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第7話 あなたは三人目の保証人

第7話 あなたは三人目の保証人


 美咲が姿を消した翌日、拓海は会社へ休暇を申請した。前夜から何度電話をかけても、美咲のスマートフォンは電源が切られたままだった。居間の床には彼女が置いていった請求書と契約書が広がり、流しには乾いたカレーのこびりついた皿が三枚重なっていた。


 拓海は灰色のTシャツと黒いジャージを着たまま、食卓へ書類を並べた。朝食を作る気になれず、戸棚に残っていたビスケットを二枚かじった。口の中の水分を奪われたため、ぬるい水道水で無理に流し込んだ。


 書類は、日付も金額もばらばらだった。店舗の仕入れ代金、広告会社への支払い、リース車両の料金、元従業員へ支払われていない給与まで混じっている。督促状の封筒には、開封されたものと封も切られていないものがあり、美咲自身も全体を把握していなかったことが分かった。


 その中から、拓海は二人の男性の名前が繰り返し出てくることに気づいた。一人は黒沢浩二、四十二歳。もう一人は藤田亮介、三十六歳で、どちらも美咲の事業に関する契約へ署名していた。


 黒沢は五百万円を事業へ出資し、毎月一定額の分配金を受け取る契約になっていた。しかし分配金は最初の二回しか支払われず、その後は連絡が途絶えている。藤田は別の金融会社から美咲が借りた一千二百万円について、保証人の欄へ名前を記していた。


「俺だけじゃなかったのか……」


 拓海は藤田の保証契約書を持ち上げた。契約の日付は、拓海が三千八百万円の連帯保証人になる二か月前だった。美咲はすでに別の男性へ保証人を頼んだあとで、拓海にも同じような話を持ちかけていた。


 書類には黒沢と藤田の電話番号が記載されていた。拓海は二人へ連絡することを迷ったが、美咲の居場所を知る手掛かりはほかになかった。最初に黒沢へ電話をかけると、三度目の呼び出し音で低い男の声が応答した。


「佐藤拓海と申します。川村美咲のことで、お話を聞きたいのですが」


「あなたも川村さんに金を出した人ですか?」


「俺は、事業融資の連帯保証人です」


「いくらです?」


「三千八百万円です」


 電話の向こうで、黒沢が息を吐く音が聞こえた。驚いたというより、また一人見つかったと受け止めたようだった。拓海は、黒沢が昨日自宅まで来た灰色のポロシャツの男だったことを声で思い出した。


「昨日、家に来た方ですよね」


「川村さんが、あなたの家に住んでいると聞いていました。迷惑をかけたなら謝ります。ただ、こちらも五百万円を返してもらえていません」


「美咲とは、どういう関係だったんですか?」


「最初は、店の客と経営者です。妻への贈り物を買いに行ったとき、名刺を渡されました。その後、事業の相談を受けるようになったんです」


「五百万円も出すほど親しかったんですか?」


「『私の仕事を理解してくれるのは黒沢さんだけです』と言われました。今考えれば、ありふれた言葉だったのでしょう」


 黒沢は、妻へ隠して美咲と会っていたことを認めた。美咲から、事業が成功すれば正式な共同経営者になってほしいと頼まれ、家庭の中では得られなかった頼られる感覚に酔っていたという。投資契約書があるから安全だと思い込み、決算書を確認せず五百万円を渡していた。


「川村さんから、あなたとの関係について何か聞いていましたか?」


「幼馴染に経営を手伝ってもらっているとは聞きました。ただし、保証人だとは知りませんでした。彼女は、その幼馴染には奥さんがいて、自分のことを妹のようにしか見ていないと言っていましたよ」


「妹なんかじゃありません。美咲は、俺にしか頼めないと言ったんです」


「私にも同じようなことを言いました。言葉が少し違うだけです」


 黒沢との通話を終えた拓海は、しばらくスマートフォンを握っていた。エアコンはつけていないのに、指の間には汗がにじんでいる。窓の外からは、ごみ収集車が空き瓶を回収する大きな音が聞こえた。


