表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/11

第8話 他人の借金ではなく、自分の未来に働く

第8話 他人の借金ではなく、自分の未来に働く


 葵が新しく借りた部屋は、駅から歩いて九分の一DKだった。玄関を開けると短い廊下の右側に台所があり、その奥に六畳の洋室がある。以前の家より狭かったが、窓を開けると近所のパン屋から焼きたての小麦とバターの匂いが流れてきた。


 引っ越したばかりのころ、部屋には段ボール箱が五つと、折り畳み式の小さな食卓しかなかった。葵は白いTシャツに紺色のゆったりしたパンツをはき、休日ごとに箱を一つずつ片づけた。急いで家具をそろえず、本当に必要なものを確かめてから買うことにした。


 台所の棚には、一人分の茶碗、汁椀、白い平皿、青い縁取りのマグカップを並べた。冷蔵庫には卵、豆腐、納豆、ヨーグルトと、近所の八百屋で買ったトマトが入っている。二人分より一人分を作るほうが難しい日もあったが、残った野菜は味噌汁へ入れ、翌朝に食べれば無駄にはならなかった。


「ニンジンは半分でよかったのね」


 誰もいない台所で、葵は一本買ったニンジンを見ながらつぶやいた。返事はなかったが、食卓の向こうから言い訳を聞かされることもなかった。使った皿は一枚だけで、朝に置いた場所へ帰宅後も同じ物が置かれている。


 通帳と印鑑は、寝室代わりの洋室に置いた鍵つきの書類ケースへ保管した。家計簿には家賃、食費、光熱費を記入し、将来のための積立金も少額から再開した。誰かが家計口座から百二十万円を送金する心配も、自宅を知らないうちに担保へ入れられる心配もない。


 離婚から一か月が過ぎたころ、大野弁護士から連絡があった。離婚後の手続きについて確認したあと、葵の仕事に関心を持っている人物がいるという。美咲の会社の事業計画書を分析した資料を見て、企業再生の仕事に向いているのではないかと話していた。


「企業再生ですか?」


「経営が苦しくなった会社の財務状況を調べ、立て直しを支援する仕事です。立花蓮さんという財務コンサルタントが、葵さんの分析を高く評価しています」


「私は経理事務の経験しかありません。会社を立て直したこともありません」


「すぐに転職する必要はありません。一度、話だけでも聞いてみませんか?」


 葵は電話を切ったあと、食卓へ置いた夕食を見た。その日はサバの塩焼きと、小松菜のごま和えを作っていた。サバの皮から香ばしい匂いが上がっていたが、箸を持つ前に企業再生という言葉をノートへ書いた。


 葵は現在の会社に不満を持っていたわけではない。給与は安定し、仕事にも慣れており、同僚との関係も悪くなかった。しかし拓海との暮らしを守るため、転勤や責任の重い仕事を避け、同じ業務を続けてきたことも事実だった。


 その週の土曜日、葵は大野法律事務所の会議室で立花蓮と会った。立花は濃紺のジャケットに白いシャツを合わせ、派手なネクタイも腕時計も身につけていなかった。机の上には黒い革の鞄と、角の折れた財務関係の本が置かれていた。


「初めまして。立花です。休日に時間を取っていただき、ありがとうございます」


「佐藤葵です。こちらこそ、お声をかけていただいてありがとうございます」


「大野先生から、美咲さんの事業計画書を分析した資料を見せてもらいました。もちろん、離婚問題に関係する個人情報は伏せてもらっています」


「私は、経理として不自然な数字を確認しただけです」


「その不自然さを、短時間で見つけられる人は多くありません。来店客数、購入率、客単価、原価率を分けて考え、売上予測に根拠がないと判断していますね」


 立花は葵が作成した表の写しを広げた。葵は、店の立地や営業時間から来店客数を見直し、現実的な購入率と客単価を当てはめていた。美咲が掲げた売上予測は、実際に期待できる金額の四倍以上だった。


「それから、融資金が店舗の開設費だけに使われていない可能性にも気づいています。なぜですか?」


「店舗の広さと内装から考えると、三千八百万円を使い切るほどの費用はかからないと思いました。帳簿を確認したら、過去の借金返済や車両のリース代が見つかりました」


「事業者の言葉ではなく、数字と現物を照らし合わせたのですね」


「数字だけが正しいとは思いません。でも、説明と数字が合わなければ、理由を確かめる必要があります」


「私たちの仕事も同じです」


 立花が勤める東央リカバリーパートナーズは、経営難に陥った中小企業の再生を支援していた。帳簿を調べるだけではなく、経営者、従業員、金融機関、取引先から話を聞き、事業を続ける方法を考える。隠された損失や不正を見つける厳しさと、残す価値のある仕事を守る判断の両方が必要だった。


