第9話 失ったあとで妻の価値を数える男
第9話 失ったあとで妻の価値を数える男
美咲とホテルで決別したあとも、拓海の生活は元には戻らなかった。朝になると目覚まし時計を止めたまま二度寝をし、遅刻する日が増えた。洗濯していないワイシャツには汗の匂いが残り、襟元の黄ばみをネクタイで隠して出勤した。
以前は葵が朝食と一緒に水筒まで用意していたが、今は駅の売店で菓子パンと缶コーヒーを買った。財布の中に小銭がない日は、朝食を抜いた。昼前になると胃が鳴ったが、周囲に聞かれないよう咳払いをした。
営業担当から外された拓海は、社内で見積書の作成や伝票整理を任されていた。しかし勤務中にも、東都事業金融や裁判所から届いた書面が気になった。同じ数字を何度も入力し直し、電話が鳴るたびに自分への督促ではないかと手を止めた。
「佐藤、この見積書を確認したのか?」
直属の上司が、赤い付箋の貼られた書類を拓海の机へ置いた。取引先へ提示する金額が一桁間違っており、そのまま送れば会社へ大きな損失を与えるところだった。拓海は画面と書類を見比べたが、自分がどこで間違えたのか思い出せなかった。
「確認したつもりでした。すぐに直します」
「つもりでは困る。先月から何度目だ?」
「家のことで、少し集中できなくなっています」
「事情があることは聞いている。しかし、会社も取引先も、君の個人的な借金に責任はない」
「分かっています。家の処分が終われば、落ち着くと思います」
「先週も同じことを言った。休職制度の説明もしたが、必要ないと断っただろう」
上司は怒鳴らなかった。それでも周囲の社員がパソコンへ視線を落とし、聞こえないふりをしていることが分かった。拓海は見積書の数字を修正したが、指が震えて同じキーを二度押した。
数日後、拓海は取引先から預かった仕様書を紛失した。実際には自分の机に積まれた書類の間に挟まっていたが、見つかるまでに半日かかった。その間、顧客へ何度も確認の電話をかけ、相手を怒らせてしまった。
「今の状態では、安心して仕事を任せられない」
拓海は営業部長と上司に呼ばれ、会議室の硬い椅子へ座った。テーブルには遅刻、無断離席、顧客との約束忘れ、書類の誤りが日付順に記された紙が置かれている。来客用の緑茶はすでに冷め、表面に小さな茶葉が浮いていた。
「休職して生活を立て直すか、今後の働き方を考えてほしい。今のままでは、周囲の社員にも負担がかかる」
「休めば給与が減ります。俺には借金があるんです」
「会社が肩代わりすることはできない。だからこそ、早く専門家へ相談するよう伝えたはずだ」
「俺は美咲に騙されたんです。俺だって被害者なんですよ」
「その事情と、勤務中に起こしたミスは分けて考えなければならない」
拓海は膝の上で両手を握った。以前は営業成績を認められ、後輩へ顧客対応を教えたこともある。今は拓海の書類を別の社員が確認しなければならず、仕事をするほど周囲の負担を増やしていた。
「営業へ戻ることはできますか?」
「勤務が安定し、失った信用を回復できれば検討する。ただし、いつ戻せるとは約束できない」
「だったら、ここにいても仕方ないじゃないですか」
「退職を急いで決める必要はない。今日は持ち帰って考えなさい」
拓海はその夜、自宅の食卓で退職届を書いた。流しには朝に使ったマグカップと、二日前に食べたカレーの皿が残っていた。冷蔵庫の中にはマヨネーズ、しなびたネギ、賞味期限の切れた豆腐しかなかった。
翌朝、拓海は退職届を提出した。部長はもう一度考え直すよう勧めたが、拓海は別の会社でやり直すと言い張った。自宅を売れば借金問題も落ち着き、営業経験があればすぐに再就職できると考えていた。
退職日までの二週間、拓海は担当していた書類を整理した。最後の日に受け取ったのは、総務から渡された退職関係の書類と、同僚たちが用意した小さな紙袋だけだった。紙袋には個包装の煎餅が八枚入っていた。
「今まで、お世話になりました」