 次に藤田へ電話をかけた。藤田は最初、拓海を美咲の仲間だと疑い、話すことを拒んだ。しかし拓海が三千八百万円の保証契約について説明すると、午後に駅前のファミリーレストランで会うことになった。


 拓海はシャワーを浴び、洗濯していない中で最も汚れの少ない白いポロシャツを選んだ。袖口には薄い染みが残っていたため、上から紺色のジャケットを羽織った。鏡を見ると髭が伸びていたが、替え刃を切らしており、古いかみそりで何度も皮膚をこすった。


 ファミリーレストランへ着くと、藤田は窓際の席に座っていた。痩せた体に薄いベージュのシャツを着て、冷めかけたコーヒーのカップを両手で包んでいる。テーブルには、角の折れた封筒とスマートフォンが置かれていた。


「佐藤さんですか?」


「はい。藤田さんですね」


「先に聞きます。あなたは、美咲と一緒に俺から金を取った人ではないんですね?」


「違います。俺も美咲の保証人になっています」


「いくらです?」


「三千八百万円です」


 藤田は目を閉じ、椅子の背へ寄りかかった。店内では子どもがスプーンを落とし、床へ当たった金属音が響いた。隣の席からは、焼きたてのハンバーグと焦げたソースの匂いが漂ってきたが、二人とも料理を注文しなかった。


「俺は一千二百万円です。金融会社から美咲が借りた金の保証人になりました」


「どうして、保証人になったんですか?」


「結婚を考えていると言われたからです」


「美咲が、あなたと結婚すると言ったんですか?」


「はっきり結婚とは言いませんでした。ただ、店が成功したら一緒に暮らしたいと言われました。俺も、それを将来の約束だと思いました」


 藤田はスマートフォンの画面を拓海へ見せた。そこには美咲とのメッセージが残っていた。「亮介さんだけが私の夢を信じてくれる」「成功したら、仕事から帰る亮介さんを毎日迎えたい」「あなたしか頼れる人がいない」と書かれている。


 拓海のもとにも、よく似たメッセージが送られていた。「拓海くんは昔から私を守ってくれた」「葵さんには分かってもらえないと思う」「私を助けられるのは拓海くんだけ」という言葉だった。相手の名前と理由だけを変えれば、同じ文章として使えるものばかりだった。


「俺には、幼馴染だから信じていると言いました」


「俺には、昔からの知り合いには頼れないと言っていましたよ。失敗した自分しか知らないから、夢を笑われるって」


「美咲が、そんなことを……」


「あなたは特別な幼馴染だったのかもしれない。でも、特別な保証人ではなかったようですね」


 藤田の言葉に、拓海は水の入ったグラスへ手を伸ばした。氷はすでに半分ほど溶け、グラスの外側についた水滴が紙ナプキンを濡らしている。一口飲んでも、喉に張りついたものは流れなかった。


「美咲の居場所に心当たりはありませんか?」


「昨日、連絡がありました。新しい出資者を紹介してほしいと言われました」


「連絡が取れたんですか?」


「こちらからの返済請求には答えないのに、金を出せそうな人を紹介しろという話だけはしてきました。今日の夕方、駅前のホテルで誰かと会うと言っていました」


「どこのホテルです?」


「名前は言いませんでした。ただ、以前にも使っていたホテルのラウンジだと思います」


 藤田はホテルの名前を教えた。拓海はすぐに立ち上がろうとしたが、藤田から警察沙汰になるようなことはするなと止められた。藤田自身は、契約書とメッセージを持って弁護士へ相談し、正式に返還を求めるつもりだった。


「佐藤さんも、直接取り返そうとしないほうがいい。保証契約のことは専門家に相談してください」


「俺は、美咲に聞きたいことがあるだけです」


「俺も何度も、そう思いました。でも、美咲に説明を求めても、次の金が入れば返せると言うだけでした」


 拓海はファミリーレストランを出ると、藤田に教えられたホテルへ向かった。空には黒い雲が広がり、風が生ぬるくなっている。駅前の植え込みには、雨を避けるために鳩が何羽も集まっていた。


