第10話 闇の世界で、お幸せに
第10話 闇の世界で、お幸せに
離婚から一年が過ぎた四月、西田精密工業は新年度を迎えた。工場の入口には「新入社員歓迎」と書かれた紙が貼られ、事務所の窓辺には従業員が持ってきた黄色いチューリップが飾られている。朝の作業が始まると、金属を削る機械音と油の匂いが、以前と変わらず工場内に広がった。
変わったのは、会社の数字だった。使っていなかった倉庫を解約し、不要な機械のリース契約を整理したことで、毎月の固定費は大きく減った。原価を下回っていた製品も取引先との交渉によって価格が見直され、三か月連続で営業黒字を確保していた。
「佐藤さん、今月の資金繰り表を確認してもらえますか?」
西田社長は紺色の作業着を着て、薄い緑色のファイルを持ってきた。袖口には相変わらず油汚れがあり、胸ポケットからは短くなった鉛筆がのぞいている。以前は輪ゴムで束ねていた請求書も、今は支払日ごとに整理されていた。
「来月の材料費が増えていますね。新しい受注分ですか?」
「はい。入金より先に仕入れが必要になるので、手元資金が不足しないか心配しています」
「心配するところは合っています。売上が増えても、現金が先に出ていけば資金繰りは苦しくなります。週ごとの表も確認しましょう」
「一年前の私なら、注文が増えたと喜ぶだけでした」
「今は、喜んだあとに数字を確認できています。それなら大丈夫です」
西田は照れたように頭をかき、事務所の棚から缶入りのクッキーを出した。従業員の家族が旅行土産に持ってきたもので、中には丸いバタークッキーが三枚だけ残っていた。葵は一枚をもらい、紙コップのほうじ茶と一緒に口へ運んだ。
会社が黒字化するまで、簡単なことばかりではなかった。長年取引してきた会社へ値上げを申し入れたときには、一度契約を打ち切ると言われた。新しい顧客を探すため、社長と若い従業員が展示会へ何度も足を運び、帰りの電車で立ったまま眠ったこともあった。
それでも西田は、都合の悪い数字を隠さなかった。従業員も、材料の無駄や機械の故障を黙って見過ごさず、毎週の会議で報告した。その結果、従業員を一人も解雇せず、二人の新入社員を迎えることができた。
「今日は、新入社員へ資金繰りについて教えていただけるんですよね?」
「はい。ただ、最初から難しい用語を並べても分かりにくいので、工場のお金の流れから説明します」
「佐藤さんに教われば、私よりしっかりした経営者になるでしょう」
「新入社員を、いきなり社長にしないでください」
葵が笑うと、西田も声を立てて笑った。工場の奥から昼休みを知らせるチャイムが鳴り、従業員たちが手袋を外しながら休憩室へ向かった。誰かが電子レンジでカレーを温めたらしく、機械油の匂いにスパイスの香りが混じった。
葵自身も、四月から主任へ昇進した。財務調査の担当者として案件へ参加するだけでなく、新しく入社した二人へ資金繰り表の作り方を教える立場になった。以前の会社で経理事務をしていたころには、自分が人へ判断の仕方を教えるとは考えていなかった。
午後、葵は会社の会議室で研修を行った。白いブラウスに紺色のパンツスーツを着て、ホワイトボードへ「利益と現金は同じではない」と書いた。後輩の一人が、売上が増えれば会社に金も増えるのではないかと尋ねた。
「商品を売っても、代金が三か月後に入る契約なら、その間の仕入れ代や給与は先に払わなければなりません。黒字でも、支払う現金がなければ会社は続けられません」
「では、売上を増やすだけでは駄目なのですね」
「はい。いつ入って、いつ出ていくのかを確認します。それから、経営者が『来月は大丈夫』と言ったときほど、根拠になる資料を見てください」
「経営者を疑うということですか?」
「疑うためではありません。事実を一緒に確認するためです。良い経営者でも、見たくない数字から目をそらすことはあります」
立花は会議室の後ろで研修を聞いていた。葵が説明を終えると、以前より人に伝えるのがうまくなったと声をかけた。葵は使用した資料をそろえながら、何度も失敗したからだと答えた。
