつ会うかは、決めていませんでした」
「今度が、増えるんですね」
「はい。予定表には、載らないまま」
私は分かる気がします、と答えた。
聞かれたことへの返事だけして、自分が何を望むかを言わずに、仕事へ戻ることはあった。
彼は自分がどう悪かったかを長く説明せず、今は別れた相手だと、そこまで話した。
私は誰かが待っている人を、今ここへ引き止めているわけではないと知った。
「私も、仕事を理由にしたことはあります」
私が言うと、高瀬さんは箸を少し止めた。
「ただ、それを言えば、ほかのことを全部、私が引き受けたことになるのも、嫌で」
彼は黙って、私を見た。
私は自分から、次の言葉を選んだ。
「今の式の新郎と、婚約していました。五月に、解消しました。新婦は、その時まで、友人でした」
口へ出すと、会場の主任へ伝えた時より、ずっと個人の話になった。
高瀬さんは少し間を置き、そうだったんですね、と答えた。
知っていましたとも、知らなかったとも言わなかった。
「全部、詳しく聞いていただきたいわけではないんです。ただ、去年の相談が進まなかったことを、何も言わずにいるのも、少し」
「はい。話してくれて、ありがとうございます」
彼は答えた。
私は水を飲んだ。
今ここでひどい人ですねと言ってもらえたら、安心するかもしれない。でも、高瀬さんに、誰かを嫌うところから私へ近づいてほしくはなかった。
「今の仕事を続けるかどうかは、主任と確認しています。交代も、できるように」
「そうですか」
彼は頷いた。
その返事に、少しだけ考える間があった。
私は待ったが、彼はそれ以上、今は聞かなかった。
食事へ戻ると、コロッケは、ようやく食べやすい温度になっていた。
私は一口食べ、思っていたよりきのこが多かったと言った。
高瀬さんはそちらにしてよかったですか、と尋ねた。
「はい。今日は、これが食べたかったです」
「それなら、よかったです」
彼は自分の皿へ戻った。
会計の前、私は今日はご一緒できてよかったですと伝えた。
高瀬さんはこちらこそ、と答え、店の入口で鞄を持ち直した。
仕事が終わったあとで会っただけなら、次も仕事のあとに会えばよい。
そう考えてから、私はそれを待っているだけなのは惜しいと思った。
「次の確認の日、何時までいらっしゃいますか」
口へ出た問いは、予定の確認だった。
彼は思い出すように少し目を動かし、五時までです、と答えた。
「そのあと、別の仕事があって」
「そうなんですね」
私は頷き、駅の方へ歩いた。
彼は次の角で、反対側の道へ行く。別れる前に、またよろしくお願いしますと言った。
私はこちらこそと返した。
仕事で会わない日を、尋ねればよかった。
その問いを思いついたことだけを、今夜は持って帰った。