 ホテルのラウンジは、一階の奥にあった。磨かれた床から冷房の冷気が上がり、コーヒーと焼き菓子の甘い匂いが漂っている。拓海は入口近くの観葉植物の陰から店内を見回した。


 窓際の席に、美咲がいた。薄紫色のワンピースを着て、拓海の家から持ち出した高級ブランドのバッグを椅子の横へ置いている。向かいには五十代ほどの男性が座り、美咲が差し出した資料を読んでいた。


「今の時代、女性向けの上質な日常着には大きな可能性があります。あと少し資金があれば、全国展開も夢ではありません」


「ずいぶん大きな計画ですね。既存店舗の売上はどうなっていますか?」


「新規事業へ移るため、現在の店舗は縮小しています。でも、私のデザインを待ってくださるお客様は大勢います」


「出資額は、いくらを希望しているのですか?」


「まずは二千万円です。社長のように経験のある方に協力していただけたら、私、何でも頑張れます」


 美咲は身を乗り出し、男性の目を見ながら微笑んだ。その笑顔は、拓海へ保証人を頼んだ夜と同じだった。弱さを見せながらも、相手が自分を救える人間だと思わせる笑い方だった。


「美咲」


 拓海が名前を呼ぶと、美咲の肩が動いた。向かいにいた男性は顔を上げ、拓海と美咲を交互に見た。拓海は周囲の客が振り返ったことに気づき、声を抑えながらテーブルへ近づいた。


「拓海くん、どうしてここにいるの?」


「それは俺が聞きたい。連絡を切って、家から通帳と俺のカードを持って逃げたよな」


「人聞きの悪いことを言わないで。カードは間違えて荷物に入っただけよ」


「だったら、どうして返しに来なかった?」


「今、それどころじゃないの。大切な商談中だから、帰って」


 向かいにいた男性は、美咲へ事情の説明を求めた。拓海は自分が美咲の事業融資三千八百万円の連帯保証人であり、返済が滞っていることを伝えた。さらに、ほかにも保証人や出資者がいることを話した。


「川村さん、今の話は本当ですか?」


「事業をしていれば、一時的に資金が不足することはあります。この人は、私に個人的な感情を持っていて、話を大きくしているんです」


「保証債務三千八百万円は、話を大きくした金額ではありません」


「今日は失礼します。出資についても、白紙にしてください」


 男性は資料を閉じ、美咲へ返した。伝票を手にして立ち上がると、拓海には小さく頭を下げ、ラウンジから出ていった。美咲は男性の背中を見送り、両手を強く握った。


「何てことをしてくれたのよ。あの人が出資してくれたら、全部立て直せたのに」


「また同じことをするつもりだったのか? 俺から三千八百万円、藤田さんから一千二百万円、黒沢さんから五百万円。それでも足りないのか?」


「事業にはお金が必要なの。途中でやめたら、それまで使ったお金が全部無駄になるでしょう」


「俺は、美咲にとって何だったんだ?」


「何って、幼馴染でしょう」


「俺にしか頼めないと言ったよな。昔から信じているのは俺だけだって」


「そのときは、そう思っていたのよ」


「藤田さんには、成功したら一緒に暮らしたいと言った。黒沢さんには、仕事を理解できるのはあなただけだと言った。俺にも同じことを言った。俺は三人目だったのか?」


 美咲は泣かなかった。以前なら目元を赤くし、拓海の腕へ触れ、責められてつらいと訴えていたはずだった。しかし金を出す可能性のない拓海には、もう涙を見せる必要もないようだった。