「まずは借金を整理しろよ。生活が落ち着けば、また営業の仕事を探せる」
「分かっています」
「悪いけど、金の相談には乗れない。俺にも家族がいるから」
「頼むつもりなんてないよ」
拓海は笑って答えたが、同僚の目を見られなかった。送別会は開かれず、花束もなかった。会社を出ると秋の冷たい風が吹き、紙袋の中で煎餅が乾いた音を立てた。
そのころ、自宅については任意売却の話が進んでいた。競売になれば売却価格がさらに下がる可能性があると説明され、拓海は債権者との調整を行う不動産会社へ手続きを依頼した。内覧の日には、美咲が残した服や請求書を段ボール箱へ押し込んだ。
「家具は、かなり残っていますね」
不動産会社の担当者は、部屋の写真を撮りながら言った。食卓、冷蔵庫、洗濯機、ソファは、どれも葵と結婚してから買ったものだった。布製のソファには飲み物をこぼした染みが残り、以前のような清潔な匂いはしなかった。
「この冷蔵庫は、新しい部屋へ持っていけますか?」
「かなり大きいので、一人暮らし用の部屋には入らないかもしれません。搬出費用もかかります」
「家族が増えても使えるように、大きなものを買ったんです」
「今後借りる部屋が決まってから判断しましょう。処分する場合も費用が必要です」
拓海は冷蔵庫の銀色の扉へ触れた。購入したとき、葵は二人暮らしならもう少し小さくてもよいと言っていた。しかし拓海は、将来子どもが生まれたら必要になると大きな型を選んだ。
扉には、葵が支払日一覧を貼っていた跡が薄い四角形になって残っていた。電気、ガス、水道、管理費、住宅ローンの期限を、葵は毎月確認していた。拓海はそれを家計簿が好きな妻の趣味だと思い、一度も自分で調べなかった。
自宅には買い手がついた。しかし売却代金を住宅ローンなどへ充てても、すべての債務を返し切ることはできなかった。さらに、美咲の会社のために負った三千八百万円の保証債務が残っていた。
「家を売れば、借金はなくなるんじゃないんですか?」
「売却代金を返済へ充てても、足りない分が自動的に消えるわけではありません。保証債務についても、今後の返済方法を協議する必要があります」
「もう会社も辞めました。まとまった金なんてありません」
「でしたら、すぐに弁護士へ相談してください。現在の債務額と今後の収入によっては、法的な債務整理を検討する必要があります」
拓海は残高の少なくなった通帳を握った。退職金は期待したほど多くなく、次の仕事も決まっていない。美咲へ送った百二十万円も、美咲が拓海のクレジットカードで使った金も戻ってこなかった。
自宅を退去する期限が決まると、拓海は実家へ電話をかけた。母親は最初に食事をしているかと尋ねたが、拓海が住ませてほしいと言うと黙った。電話の向こうで、父親がテレビの音量を下げる音が聞こえた。
「家を売ることになった。次の仕事が決まるまで、実家に置いてくれないか?」
「何か月くらいの予定なの?」
「分からない。借金の整理が終わるまでだと思う」
「保証債務は、いくら残っているの?」
「三千八百万円のうち、ほとんど残ってる」
「その状態で戻ってこられたら、お父さんも私も落ち着いて暮らせないわ」
「取り立てが実家まで来ることはないよ。俺の借金なんだから」
「前にも、美咲さんを捜している人から電話があったでしょう。もう巻き込まれたくないの」
「息子が住む場所を失うんだぞ」
「専門家へ相談しなさい。住まいについても相談先を紹介してもらえるかもしれないでしょう」
「少しくらい金を貸してくれてもいいだろ。仕事が決まったら返すから」
「私たちには老後の生活費しかありません。それまで美咲さんへ差し出されたら、私たちは暮らしていけないわ」
「美咲とはもう別れた。二度と会わないよ」
「あなたは葵さんにも、似たような約束をしたのでしょう。まず、自分で契約した責任と向き合いなさい」