「最初の研修では、情報を詰め込みすぎました。後輩から、どこが大切なのか分からないと言われました」
「そこから直せるなら、十分です。間違いを隠さず、次に使える形へ変えることも再生の仕事ですから」
「立花さんが言うと、失敗しても仕事の一部に聞こえます」
「実際、仕事の一部です。ただし、同じ失敗を三回したら反省会をします」
「では、二回までにしておきます」
その日の帰り、葵と立花は駅前の洋食店へ入った。葵は白身魚のムニエルを、立花は煮込みハンバーグを注文した。店内には焼いたバターとデミグラスソースの匂いが広がり、窓際の小さな花瓶にはピンク色のスイートピーが一輪挿してあった。
「昇進のお祝いです。今日は私が払います」
「ありがとうございます。でも、次は私に払わせてください」
「次もあるのですね」
「仕事帰りの夕食くらいなら、またご一緒したいです」
「それなら、次は佐藤さんのお勧めを聞きます」
立花とは仕事の相談だけでなく、休日に読んだ本や、近所で見つけた店についても話すようになっていた。しかし葵は、すぐに恋人や再婚相手を探そうとは思っていなかった。誰かと食事をする時間も、一人で過ごす休日も、自分で選べる今の暮らしを大切にしたかった。
立花も、葵へ答えを急がせなかった。食事が終われば駅で別れ、休日の予定を細かく尋ねることもない。葵は、その距離を心地よいと思っていた。
自宅の一DKには、この一年で家具が少しずつ増えた。窓際には明るい木目の机を置き、壁際には三段の本棚を置いた。最初の成果報酬で買った茶色い靴は、玄関の棚で形を崩さないように手入れしていた。
休日の朝、葵は生成り色のシャツと柔らかいデニムを着て、机で資格試験の勉強をした。窓を開けると、近所のパン屋からクロワッサンを焼く匂いが届いた。昼食にはパン屋で買ったチーズパンと、前日に作ったミネストローネを温めた。
ミネストローネには、冷蔵庫に半分残っていたニンジンとキャベツを入れた。一人分の食材の使い方にも慣れ、野菜を傷ませることはほとんどなくなった。食べ終えた皿を洗うと、流しには何も残らなかった。
通帳と印鑑は、今も鍵つきの書類ケースへ保管していた。家計簿には家賃、生活費、資格取得費、家具積立を分けて記入している。旅行積立も新しく始めたが、行き先は北海道と決めず、自分が行きたい場所をこれから選ぶつもりだった。
土曜日の午後、葵は資格試験の参考書を買うため駅前へ出た。淡い黄色のブラウスに白いカーディガンを羽織り、紺色のロングスカートを合わせた。足元には、初めての成果報酬で買った茶色い靴を履いていた。
本屋を出ると、駅前の広場では春の催しが開かれていた。屋台から焼きたてのクレープとコーヒーの匂いが漂い、風船を持った子どもが噴水の周囲を走っている。葵は参考書の入った紙袋を持ち、人の流れに沿って駅へ向かった。
横断歩道の手前で、作業着姿の男性とすれ違った。色あせた灰色の上着には白い粉がつき、黒い安全靴の爪先は擦れていた。髪は以前より短く、頬も少しこけていたが、拓海だとすぐに分かった。
「葵」
拓海の声が聞こえても、葵は歩き続けた。しかし拓海がもう一度名前を呼び、話を聞いてほしいと頼んだため、人通りを妨げない場所で足を止めた。葵は拓海から数歩離れたまま、参考書の入った紙袋を両手で持った。
「直接の連絡はしない約束でしたね」
「偶然会っただけだ。待ち伏せしていたわけじゃない」
「それなら、そのまますれ違ってください」
「一分でいい。どうしても伝えたいことがあるんだ」
拓海は作業着の胸元を握った。債務整理の手続きを進め、現在は倉庫や工場で短期の仕事をしながら生活費を得ているという。以前住んでいたアパートには今も暮らし、毎月決められた金額を返済へ回していた。
「美咲には、もう会っていない。連絡先も全部消した」
「そうですか」
「美咲も、出資者たちから返還を求められているらしい。今どこにいるかは知らない」
「私には関係ありません」
「俺は美咲に騙されていたんだ。あいつは俺以外の男にも同じことを言っていた。俺も被害者だった」