「三人目かどうかなんて、何の意味があるの?」


「俺は三千八百万円の借金を背負ったんだぞ。家も競売になる。会社でも営業から外された。全部、美咲を助けたからだ」


「私はお願いしただけ。拓海くんが、いい格好をしたくて勝手に保証人になったんでしょう」


「勝手にって、美咲が何度も頼んだんじゃないか!」


「私は契約書へ拓海くんの名前を書いていない。印鑑も押していないでしょう。説明を聞いて、最後に署名したのは拓海くんよ」


 拓海は言い返そうとして、口を閉じた。契約の日、美咲は隣に座り、担当者から渡された書類を早く書くよう急かした。しかし署名欄へ自分の名前を書き、印鑑を押したのは拓海自身だった。


 葵の声が頭に浮かんだ。事業計画書を確認したのか、三千八百万円を返せる根拠は何か、連帯保証人には全額を請求される可能性があると、葵は何度も尋ねていた。拓海はそのすべてを、妻が美咲の夢を理解しないためだと決めつけて聞かなかった。


「葵は止めた。契約書も事業計画書も確認しろと言った」


「だったら、葵さんの言うことを聞けばよかったじゃない」


「美咲が困っていたからだろ」


「頼られて気分がよかっただけでしょう? 葵さんにはできないことをして、優しい男だと思われたかった。私が泣いてお願いしたら、拓海くんはすぐに何とかするって言ったもの」


「俺は、本当に助けようとしたんだ」


「助けられるだけのお金もないのに?」


 美咲は黒いバッグを肩へ掛けた。拓海のクレジットカードを取り出し、テーブルの上へ置く。返すのはそれだけで、美咲が使った金を返すという言葉はなかった。


「私の通帳はどこにあるんだ?」


「私の通帳を持ってきただけよ。拓海くんのものには触っていない」


「これから、どこへ行くつもりだ?」


「拓海くんには関係ないでしょう。私も、自分の生活を立て直さなきゃいけないの」


「俺の家と借金はどうなるんだよ」


「自分で契約したんだから、自分で何とかして」


 美咲は席を立ち、拓海の横を通り過ぎた。甘い香油の匂いが一瞬だけ強くなり、そのあと冷房の風に流された。拓海は追いかけず、テーブルに残されたクレジットカードを見つめた。


 カードの表面には、ホテルの照明が白く映っていた。それを拾って財布へ戻しても、使われた金額までは戻らない。三千八百万円の保証債務も、自宅の担保も、会社で失った信用も、そのまま残っていた。


 外へ出ると、雨が降り始めていた。拓海は傘を持っておらず、白いポロシャツと紺色のジャケットがすぐにぬれた。駅前の立ち食いそば店から温かい出汁の匂いが漂ってきたが、財布を開くと小銭しか入っていなかった。


 自宅へ戻ると、玄関には裁判所から届いた封書があった。担保不動産について、手続きが進められていることを知らせる書類だった。拓海はぬれた靴を脱ぎ、封筒を持ったまま居間へ入った。


 部屋には美咲の安い服と請求書だけが残されていた。洗濯籠からは汗と湿気の匂いが上がり、流しには朝のビスケットを食べた皿さえ洗わずに置いてある。以前なら葵が夕食を作っていた時刻だったが、冷蔵庫には調味料としなびたネギしかなかった。


 拓海はインスタントラーメンを作ろうと、鍋へ水を入れた。しかしガス料金の支払いも遅れており、コンロの火はつかなかった。仕方なく乾いた麺を袋へ戻し、常温の水をコップへ注いだ。


 食卓には、三種類の書類が並んでいた。美咲が残した出資契約書、東都事業金融からの請求書、そして自宅の手続きに関する通知だった。どの紙にも、葵の名前は一つも書かれていなかった。


 拓海はようやく、自分が美咲に騙されたという言葉だけでは片づけられないことを認めた。葵の忠告よりも、美咲から頼られる心地よさを選んだのは自分だった。困っている女性を救う英雄のつもりで署名し、今は三人目の保証人として、支払えない金額の前に座っていた。


 美咲との関係は、ホテルのラウンジで終わった。しかし契約は、二人の関係が終わっても消えなかった。拓海には三千八百万円の保証債務と、手続きを進められる自宅と、火のつかない台所だけが残された。



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