母親は、電話を切る前に一つだけ尋ねた。葵へきちんと謝ったのかという質問だった。拓海は謝るつもりだと答えたが、自分が何について謝るべきなのか、まだ言葉にできなかった。
学生時代からの友人にも連絡した。使っていない部屋があれば住ませてほしい、難しければ新しい賃貸契約の保証人になってほしいと頼んだ。しかし、誰も引き受けなかった。
「お前、前に俺たちが保証人だけはやめろと言ったのを覚えてるか?」
「美咲は幼馴染だったんだ。知らない相手じゃない」
「知っている相手でも契約は契約だろ。葵さんにも反対されたんじゃないのか?」
「今さら責めても仕方ないだろ。困ってるから電話したんだ」
「食事くらいなら付き合う。でも、金を貸したり保証人になったりはできない。俺にも妻と子どもがいる」
友人は、駅前の定食屋で昼食をおごってくれた。拓海の前にはサバの味噌煮、豆腐の味噌汁、冷ややっこが並んだ。生姜の効いた濃い味がしたが、拓海は半分も食べられなかった。
自宅を退去した拓海は、保証会社を利用しない古いアパートを探した。駅から二十分歩く木造二階建てで、部屋は六畳一間だった。風呂はなく、台所には一口のガスコンロと、小さな流しがあるだけだった。
大家へ事情を説明し、数か月分の家賃を先に払うことで入居できた。退職金と残っていた預金の大半が消えたが、ほかに借りられる部屋はなかった。拓海は衣類、布団、折り畳み机だけを持ち込み、大型家具はすべて処分した。
入居した夜、窓の隙間から冷たい風が入った。隣の部屋でテレビを見る音が壁越しに聞こえ、共同廊下からは誰かが焼いたサンマの匂いが漂ってきた。拓海はコンビニで買ったのり弁当を床へ置き、冷たくなった白身魚のフライを割り箸で切った。
食べ終えても、空の容器を片づける者はいなかった。ワイシャツを脱いでも、洗濯籠すら用意していない。拓海は空の弁当箱を畳の上へ置いたまま、薄い布団へ横になった。
翌週、拓海はようやく債務整理を扱う弁護士事務所を訪れた。担当した弁護士は、拓海の収入、預貯金、保証債務、自宅の売却代金、美咲への送金について一つずつ確認した。机の隅では小さな加湿器が動き、白い蒸気が一定の間隔で上がっていた。
「俺は、美咲に騙されたんです。返済できる事業だと言われて、保証人になりました」
「保証契約書へ署名したのは、佐藤さんご本人ですか?」
「そうです。でも、美咲は絶対に迷惑をかけないと言いました」
「融資会社から、契約内容の説明は受けましたか?」
「書類は渡されました。細かいところまでは読みませんでした」
「署名に至る経緯に法的な問題がなかったかは確認します。しかし、『迷惑をかけないと言われた』『善意で助けた』という理由だけで、保証契約上の責任をなくすことはできません」
「美咲が自己破産したら、俺も払わなくてよくなりますか?」
「主債務者が免責を受けても、連帯保証人の債務まで当然に消えるわけではありません。支払いが難しいなら、佐藤さんご自身も債務整理を検討する必要があります」
「俺まで自己破産するんですか?」
「任意整理、個人再生、自己破産のうち、どの手続きが適切かは、今後の収入や債務の総額を確認して判断します。まずは再就職の見込みと、毎月返済へ回せる金額を整理しましょう」
「俺は、美咲を助けたかっただけなんです」
「そのお気持ちと、契約上の責任は別の問題です。善意で署名したから返さなくてよいということにはなりません」
弁護士は声を荒らげず、拓海を責めるような顔もしなかった。そのため、拓海は言い訳を続けられなかった。葵が何度も説明したことを、今度は見知らぬ弁護士から聞いているだけだった。
アパートへ戻った拓海は、段ボール箱の中から青いファイルを取り出した。葵が以前の家へ残していったもので、公共料金や住宅ローンの支払日がまとめられている。自宅はすでに売却されたため、その多くはもう必要のない情報だった。
ファイルの最後には、家計簿の写しが数枚挟まっていた。紙の端には薄いコーヒーの染みがあり、葵の丸みのある字で項目が並んでいる。拓海は折り畳み机の前へ座り、一ページずつ開いた。
