第10話 差し替えてください
美緒は二枚の紙を同じ向きに並べた。
九月二十三日、相談室の机には、届いていた原稿と、新しく答えてもらう質問の紙があった。彼女の隣に悠真、向かいには水野主任と私が座っていた。
私の昔の原稿は、机へ出していなかった。
「こちらは、一度、差し替えをお願いします」
私が言うと、美緒は顔を上げた。
「参考にしたって、聞きました。そこだけ変えれば、いいんじゃないんですか」
私は届いた原稿の該当箇所を示した。
名前と、食べ物を一つ変えただけの三文だった。
「この部分は、私が以前、別の目的で書いた文章です。今のお二人の言葉として、そのまま使用することは、できません」
声が少し硬かった。
私は気づいたまま、続きを短くした。
「お二人が、今何を伝えたいかを、改めて伺います」
悠真が紙を指で押さえた。
「文章の形が、うまかったから。こういうのを書いて、って渡したつもりだったんだよ」
美緒が隣を向いた。
「私には、前に自分で考えた物があるって、言ったよね」
「俺たちで、だよ。前に、そういう話をしたから」
私は彼を見た。
私が書いて送り、彼は本当のことでしょと返した。それは、二人で一文ずつ考えたこととは違った。
そこを一つずつ訂正したら、話はきっと長くなった。
私は机の上の白紙へ、指を置いた。
「ここから、新しく作成するための質問を用意しました」
主任が、今の原稿は制作に渡していないと伝えた。
誰かの前で既に流れた文章を、取り消す話ではなかった。ここで替えればよい。それだけで済む段階に、まだいた。
最初の問いは、二人で過ごして楽しかった日だった。
私は先に文章へ整える必要はありませんと伝えた。短い言葉でよい。日や場所を挙げ、そこから何を残すかを選ぶ。
美緒は携帯を開いた。
「海に行った時かな。花火の時も」
私はそれぞれを書いた。
悠真も頷き、花火はよかった、と言った。
「どんなところが、よかったですか」
尋ねると、美緒は写真を探した。
見せられた画面には、明るい空と、小さく写った二人がいた。
「人が多かったけど、あまり近くへ行かなくても、見えたので。帰りに、飲物を買って」
彼女が話すと、悠真が、帰り、すごく待ったよなと笑った。
「あれは、海の方じゃない?」
「いや、花火」
「花火の時は、そのまま帰ったよ。次の日、私、仕事だったから」
美緒は写真から顔を上げた。
悠真は少し考え、そうだったか、と答えた。
私はどちらかを間違いと書かず、花火のどの時間を残したいかを聞き直した。
美緒は二人で見た景色、と答えた。
その言葉を書いた。
記憶が違うこと自体は、珍しくなかった。
私と悠真だって、同じ日の別の場面を覚えていたことがある。
それでも隣の人の返事を待つ美緒の顔が、前より静かになったことは、見えた。
次は、互いの好きなところを尋ねた。
悠真は明るいところ、と答えた。
美緒は口元を緩めたが、私が、どんな時に感じますかと聞くと、また彼を見た。
「みんなでいる時、楽しい感じになるから」
彼は答えた。
美緒はそういう感じか、と小さく言った。
私は彼女にも、同じ問いを向けた。
「話を、聞いてくれるところです」
私はペンを止めず、続きを待った。
「私が、仕事で嫌なことがあった時も。大丈夫だよって、言ってくれるので」
その言葉を、私は知っていた。
帰宅が遅れ、うまくいかなかった確認のことを話すと、悠真は紗季なら大丈夫と答えた。
聞いてくれていると感じた日も、話を終わらせたがっていると感じた日もあった。
美緒には、どちらだったかは、分からなかった。
「その時に、一番うれしかった言葉を、書いてみていただけますか」
私は紙を少し寄せた。
彼女はペンを取り、何か書き始めた。
私の知っている返事でも、彼女がうれしかった時間は、彼女の物だった。
そこまで自分が取り上げたいのかと考えると、違うと思えた。
これからどんな暮らしをしたいかという問いでは、二人とも、しばらく黙った。
悠真が、普通でよくないかな、と言った。
「普通、というのは、どんな一日でしょうか」
私は尋ねた。
彼はそこまで具体的に、と笑った。
「今すぐ、生活の全部を決める必要はありません。紹介の文章にする時、何を楽しみにしているかを、お二人の言葉で知りたいです」
主任が補った。
美緒は休日に出かけたいと答えた。
行ったことのない場所を、二人で探したい。写真を見せ合い、次はここへと決めるのが好きだったという。
「じゃあ、そう書けばいいんじゃない」
悠真が言った。
美緒は少しだけ彼を見てから、自分の紙へ戻った。
「悠真くんは、どうしたいの」
問いが、こちらへ向けた物ではなくなった。
私は次の説明をせず、待った。
「俺も、そういうのでいいと思う」
「私がしたいことじゃなくて、悠真くんが、したいこと」
彼は椅子へ座り直した。
少しして、家で何もしない日もほしい、と答えた。
美緒はじゃあ、その日も書こう、と言った。
私は初めてこの席で、二人が相談しているところを見た気がした。
打合せの終わりに、原稿の作り方を確認した。
今日の回答をもとに、二人が一度書き、互いに読む。私が仕事として確認するのは、長さや伝わりにくいところで、二人の思い出を新しく作ることではなかった。
主任が、制作へ渡す日と、その前に確認する日を示した。
美緒は手帳へ書き、悠真も携帯へ入れた。
「上手に、ならないと思うけど」
美緒が言った。
私は机の上の紙を見た。
楽しみにしている場所と、何もしない休日。その二つは、もう書いてあった。
「お二人が伝えたいことが、分かる物にしましょう」
「最初の方が、きれいな文章だったね」
彼女は届いた原稿へ目を向けた。
私はそちらを使ってくださいと返してしまえば、楽になるかもしれないと思った。元の自分の文が、きれいだったと認められたかった気持ちもあった。
でも、手を伸ばさなかった。
「差し替えを、お願いします」
私はもう一度伝えた。
美緒は頷き、その紙を自分の書いた物とは重ねず、鞄の別のところへ入れた。
二人が帰ったあと、私は相談室の椅子を戻した。
美緒の座っていた椅子の横に、小さな消しゴムのかけらが落ちていた。拾って捨て、机を拭いた。
主任が記録を確かめている間、私は窓のそばで少し待った。
「今日は、大丈夫でしたか」
尋ねられ、私は疲れましたと答えた。
「ただ、私が書き直すことには、しませんでした」
「ええ。次は、お二人から届くのを待ちましょう」
私は頷いた。
美緒が、悠真に何を求めていたのか、少し見えた。それで同情して、今までを全部忘れられるわけではなかった。
彼女に私の代わりはできない。そう言って安心するのも、違う気がした。
事務室へ戻り、高瀬さんへ渡す予定を更新した。
確認の済んだ物だけを、届いてから送る。彼からは、承知しました、と短く返ってきた。
私はその返事を読み、次の下見の予定を開いた。
雨の日に、どこで撮れるかを確かめる日だった。
家へ帰り、昔の原稿を自分の保存場所で開いた。
今の案件の資料とは、離れたところにあった。
パンを二つ買う朝の文章を、今日は一度だけ読んだ。
それから閉じ、食べたい夕食を考えた。