「現在、財務調査の担当者を募集しています。経理経験があり、簿記一級を持つ方が条件です。佐藤さんは条件を満たしています」


「私に務まるでしょうか。今の会社では、決められた処理を正確に行う仕事が中心です」


「最初から一人で企業を立て直してもらうわけではありません。採用試験を受けるかどうかも、佐藤さんが決めることです」


「少し考えさせてください」


「もちろんです。誰かに頼まれたからではなく、ご自分で選んでください」


 その言葉を聞き、葵は立花の顔を見た。拓海は、自分を助けるのが妻の役目だと決めつけていた。立花は機会だけを示し、選ぶ責任も断る自由も葵へ残した。


 帰宅した葵は、炊飯器へ一合の米を入れた。米が炊けるまでの間、洗濯物を畳み、ベランダの小さなバジルへ水をやった。以前の家から持ってきた鉢は、環境が変わって一度葉を落としたが、新しい芽が二つ伸びていた。


 葵は採用試験を受けることにした。現在の会社へ勤めながら、休日に企業再生や資金繰りについて勉強した。夜遅くまで本を読む日は、夕食を卵かけご飯と具だくさんの味噌汁だけで済ませることもあった。


 一次試験では財務諸表を読み、資金不足の原因をまとめた。二次試験では、経営者から「来月には売上が増える」と言われた場合に、どの資料を確認するかを問われた。葵は、受注書、過去の入金実績、粗利益、製造能力、売上増加に必要な追加支出まで確認すると答えた。


「売上が増えれば、必ず資金繰りはよくなりますか?」


「いいえ。仕入れや人件費の支払いが先で、売上代金の入金があとなら、売上が増えるほど運転資金が必要になります。利益が出ていても、現金が不足する可能性があります」


「経営者が資料を出したがらない場合は?」


「責める前に、出せない理由を確認します。帳簿が整っていないのか、損失を隠しているのか、本人も状況を理解していないのかで、対応が変わります」


 試験から一週間後、採用の連絡が届いた。葵は現在の会社へ退職の意向を伝え、引き継ぎを始めた。上司は驚いたが、新しい仕事へ挑戦したいという葵の説明を聞き、背中を押してくれた。


「佐藤さんなら、どこへ行っても数字をごまかす人を見逃さないでしょうね」


「少し細かすぎると言われることもありました」


「経理では、それが長所になることもあります。今までお疲れさまでした」


 退職の日、同僚たちは小さな花束と焼き菓子を贈ってくれた。葵は一人分の食卓へ花瓶を置き、黄色いガーベラを飾った。焼き菓子は一度に食べず、毎日のコーヒーと一緒に一枚ずつ味わった。


 新しい職場で最初に任されたのは、西田精密工業という町工場の再生支援だった。従業員二十三人で、産業機械に使われる小さな金属部品を作っている。高い加工技術を持っていたが、主要取引先からの受注が減り、このままでは三か月後の給与を払えない状態だった。


 葵が初めて工場を訪れた日は、朝から冷たい雨が降っていた。紺色のパンツスーツに歩きやすい黒い靴を合わせ、髪は後ろで一つにまとめた。工場へ入ると、金属を削る高い音と、機械油の匂いが全身を包んだ。


「うるさくて申し訳ありません。事務所へ行けば、少し静かになります」


 そう言ったのは、六十二歳の社長、西田正一だった。紺色の作業着の袖口には黒い油汚れが染み込み、右手の爪にも金属粉が残っている。事務所の机には古い湯飲みと、輪ゴムで束ねた請求書が置かれていた。


「こちらが佐藤です。財務資料の確認を担当します」


 立花が紹介すると、西田は深く頭を下げた。美咲のように自分の夢や才能を語ることはなく、まず従業員へ給与を払えなくなる可能性を謝った。机の引き出しから通帳と帳簿を出し、隠しているものはないと話した。


「工場を残したい理由を聞かせてください」


「従業員を路頭に迷わせたくありません。それから、うちにしか作れない部品があります。大きな利益にはなりませんが、製造をやめると困る会社があるんです」


「社長ご自身は、何を手放せますか?」


「自宅以外の土地と、趣味で持っている古い車を売ります。役員報酬も、生活できる最低限まで下げます。ただ、従業員の給与はこれ以上減らしたくありません」


「赤字の原因を、どう考えていますか?」


「主要取引先からの注文が減ったのに、以前と同じ設備と倉庫を維持してきました。いつか注文が戻ると思っていたんです。判断が遅れました」


 葵は西田の話を聞きながら、提出された資料を確認した。失敗はあったが、数字を隠したり、誰かに返済を押しつけたりはしていなかった。美咲と同じように事業へ失敗しかけていても、西田は自分が負うべき責任から逃げていなかった。


 調査を始めると、複数の問題が見つかった。使っていない倉庫の賃料、ほとんど動かしていない機械のリース料、何年も見直していない電力契約が資金を圧迫していた。材料価格が上がっているのに、古い単価のまま受注を続けている製品もあった。