拓海は、葵なら分かってくれると思ったように顔を上げた。以前も、自分が困れば妻が最後には助けると考えていた。その期待がまだ完全には消えていないことを、葵は拓海の目から読み取った。
「美咲さんがあなたを利用したことと、あなたが私を裏切ったことは、別の話です」
「でも、俺は最初から葵を傷つけるつもりじゃなかった」
「傷つけるつもりがなければ、相談せずに連帯保証人になってもよいのですか?」
「困っている美咲を助けたかっただけなんだ」
「そのために、私たちの家を担保に入れました。家計から百二十万円を送り、足りなければ私の貯金と給与を使おうとしました」
「今は間違っていたと分かってる。借金も自分で整理してる。だから、もう一度だけやり直せないか?」
「やり直すとは、何をすることですか?」
「また一緒に暮らして、少しずつ前の生活に戻るんだ。俺も家事をするし、二度と勝手な契約はしない」
「私は、前の生活へ戻りたいと思っていません」
拓海は、葵がいなくなってから何もかもうまくいかなくなったと話した。食事も洗濯もできず、会社を辞め、自宅を失い、友人も離れていった。葵の家計簿を見て、妻がどれほど自分を守っていたか分かったと訴えた。
「葵がいれば、俺はこんなことにならなかった」
「いいえ。私がいたときに、あなたは連帯保証人になりました」
「これからは違う。葵の言うことを聞く」
「私は、あなたを管理するために結婚していたのではありません。保証人にならないよう見張り、請求書を確認し、生活を片づけるために戻るつもりもありません」
「俺は、本当に反省しているんだ」
「反省したのなら、私が戻らなくても、自分で生活を立て直してください」
信号が青に変わり、人々が一斉に歩き始めた。自転車のベルが鳴り、近くの屋台では鉄板へ生地を流す音がした。葵は横断歩道へ向かうため、新しい靴の爪先を進行方向へ向けた。
「葵、待ってくれ。俺を一人にしないでくれ」
「美咲さんを見捨てれば、人でなしになると、あなたは言いましたね」
「あのときは、何も分かっていなかったんだ」
「困っている美咲さんを、どうしても見捨てられなかったのでしょう。あなた自身が選んだ闇の世界です。どうぞ、その選択と末永くお幸せに」
葵は拓海へ背を向けた。拓海がもう一度名前を呼んだが、その声は走り出したバスの音と、人々の話し声に重なった。葵は横断歩道を渡り、一度も振り返らなかった。
駅の反対側へ着くと、街路樹の若い葉が春の日差しを受けて揺れていた。花壇には白と黄色のパンジーが並び、土へ水をまいたばかりの匂いがした。葵は持っていた紙袋を抱え直し、家へ続く道を歩いた。
鞄の中には、東央リカバリーパートナーズの社員証が入っていた。その隣には、自分の名前だけで契約した部屋の鍵と、自分で管理する通帳が入っている。どれも誰かに与えられたものではなく、葵が考え、選び、働いて手に入れたものだった。
帰宅すると、葵は茶色い靴についた埃を柔らかい布で拭いた。参考書を机へ置き、湯を沸かして新しいコーヒーを淹れた。窓から入る風でカーテンが揺れ、ベランダのバジルから青い匂いが届いた。
スマートフォンには、立花から一通のメッセージが届いていた。来週、西田精密工業の新入社員歓迎会へ一緒に参加しないかという誘いだった。葵は予定表を確認し、「参加します」と返信した。
そのあと、家具のカタログを開いた。次に買うものは、一人でゆっくり座れる小さな椅子にするか、資格の本を並べる新しい棚にするか、まだ決めていなかった。どちらを選んでも、誰かに許可を求める必要はなかった。
葵は温かいコーヒーを飲み、窓の外を見た。もう誰かに後回しにされることも、他人の無責任を背負わされることもない。葵は自分で選んだ部屋で、自分のために働き、自分のために明日の予定を決めていた。
拓海が選んだ闇は、もう葵の人生とはつながっていなかった。葵の新しい靴は玄関で次の朝を待ち、机の上には新しい仕事と資格へ続く参考書が開かれていた。葵は誰かの泥舟へ戻ることなく、自分の足で未来へ進んでいった。




