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第6話 玄関の外から聞こえる現実

第6話 玄関の外から聞こえる現実


 九月に入っても、昼間の暑さは弱まらなかった。拓海が目を覚ますと、寝室のカーテンは閉じたままで、エアコンからは湿った風しか出ていない。隣では美咲が薄いピンク色の部屋着を着て眠り、枕元には飲みかけのミネラルウォーターと、蓋の開いた美容クリームが置かれていた。


 目覚まし時計は午前七時十五分を示していた。拓海はベッドから起き、床に落ちていたワイシャツを拾った。襟へ鼻を近づけると汗と香水の匂いが混じっていたが、洗濯してあるものがほかになかったため、そのまま着るしかなかった。


「美咲、今日は返済日だろ。銀行へ行くんじゃなかったのか?」


「まだ朝でしょう。十時にならないと、担当者もいないよ」


「口座に、返済する金は入ってるのか?」


「昨日、出資者から振り込まれる予定だったの。確認するから、もう少し寝かせて」


「予定じゃ困るんだよ。東都事業金融から、今日までに払えって通知が来てるんだぞ」


 美咲は布団を頭まで引き上げ、拓海へ背中を向けた。拓海はそれ以上話しかけられず、台所へ向かった。流しには昨夜食べた焼きそばの皿が残り、固まったソースから油の匂いが漂っている。


 冷蔵庫には卵が一個と、賞味期限の切れた納豆が二パック入っていた。拓海は卵を焼こうとしたが、フライパンには前日の油が残っている。洗う時間がなかったため、納豆だけを白いご飯にかけ、立ったまま口へ運んだ。


 午前九時二十分、拓海が会社の朝礼へ出ていると、胸ポケットのスマートフォンが震えた。画面には東都事業金融の担当者名が表示されている。拓海は周囲を見回し、上司に会釈をして会議室の外へ出た。


「佐藤です。今、仕事中なので手短にお願いします」


「本日が、お約束いただいた入金期日です。現時点で入金を確認できておりません。何時ごろのお手続きになりますか?」


「借りた本人が振り込む予定です。川村美咲へ連絡してください」


「主債務者への連絡は行っております。佐藤様は連帯保証人ですので、佐藤様にも履行を求めています」


「だから、美咲のところへ出資金が入れば払えるんです。今日中には何とかします」


「前回も同じご説明を受けました。本日中にご入金が確認できない場合は、契約に基づき、担保不動産を含む今後の手続きについて進めることになります」


「家の件は、もう少し待ってください。いきなり売られたら、俺はどこに住めばいいんですか?」


「すでに書面でお知らせしております。返済について具体的なご提案がある場合は、本日中にご連絡ください」


 通話が終わると、拓海の手のひらには汗がにじんでいた。自動販売機で水を買おうとして財布を開いたが、千円札が一枚も入っていない。小銭を数え、百二十円の麦茶を買うと、冷たい缶を首筋へ当てた。


「佐藤、朝礼の途中だぞ。長い電話なら、あとにしてくれ」


「すみません。知人の会社から急な連絡があって」


「最近、そればかりじゃないか。今日の十時、山下工業との打ち合わせがあるのを忘れるなよ」


「分かっています。資料も準備しています」


 拓海は自分の机へ戻り、顧客へ持参する見積書を確認した。しかし数字を追っても、三千八百万円という金額が頭から離れない。見積書の三百八十万円という数字まで、保証債務の一部に見えた。


 午前十時になっても、美咲から連絡はなかった。拓海はトイレへ入り、個室から電話をかけた。呼び出し音が長く続いたあと、美咲が不機嫌そうな声で応答した。


「何度もかけないでよ。今、銀行へ確認してるところだから」


「振り込まれてないのか?」


「出資者の都合で遅れてるみたい。午後になるって」


「本当に今日中に入るんだろうな?」


「私が嘘をついてるって言いたいの?」


「東都事業金融から電話が来たんだ。今日中に払わないと、家の手続きを進めるって言われた」


「拓海くんが、もう少し待ってくれって頼んでよ」


「何度も頼んでる。もう待てないって言われたんだよ」


「だったら、今は仕事をして。私も忙しいの」


 美咲は拓海の返事を待たず、電話を切った。拓海は個室の便座へ座ったまま、暗くなった画面を見つめた。廊下から誰かが手を洗う音と、ハンドドライヤーの大きな風音が聞こえてきた。


