第5話 妻がいなくなれば、愛が深まると思っていた
第5話 妻がいなくなれば、愛が深まると思っていた
葵が家を出た翌朝、拓海は目覚まし時計の音で目を覚ました。いつもなら午前六時半にカーテンが開き、台所から味噌汁の匂いと包丁の音が届いていたが、その日は寝室が暗いままだった。枕元の時計は七時四十分を示しており、始業時刻まで一時間しかなかった。
「葵、どうして起こしてくれなかったんだよ」
声に出してから、葵がもういないことを思い出した。隣の枕はきれいに片づけられ、葵が使っていた薄い毛布もなくなっている。拓海は紺色のパジャマを脱ぎ捨て、前日に着たワイシャツへ腕を通した。
シャツの襟には薄い黄ばみがあり、胸元にはコンビニ弁当のソースが点のように残っていた。洗濯籠を探したが、新しいシャツは一枚も入っていない。洗面所の隅には洗っていない衣類が山になり、汗と湿った布の匂いがこもっていた。
「洗濯くらい、昨日のうちにしておいてくれればよかったのに」
拓海は誰もいない部屋へ文句を言い、台所へ向かった。冷凍庫には葵が残したハンバーグが二個あったが、朝から温める時間はない。食パンも牛乳も切れていたため、冷蔵庫に残っていたペットボトルの麦茶を直接飲み、空腹のまま家を出た。
駅へ向かう途中、拓海はコンビニでツナマヨネーズのおにぎりと缶コーヒーを買った。レジの時計を見て焦り、熱いコーヒーを急いで飲んだため舌の先をやけどした。会社へ着いたのは始業の二分前で、上司から身だしなみについて注意を受けた。
「佐藤、シャツに染みがついているぞ。顧客のところへ行くなら着替えてこい」
「すみません。今朝、ちょっと時間がなくて」
「最近、家庭のことで落ち着かないようだが、仕事には持ち込むなよ」
拓海は予備のワイシャツを持っていなかったため、外回りを午後へ変更した。葵なら、会社のロッカーへ一枚入れておくよう何度も言っていた。そんな細かな注意を思い出し、拓海は唇を曲げた。
昼休みになると、美咲から電話がかかってきた。拓海は社員食堂でカレーうどんを食べていたが、周囲に聞かれないよう廊下へ出た。電話の向こうからは車の走る音と、美咲が鼻をすする声が聞こえた。
「拓海くん、私、どうしよう。今日中に部屋を出なきゃいけないの」
「部屋って、自宅のマンションか?」
「家賃を少し待ってもらっていたんだけど、契約を続けられないって言われたの。今朝、荷物も外へ出すように言われて……」
「家賃まで滞納してたのか?」
「店を守るために、使えるお金を全部仕入れへ回したの。私は自分の生活なんて後回しにしてきたのよ」
拓海は紙ナプキンで口元を拭いた。黄色いカレーの染みが白い紙に広がり、指先には出汁の匂いが残っている。自宅の状況を考えれば、人を住まわせる余裕はなかったが、美咲に頼られると断る言葉が出てこなかった。
「何日かなら、うちに来てもいいよ。空いている部屋もあるし」
「本当に? でも、葵さんが嫌がるでしょう?」
「葵はもういない。離婚したんだ」
「そうだったのね。拓海くん、私のせいでごめんなさい」
「美咲のせいじゃないよ。葵が勝手に出ていっただけだ」
「だったら、これからは二人で立て直せるね。葵さんに遠慮せず、何でも相談できるもの」
電話を切ったあと、拓海は胸の奥が少し軽くなった。葵は数字や契約ばかり見て、自分の優しさを理解しようとしなかった。それに対して美咲は、昔から拓海を頼り、必要としてくれる。
その日の夜、美咲は大きなスーツケース二個と、紙袋を六つ持って現れた。黒いサマーニットに白いロングスカートを合わせ、高いかかとのサンダルを履いている。髪からは花のような香油の匂いが漂い、肩には以前と同じ高級ブランドのバッグが掛けられていた。
「急にごめんね。荷物は、これで全部なの」
「これで全部って、かなりあるな。服ばっかりか?」
「仕事道具でもあるの。デザイナーは、毎日同じ服を着るわけにはいかないでしょう?」
「まあ、そうだよな。葵が使っていた部屋に置けばいいよ」
美咲は寝室へ入ると、葵が使っていた箪笥の扉を開けた。中が空になっていることを確かめ、持ってきたワンピースやブラウスを次々と掛けていく。化粧台には香水、化粧水、クリームを並べ、洗面所にも拓海が見たことのない瓶を何本も置いた。
「夕食、まだなんだ。美咲は何か食べた?」
「私も何も食べてない。今日は引っ越しで疲れちゃった」