住宅修繕費、月二万円。医療予備費、月一万五千円。老後資金、月三万円。家電買い替え積立、月一万円。旅行積立、月五千円。
「こんな先のことまで考えていたのか」
十年後に給湯器を交換する費用、病気で働けなくなった場合の生活費、二人が年を取ったあとの貯蓄目標まで書かれていた。拓海は、それを葵が細かすぎる証拠だと思っていた。毎月数字を確認する姿を見ても、妻が何を守ろうとしているのか考えたことがなかった。
旅行積立の欄には、「結婚十周年、北海道」と小さく書かれていた。葵は毎月五千円ずつ貯め、二人で流氷を見に行くつもりだったらしい。美咲に送った百二十万円は、その旅行積立を何年も続けなければ届かない金額だった。
折り畳み机には、食べ終えたコンビニ弁当の容器と、返済を求める通知書が置かれていた。窓の外では雨が降り始め、古いトタン屋根を強くたたいている。拓海は家計簿の写しを両手で持ち、しばらく動かなかった。
葵が守っていたのは、毎月の残高だけではなかった。拓海が病気になったときの暮らしも、仕事を失ったときの生活費も、十年後の旅行も、二十年後の老後も、その数字の中に入っていた。拓海はそれらを当然だと思い、美咲に頼られる一時の心地よさと引き換えにした。
翌日、拓海は白い便箋と封筒を買った。何から書けばよいか分からず、最初の一枚は「美咲に騙された」という言葉ばかりになった。読み返すと、自分の責任ではないと言い訳しているだけに見えたため、丸めてごみ箱へ捨てた。
二枚目には、家を失ったこと、会社を辞めたこと、借金を整理することを書いた。しかし最後には、葵が戻れば生活をやり直せると記していた。拓海はペンを止め、葵へ謝る手紙の中でも、妻に自分を立て直してもらおうとしていることに気づいた。
三枚目で、ようやく拓海は自分が行ったことを書いた。葵に相談せず連帯保証人になったこと、自宅を担保に入れたこと、家計から百二十万円を送金したこと、葵の給与まで返済に使おうとしたことを並べた。書き終えた便箋には、消しゴムのかすと、何度も書き直した跡が残った。
「もう美咲とは会いません。自分で契約した借金は、自分で整理します。許してもらえるとは思っていません。それでも、一度だけ謝る機会をください」
葵の新しい住所は知らなかったため、拓海は手紙を大野法律事務所へ送った。返事を待つ間、郵便受けを一日に何度も確認した。広告しか入っていない日も、封筒の下に何か隠れていないか指を入れて探した。
三日後、大野法律事務所から白い封筒が届いた。拓海は部屋へ戻るまで待てず、共同廊下で封を開けた。中には、拓海が送った手紙と、大野弁護士からの短い書面が入っていた。
葵は手紙を受け取ることを希望していなかった。復縁の話し合いにも、謝罪を聞くための面会にも応じないという。最後には、葵の意思として一文だけ添えられていた。
「今後の連絡は、弁護士を通してください」
拓海はその一文を何度も読んだ。許さないとも、いつか考えるとも書かれていない。葵はもう、拓海の言い訳を聞き、食事を作り、家計を整え、正しい方向へ連れ戻す役目を引き受けなかった。
夜になっても、拓海は部屋の照明をつけなかった。街灯の白い光が窓から入り、畳の擦り切れた部分を細長く照らしている。隣の部屋から炊飯器の炊き上がりを知らせる音が聞こえ、少し遅れて炊きたての米の匂いが漂ってきた。
拓海は、自分の部屋に炊飯器がないことへ初めて気づいた。明日の朝食も、洗濯も、再就職先探しも、債務整理の書類作成も、すべて自分で行わなければならない。葵がいなくなってから何か月も過ぎて、拓海はようやく、妻の価値を失った家や金の額だけでは数えられないことを知った。
しかし、どれほど数え直しても葵は戻らなかった。拓海の手元に残ったのは、十年後と二十年後を守ろうとしていた家計簿の写しと、今後の連絡を拒む一文だけだった。