 席へ戻ると、上司の席に山下工業から電話が入っていた。拓海はそこで、十時の打ち合わせを忘れていたことに気づいた。時計はすでに十時四十分を過ぎ、用意した見積書は机の上に置かれたままだった。


「佐藤、山下工業の担当者が四十分待っているそうだ。どういうことだ?」


「すみません。急ぎの電話が続いて、時間を勘違いしました」


「先週も、訪問時刻を間違えただろ。家庭の問題なら休暇を取って処理しろ。顧客を巻き込むな」


「すぐに向かいます」


「私から謝罪する。今日は行かなくていい。会議室で事情を聞かせてもらう」


 拓海は会議室へ呼ばれ、営業部長と直属の上司の前へ座った。冷房が強く、汗で湿ったワイシャツが背中へ張りついた。テーブルの隅には来客用の飴が置かれていたが、誰も手を伸ばさなかった。


「会社に、東都事業金融というところから佐藤宛ての連絡があった。詳しい内容は話さなかったが、至急折り返してほしいと言われている。何が起きているんだ?」


「知り合いの事業を助けただけです。幼馴染が店を経営していて、少し資金繰りが苦しくなっています」


「その会社と、君に何の関係がある?」


「連帯保証人になりました」


「金額は?」


「三千八百万円です」


 上司は持っていたペンを机へ置いた。営業部長は椅子へ深く座り直し、契約へ会社が関与していないことを確認した。拓海が個人で署名したと答えると、部長は額へ手を当てた。


「会社は、君の個人的な債務を肩代わりできない。債権者への対応も、勤務時間外か休暇を取って行ってもらう」


「分かっています。ただ、相手から何度も電話が来るので」


「その電話のせいで、顧客との約束を忘れたのか?」


「今日は、たまたまです。すぐに解決します」


「先週から遅刻が二回、訪問時刻の間違いが二回、見積書の計算ミスが一回ある。解決するまで、君を一人で顧客のところへ行かせることはできない」


「営業から外すということですか?」


「当面、外回りから外れて内勤へ移ってもらう。担当顧客はほかの社員へ引き継げ」


 拓海は言い返そうとしたが、山下工業を四十分待たせた事実は消せなかった。会社を出るよう命じられたわけではないものの、営業成績に応じて支給されていた手当は減る。返済に使える給与が少なくなると考えた途端、喉が渇いた。


 昼休みになると、母親から電話がかかってきた。拓海は社員食堂の隅で、冷めたアジの開き定食を前にしたまま応答した。焼き魚の皮は固くなり、味噌汁の表面には薄い膜が張っていた。


「拓海、川村美咲さんを捜しているという男の人から、家に電話があったの。あなたの名前まで出して、どこにいるのか聞かれたわ」


「美咲の仕事関係の人だよ。母さんは何も話さなくていい」


「仕事関係の人が、どうしてうちの番号を知っているの? それに、あなたが大きな借金の保証人になったという話は本当なの?」


「誰から聞いたんだよ」


「昨日、あなたから転送された郵便物の中に、保証債務に関する通知が交じっていたのよ。住所変更前の連絡先が実家のままになっていたのでしょう」


 拓海は額を押さえた。保証契約の申込書へ勤務先と実家の連絡先を書いたことを思い出したが、そのときは美咲に急かされ、内容をほとんど確認しなかった。母親の声の後ろから、父親が誰からの電話だと尋ねる声が聞こえた。