「冷凍庫にハンバーグがあるぞ。葵が作ったやつだけど」
「元妻が作ったものなんて、ちょっと食べにくいな。せっかくだから、二人でお寿司を取りましょうよ」
「でも、今月は出費が多くてさ」
「今日くらいいいでしょう。明日から一緒に頑張ればいいのよ」
美咲は拓海のスマートフォンを借り、特上の寿司を二人前注文した。届いた寿司にはウニ、イクラ、中トロが並び、折箱から酢飯と醤油の匂いが広がった。拓海は冷蔵庫の奥からビールを二本出し、美咲と向かい合って座った。
「こうしてると、中学のころを思い出すね」
「美咲は昔から変わらないな。よく俺の弁当のおかずを取ってた」
「だって、拓海くんのお母さんの卵焼き、おいしかったんだもの。拓海くんは、昔から私に優しかったよね」
「葵には、その優しさが分からなかったんだ」
「私は分かってるよ。拓海くんが保証人になってくれたこと、一生忘れないから」
拓海はビールを飲み、美咲の言葉にうなずいた。葵がいなくなったことで、ようやく自分を理解してくれる女性と落ち着いて話せるようになったと思った。食べ終えた寿司の折箱は、美咲が疲れたと言ったため、拓海が台所へ運んだ。
翌朝、美咲は十時を過ぎても起きてこなかった。拓海は自分でインスタントコーヒーを淹れ、コンビニで買った菓子パンを食べた。流しには昨夜の醤油皿とビールの缶が残り、部屋には寿司の生臭い匂いが漂っていた。
「美咲、俺は仕事に行くから。鍵は玄関に置いておくぞ」
「うん……。お昼には店へ行くから、もう少し寝かせて」
「夕食は、何か作ってくれるか?」
「冷蔵庫に何もないでしょう。帰りに買ってきてくれたら作るよ」
拓海はその言葉を信じ、会社帰りに鶏肉、タマネギ、ジャガイモ、カレールーを買った。しかし帰宅すると、美咲はソファへ横になり、通販サイトで靴を見ていた。台所には朝の皿が残り、買い置きしてあった最後のカップ麺の容器まで増えている。
「夕食、作ってくれるんじゃなかったのか?」
「今日は店のことで、いろいろ連絡してたの。頭を使ったから、もう動けない」
「でも、買い物はしてきたぞ」
「拓海くん、カレーくらい作れないの? 箱の裏に書いてあるでしょう」
「仕事から帰ってきたばかりなんだけど」
「私だって仕事してるよ。家にいたからって、暇だったわけじゃないんだから」
拓海はネクタイを外し、ワイシャツの袖をまくってタマネギを切った。包丁を使うのは久しぶりで、厚さはそろわず、ジャガイモの皮も実ごと大きく削れた。鍋へ油を入れすぎたため、鶏肉を加えると熱い油が手の甲へ跳ねた。
「熱っ。美咲、ちょっと来てくれないか?」
「今、出資してくれそうな人と連絡してるの。頑張って」
できあがったカレーは水が多く、ジャガイモの中まで火が通っていなかった。美咲は二口食べると、今日は食欲がないと言って皿を残した。拓海は自分で作ったカレーを捨てるのが惜しく、硬いジャガイモを避けながら二杯食べた。
美咲が住み始めて一週間が過ぎると、部屋の様子は大きく変わった。ソファの背には美咲の服が何枚も掛けられ、ローテーブルには化粧品、飲みかけのペットボトル、丸めたレシートが積み重なった。洗面所の排水口には長い髪が絡まり、濡れたバスタオルが床へ置かれたままになっている。
拓海は毎朝、自分のワイシャツを選ぶのに苦労した。洗濯機の使い方は分かっても、白いシャツと色柄物を一緒に洗い、美咲の赤い下着から色が移ってしまった。アイロンをかける時間もなく、細かなしわの残ったシャツで出勤する日が続いた。
「美咲、せめて自分の服は自分で洗ってくれよ」
「デリケートな素材が多いから、家の洗濯機では洗えないの。クリーニングに出して」
「クリーニング代だって、何着も出したら高いだろ」
「仕事に必要な服なのよ。身だしなみにお金を使えない人が、アパレルの世界で成功できると思う?」
「じゃあ、その費用は店の金から出してくれ」
「今は店のお金を動かせないの。少しだけ立て替えてよ」
少しだけという言葉は、毎日続いた。化粧水が切れた、商談用の靴が必要だ、取引先と食事をする、携帯電話の料金を払わなければ連絡が取れなくなる。美咲はそのたびに、拓海のクレジットカードを使った。
拓海は生活用品だけに使うよう言ったが、美咲は三万円を超える美容液や、二足で五万円の靴まで購入した。利用通知が届いて問いただすと、成功するための投資だと答える。葵が数百円安い洗剤を選んでいたことを思い出し、拓海は初めて買い物の金額を細かく見るようになった。