「この部品は、作るたびに赤字になっています」


「昔からの取引先なので、値上げを言い出せませんでした」


「このままでは、取引を続けるために工場そのものがなくなります。原価の資料を示し、条件を交渉しましょう」


「断られたら、仕事を失います」


「赤字の仕事を続けても、現金は減ります。どこまでなら受注できるかを、一緒に決める必要があります」


 葵と立花は、製品ごとの原価と利益を計算し直した。従業員からも作業時間や材料の無駄について聞き、使っていない倉庫を解約した。不要な機械はリース会社と協議して返却し、電力契約も実際の使用量に合わせて変更した。


 西田は古い車を売却し、得た金を運転資金へ入れた。金融機関へは隠し事をせず、改善計画と週ごとの資金繰り表を提出した。主要取引先にも原価資料を示し、一部製品の値上げと支払条件の短縮を交渉した。


「銀行に頭を下げるのは、怖くありませんか?」


 葵が尋ねると、西田は作業着の帽子を両手で持ち、油の染みたつばを指でなぞった。事務所の隅では、従業員が持ってきた電気ポットが湯気を上げている。昼休みに食べたカップ味噌汁のワカメが、紙コップの底へ一枚残っていた。


「怖いですよ。でも、黙って支払えなくなるより、今できることを全部話したほうがいい。私が見栄を張ったせいで、従業員の暮らしまで壊すわけにはいきません」


「分かりました。では、来週までに三か月分の資金繰り表を完成させましょう」


「お願いします。数字から逃げないようにします」


 三か月後、西田精密工業は当面の資金不足を回避した。すべての問題が消えたわけではなかったが、従業員の給与を遅らせず、新規受注も二件獲得できた。古い単価の見直しが進み、毎月の固定費も大きく減った。


 報告会の日、西田は従業員の前で、自分の判断が遅れたことを謝った。そのうえで、工場を残すために改善を続けると約束した。従業員の一人が、これからも社長へ都合の悪い数字を報告すると冗談を言い、工場内に小さな笑いが起きた。


「佐藤さん、ありがとうございました」


「私は数字を整理しただけです。実際に変えたのは、西田社長と従業員の皆さんです」


「数字を見せてもらわなければ、何を変えればいいかも分かりませんでした。あのままなら、注文が戻るのを待ちながら倒産していたと思います」


 会社へ戻る電車の中で、立花は葵へ温かい缶コーヒーを渡した。葵は両手で缶を包み、冷えた指先を温めた。窓の外には夕方の工場地帯が流れ、煙突の向こうへ薄い夕日が沈んでいった。


「初めての案件としては、上出来でした」


「まだ、再建が終わったわけではありません」


「そのとおりです。だからこそ、これからも数字を見続ける必要があります」


「失敗した会社を見ると、美咲さんを思い出すのではないかと心配していました」


「西田社長と美咲さんは違います。西田社長は失敗を認め、自分の財産も差し出し、従業員を守ろうとしました。失敗した人と、失敗を他人に押しつける人は同じではありません」


「その違いが分かったなら、この仕事を選んだ意味はあったと思います」


 月末、葵の口座へ給与と初めての成果報酬が振り込まれた。通帳の数字を確認した葵は、まず家賃と生活費を分け、決めていた金額を貯蓄へ移した。それでも、自分のために使える金が残った。


 仕事帰り、葵は駅ビルの靴店へ入った。以前から気になっていた、柔らかい革の茶色い靴を試着する。低いかかとで歩きやすく、パンツにもスカートにも合わせられるものだった。


「少し歩いてみてください。足に当たるところはありませんか?」


「大丈夫です。軽いですね」


「お仕事用ですか?」


「仕事にも、休日にも履きたいです」


 値札を見ると、普段なら一度家へ帰って考える金額だった。拓海と暮らしていたころの葵なら、夫の靴が先に傷んでいないか、今月の食費が増えていないかを確認しただろう。しかしその日は、誰かの許可を取る必要も、誰かの借金に備えて諦める必要もなかった。


「これをください」


 新しい靴の箱を抱えて帰宅すると、部屋には朝に干した洗濯物から、太陽に温められた布の匂いが残っていた。葵は一人分のご飯を炊き、サツマイモとシメジの味噌汁を作った。食卓の横には、自分で働いて買った靴の箱を置いた。


 食後、葵は茶色い靴をもう一度履き、六畳の部屋を数歩歩いた。床へ触れる音は小さく、足の形に柔らかくなじんだ。誰かの借金を返すためではなく、自分がこれから歩くために使ったお金だった。


 翌朝、葵は新しい靴を履いて玄関を出た。鍵をかけたあと、一度だけ足元を見て、駅へ向かう道へ踏み出した。他人の無責任を支えるためではなく、自分の仕事と未来を作るための一日が始まっていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