「三千八百万円って書いてあるわ。あなた、そんなお金を借りたの?」


「俺が借りたんじゃない。美咲の店の保証人になっただけだ」


「連帯保証人なら、あなたも払わなければならないのでしょう? お父さんも私も、老後のお金しか持っていないわよ」


「金を出してくれなんて言ってないだろ」


「先に言っておきます。私たちは払えません。家にも来ないでちょうだい」


「息子が困ってるのに、見捨てるのかよ」


「私たちに相談せず保証人になったのは、あなたでしょう。まず専門家へ相談しなさい」


 母親はそれだけ言い、電話を切った。拓海は箸を持ったまま、アジの白い身を崩した。小骨が何本も残っていたが、取り除く気力がなく、定食を半分以上残して席を立った。


 午後三時、東都事業金融から再び連絡が入った。美咲の会社からも拓海からも入金が確認できず、返済計画の提示もないため、担保不動産について契約に基づく手続きを進めるという。拓海は電話口で待ってほしいと繰り返したが、担当者からは書面で回答すると告げられた。


 仕事を終えた拓海は、まっすぐ自宅へ帰った。玄関の外には、見知らぬ男が二人立っていた。一人は灰色のポロシャツに黒いパンツをはき、もう一人は紺色のシャツの袖を肘までまくっている。


「佐藤拓海さんですか?」


「そうですけど、どちらさまですか?」


「川村美咲さんに連絡が取れないので、こちらへ伺いました。中にいらっしゃいますよね?」


「何の用ですか?」


「以前、川村さんの事業へ資金を出した者です。約束の分配金も元金も、まだ受け取っていません」


 男の声は大きくなかったが、玄関扉一枚を挟んだ距離に立たれると、拓海は鍵へ手を伸ばせなかった。二人が暴力を振るったわけではない。しかし、近所の扉が少し開き、誰かがこちらを見ている気配がした。


「ここで話されると困ります。美咲へ連絡させますから、帰ってください」


「昨日から、何十回かけても出ないんですよ。店にもいませんでした」


「連絡先を置いていってください。俺から伝えます」


「では、今日中に連絡するよう伝えてください。こちらも正式な手続きを考えます」


 男は名刺を一枚渡し、もう一人と一緒にエレベーターへ乗った。拓海は二人の姿が見えなくなってから、ようやく玄関を開けた。鍵を閉め、チェーンまで掛けると、背中を扉へ押しつけた。


 居間では、美咲が白いワンピースを着て、鏡の前で口紅を塗っていた。テーブルには新しい靴の箱が置かれ、ソファには値札のついた服が三枚広げられている。甘い香水の匂いが部屋いっぱいに漂っていた。


「今、外に男が二人来てたぞ。美咲へ金を出したって言ってた」


「誰だった?」


「名前は名刺に書いてある。元金も分配金も返してもらってないそうだ」


「ああ、その人たちね。話が違うのは向こうなの。私が説明しても理解してくれなくて」


「何人から金を集めたんだ?」


「何人って、数えるほどじゃないよ。出資してくれる人を探してたって、前にも言ったでしょう」


「俺に話してない契約があるのか?」


「事業の細かいことを、どうして拓海くんに全部説明しなきゃいけないの?」


「俺は三千八百万円の連帯保証人なんだぞ! 家まで失うかもしれないんだ!」


 拓海は名刺をテーブルへたたきつけた。美咲は驚くこともなく、口紅の蓋を閉めて化粧ポーチへ入れた。赤い色のついた唇をティッシュで軽く押さえ、鏡を見ながら形を整えた。


「今日が返済日だった。入金されるはずの出資金はどうなったんだ?」


「相手の都合で延期になったの」


「誰から振り込まれる予定だった?」


「名前を言っても、拓海くんは知らない人よ」


「契約書を見せろ。これまで誰からいくら集めて、何に使ったのか全部説明してくれ」


「今は私を責めている場合じゃないでしょう!」


 美咲は化粧ポーチをテーブルへ投げた。中から銀色の口紅と小さな香水瓶が転がり、床へ落ちた。瓶は割れなかったが、蓋が外れ、甘く濃い匂いが広がった。


「次の出資者を見つけなければ、店も家も全部なくなるのよ。私が必死に動いているのに、拓海くんまで邪魔をするの?」


「なくなるのは俺の家だ! 美咲はもともと家賃を滞納して、ここへ来ただけだろ!」


「私を住ませてくれるって言ったのは拓海くんでしょう?」


「数日だけだと思ってた。食費も光熱費も払わず、俺のカードで買い物までして、いつまでここにいるつもりなんだ?」


「葵さんがいなくなった途端、私に八つ当たりしないでよ。家事をしてくれる人が欲しいなら、離婚しなければよかったでしょう!」


 その言葉を聞き、拓海は何も返せなくなった。美咲を家へ入れれば、葵より自分を理解し、二人で事業と生活を立て直せると思っていた。だが美咲は、自分を妻として扱うなと言いながら、拓海の給与と住居だけを使っていた。