「今月、カードだけで十二万円も使ってるぞ」
「必要なものしか買ってないよ。私だって、好きで拓海くんに頼ってるんじゃないの」
「家賃も食費も払ってないだろ。少しは抑えてくれよ」
「店が成功したら、まとめて返すって言ってるでしょう。拓海くんまで葵さんみたいに数字ばかり言うの?」
「そういう意味じゃないけど、俺の給料にも限りがあるんだ」
「分かってるよ。だから次の出資者を探してるの。今は私を責めないで」
美咲は目元を赤くし、両手で顔を覆った。拓海は言いすぎたと思い、買ったものを返せとは言えなくなった。泣きやんだ美咲が拓海の腕へ頭を寄せると、頼られている満足感が戻り、金額への疑問はまた先送りになった。
月末になると、玄関脇の棚へ郵便物がたまり始めた。葵は届いた日に封を開け、支払日や提出期限を家計簿へ書いていたが、拓海は自分宛てのもの以外をほとんど見なかった。美咲も、公共料金は口座から自動で引き落とされるのだから放っておけばよいと言った。
ある夜、拓海が帰宅して照明をつけようとすると、電気がつかなかった。エアコンも止まり、冷蔵庫の中からはぬるい空気と、傷み始めた鶏肉の匂いが流れ出した。美咲はスマートフォンの明かりを顔へ当て、困ったように首をかしげた。
「停電かな。隣の家も暗い?」
「廊下の照明はついてる。うちだけだ」
「電気料金、払ってなかったんじゃない?」
「口座から自動で引き落とされるはずだろ」
「残高が足りなかったんじゃないの?」
拓海は銀行のアプリを開いた。給与が振り込まれたあと、クレジットカード、食費、美咲へ渡した現金が引かれ、口座の残高は数千円になっていた。電気料金の引き落としはできず、再請求の通知も郵便物の下に埋もれていた。
「美咲がカードを使いすぎたからだろ」
「全部、仕事に必要だったって説明したよね。電気料金くらい、拓海くんが確認しておけばよかったでしょう?」
「今までは葵がやってたんだよ」
「私は葵さんじゃないもの。妻みたいに家のことを押しつけないで」
美咲の言葉を聞き、拓海は暗い台所で立ち尽くした。妻のように扱うなと言いながら、美咲は家に住み、食費も光熱費も拓海に払わせている。拓海が懐中電灯を探している間、美咲は暑くて眠れないからホテルへ行きたいと言い出した。
翌日、拓海は会社を遅刻して電気料金を支払い、送電を再開してもらった。冷蔵庫に残っていた鶏肉と牛乳は傷んでおり、まとめてごみ袋へ入れた。袋の口を縛ると酸っぱい匂いが漏れ、拓海は顔を背けた。
さらに数日後、住宅ローンの引き落としができなかったという通知も見つかった。東都事業金融への保証債務だけでなく、もともとの住宅ローンまで滞り始めている。拓海は美咲へ、今すぐ店の収支を確認させてほしいと迫った。
「何度も説明したでしょう。次の商談が決まれば返せるって」
「その商談は、いつ決まるんだ?」
「相手にも都合があるの。急かしたら逃げられちゃう」
「じゃあ、今の売上はいくらなんだ。店に行って帳簿を見せてくれ」
「私を信用できないの?」
「信用だけで何とかなる段階じゃないだろ!」
週末、拓海は美咲を連れて店へ向かった。駅前と聞いていたが、実際には駅から十五分ほど歩いた雑居ビルの二階にあり、一階は閉店した居酒屋だった。階段には空のビールケースが積まれ、湿った壁から古い油の匂いが漂っている。
店内へ入ると、棚には春物のブラウスと厚手のカーディガンが一緒に並んでいた。床の隅には開封されていない段ボール箱が重なり、試着室には値札のついていない服が押し込まれている。午後二時を過ぎても客は一人もいなかった。
「これが、売れている店なのか?」
「今日は暑いから、人が少ないだけよ。夕方になれば来るわ」
「売上帳を見せてくれ」
「店の数字は、全部パソコンに入ってる」
「じゃあ、パソコンを開けてくれ」
美咲はカウンターの下からノートパソコンを取り出した。しかし電源を入れても、会計ソフトには三週間前までの記録しかない。売上よりも家賃、仕入れ代、広告費の支出が大きく、毎月赤字が増えていた。
机の引き出しには、仕入れ先から届いた請求書が束になっていた。赤い文字で「再請求」と押されたものや、「取引停止予定」と書かれた通知も交じっている。拓海は一枚ずつ確認し、融資金の残高がほとんどないことを知った。