「契約書を見せてくれ。それまでは、カードも現金も渡さない」


「私を信用できないなら、勝手にすれば」


 美咲は床へ落ちた香水瓶を拾い、寝室へ入った。扉が強く閉まり、壁に掛けた時計が揺れた。拓海はテーブルに残された靴の箱を開き、三万八千円と書かれたレシートを見つけた。


 その夜、拓海はソファで眠った。玄関の外から人の足音が聞こえるたび、目を開けてドアスコープを確かめた。午前一時には酔った住人が通り、午前三時には新聞配達員のバイクの音が響いた。


 午前六時半、拓海は玄関扉の閉まる音で目を覚ました。ソファから起き上がると、寝室の扉が開いている。美咲の名前を呼んだが、返事はなかった。


 箪笥を開けると、高価なワンピース、ブランドのバッグ、化粧品がなくなっていた。一方で、安いTシャツや毛玉のついた部屋着は床へ捨てられている。洗面所からも香水や美容液が消え、排水口に絡まった長い髪だけが残っていた。


「美咲?」


 拓海は浴室、台所、ベランダを確認した。美咲の通帳と印鑑も、テーブルに置いてあった拓海名義のクレジットカードもなくなっている。電話をかけると電源が切られており、メッセージにも既読がつかなかった。


 寝室のクローゼットには、使い古したキャリーケースが一個だけ残されていた。拓海が開けると、中には美咲名義の請求書、督促状、契約書が乱雑に詰め込まれていた。紙からは古い香水と湿気の混じった匂いがした。


 契約書には、拓海の知らない男性の名前がいくつも記載されていた。三百万円、五百万円、八百万円と、出資額はそれぞれ異なっている。一定期間後に元金を返し、高い分配金を支払うという約束まで書かれていた。


「こんなに借りてたのか……」


 書類の間から、別の保証契約書の写しも出てきた。拓海とは違う男性が、別の借り入れについて保証人として署名している。美咲が「私を助けられるのは拓海くんだけ」と言った言葉が、頭の中で何度も繰り返された。


 玄関のチャイムが鳴った。拓海は書類を持ったまま動きを止めた。続いて扉が三回たたかれ、外から男の声が聞こえた。


「川村さん、いらっしゃいますか。昨日の件で来ました」


 拓海は返事をしなかった。流しには洗っていない皿が積み上がり、美咲が残した服と請求書が床へ散らばっている。冷蔵庫の作動音だけが、息を潜めた部屋に響いていた。


「佐藤さん、川村さんが中にいるなら、連絡するよう伝えてください」


 足音はしばらく玄関の外に残り、やがてエレベーターのほうへ遠ざかった。拓海はドアスコープをのぞき、誰もいないことを確認してから、その場へ座り込んだ。手にした契約書の角が震え、紙同士のこすれる音がした。


 美咲は拓海だけを頼っていたのではなかった。拓海の家を立て直すつもりも、借金を一緒に返すつもりもなかった。追及される前に、高価な服と通帳を持ち、自分だけが逃げたのだ。


 食卓には、葵が残した青いファイルが置かれていた。電気料金、住宅ローン、管理費の期限が、読みやすい文字で書かれている。その隣には、美咲が残した何枚もの請求書と、東都事業金融から届いた担保不動産に関する通知が重なっていた。


 玄関の外から聞こえていたのは、単なる足音ではなかった。拓海が見ないふりを続けてきた契約と返済と期限が、生活のすぐ外側まで近づいた音だった。美咲が姿を消しても、拓海が署名した三千八百万円の責任だけは、玄関の内側に残されていた。



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