「三千八百万円は、どこへ消えたんだ?」
「店舗の保証金や内装費に使ったって、前にも言ったでしょう」
「計算が合わない。ここに、二年前の借入金を返済した記録がある。高級車のリース代も、毎月十八万円払ってるじゃないか」
「車は取引先へ行くために必要なの。前の借金だって、整理しないと新しい事業を始められなかったのよ」
「新しい店のために借りた金を、昔の借金へ使ったのか?」
「使い道を一つずつ責めても、お金は戻らないでしょう。これから増やせばいいのよ」
「どうやって増やすんだよ。店は赤字で、仕入れ代も払えてないじゃないか」
美咲は椅子へ座り、長い髪をかき上げた。甘い香油の匂いが、埃と段ボールの匂いに混じる。美咲の爪には新しい薄桃色の装飾が施され、小さな石が何個も貼られていた。
「次の出資者が見つかれば、全部解決するわ」
「また誰かから金を借りるつもりか?」
「借りるんじゃなくて、出資してもらうの。事業の可能性を理解してくれる人はいるから」
「その金で、東都事業金融へ返済するのか?」
「まずは仕入れを増やして売上を作る。返済は、そのあとよ」
「また同じことになるだろ!」
「拓海くんまで私を責めるの? 私を助けるって言ったじゃない!」
美咲の声が、客のいない店内へ響いた。通路の外で誰かの足音が止まり、すぐに階段を下りていった。拓海は周囲の目を気にして声を小さくしたが、美咲は涙を浮かべ、拓海が信じてくれないなら自分は終わりだと訴えた。
「分かったよ。大声を出すな。とにかく、出資者の話を詳しく聞かせてくれ」
「今、何人かに声をかけてる。昔のお客様にも、事業に興味がないか聞いているところよ」
「本当に見込みはあるんだろうな?」
「あるに決まってるでしょう。私の服を待っている人は、たくさんいるんだから」
拓海は店を出たあと、駅前のベンチへ座った。昼食を取っていなかったため、近くの自動販売機で甘い缶コーヒーを買ったが、二口飲んだところで胃がむかついた。バッグからスマートフォンを取り出し、葵の名前を表示する。
離婚後、葵へ直接連絡しないことは合意書に記されていた。それでも一度くらいなら許されると思い、拓海は通話ボタンを押した。呼び出し音は鳴らず、すぐに留守番電話へ切り替わった。
「葵、俺だ。少し相談したいことがある。美咲の店の帳簿を見たんだけど、数字がよく分からなくて……。前は経理のことなら何でも見てくれただろ。今回だけでいいから、連絡してくれ」
数時間待っても、葵から返事はなかった。代わりに翌朝、大野法律事務所からメールが届いた。今後の連絡は合意どおり事務所を通し、葵へ直接連絡しないよう求める短い内容だった。
「そこまでしなくてもいいだろ……」
拓海はスマートフォンを食卓へ置いた。目の前には、未開封の請求書、食べかけの菓子パン、美咲が使った化粧用のコットンが散らばっている。流しには三日前から洗っていない皿が積まれ、排水口から生ぬるい匂いが上がっていた。
寝室では、美咲が新しい出資者候補と電話をしていた。明るい声で、自分の事業には将来性があること、あと少し資金があれば大きく成長できることを語っている。その言葉は、拓海に保証人を頼んだときと同じだった。
拓海は青いファイルを開いた。葵が残した支払日の一覧には、電気、ガス、水道、管理費、住宅ローンの期限が、読みやすい文字で書かれている。以前は細かすぎると思っていた数字が、今は生活を続けるための手順に見えた。
冷凍庫に残っていた最後のハンバーグは、電気が止まった日に解凍され、食べられなくなっていた。拓海はラップの包みを持ち上げ、匂いを確かめてから、ごみ袋へ落とした。葵が作ったものは、それで一つも残らなくなった。
妻がいなくなれば、美咲との関係を邪魔する者はいなくなり、二人で力を合わせて事業を立て直せると思っていた。しかし、美咲が増やしたのは売上ではなく、洗濯物と請求書と、拓海が支払わなければならない金額だけだった。
拓海は初めて、葵が毎月行っていた家計管理も、食事の支度も、洗濯も、請求書の確認も、勝手に終わる仕事ではなかったと知った。だが、そのことへ気づいたときには、葵はもう戻ってこなかった。玄関の棚には、葵が置いていった青いファイルと、東都事業金融から届いた新しい督促状だけが並んでいた。




