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第4話 泥舟から降りる日

第4話 泥舟から降りる日


 離婚届を置いた朝から三日が過ぎても、拓海は署名しなかった。食卓の端には、葵が置いた離婚届と大野法律事務所の名刺が重ねられ、その上には拓海が飲み終えたコーヒーの缶が載っていた。拓海は離婚届を捨てることも返すこともせず、見えないことにすれば葵の決意まで消えると思っているようだった。


 葵はその三日間、会社から帰ると自分の荷物を少しずつ段ボール箱へ詰めた。紺色のカーディガン、仕事用のスカート、読みかけの本、母から譲られた小さな裁縫箱を、必要なものと処分するものに分ける。拓海の靴下が洗濯籠からあふれても、夕食の皿が流しに残っていても、もう手を出さなかった。


 四日目の夜、拓海はコンビニ弁当を二つ買って帰宅した。葵の好物だからと幕の内弁当を差し出したが、消費期限が近いため値引きのシールが貼られている。葵はすでに冷やしトマトと豆腐で夕食を済ませていた。


「葵の分も買ってきた。鮭が入ってるぞ」


「もう食べました」


「だったら、明日の朝に食べればいい。冷蔵庫に入れておくから」


「消費期限は今夜の十一時です」


「細かいな。少しくらい過ぎても平気だろ」


 拓海は自分の弁当を電子レンジで温め、葵の向かいへ座った。ソースの袋を歯で破ったため、茶色いしずくが白いTシャツへ飛んだ。以前なら葵がすぐに染み抜きの方法を調べていたが、今夜は段ボール箱へ本を並べ続けた。


「いつまで、そんなことをしてるんだよ。もう機嫌を直せよ」


「引っ越しの準備です」


「本当に出ていくつもりなのか?」


「そのつもりだと、何度も説明しました」


「俺は離婚届に署名してない。夫婦喧嘩だけで勝手に家を出るなんて、無責任だろ」


「三千八百万円の連帯保証人になり、自宅を担保に入れたことは、責任のある行動なのですか?」


 拓海は箸を止めた。弁当の中には、半分に切られた竹輪の磯辺揚げと、衣の湿ったコロッケが残っている。拓海は反論を考えるときの癖で鼻の横をかき、美咲には事情があったのだと繰り返した。


「美咲は、頼れる家族がいないんだ。俺まで見捨てたら、あいつは本当に一人になる」


「美咲さんには、事業を始める自由がありました。それと同じように、失敗の責任を自分で負う必要があります」


「冷たいことを言うなよ。困っている幼馴染を助けるのは、そんなに悪いことか?」


「ご自分の財産だけで助けるなら、あなたの判断です。私たちの家と貯金まで黙って使ったから、私は離婚します」


「俺が美咲を見捨てたら、俺まで人でなしになるだろ」


「では、見捨てなければよいでしょう。私はその選択から離れます」


 拓海は、葵が美咲との縁を切れと言っているのだと思い込んでいた。美咲を選べば葵が嫉妬し、葵を選ぶと言えば離婚を取り消す。夫婦の問題を、二人の女性に求められる自分の物語に置き換えていた。


 しかし葵には、拓海へ選択を迫るつもりなどなかった。保証契約へ署名した手も、家を担保に入れた判断も、家計口座から金を送った操作も、すべて拓海自身が行ったものだった。美咲を切り捨てれば、それらがなかったことになるわけではない。


「美咲とは、もう会わない。それなら離婚しなくてもいいだろ?」


「会うかどうかは、あなたが決めてください」


「葵が嫌がってるから、縁を切るって言ってるんだぞ」


「私のために美咲さんを切り捨てたという形にしないでください。あなたが保証人になった事実も、私に嘘をついた事実も消えません」


「じゃあ、俺はどうすればいいんだよ!」


「契約した責任を、ご自分で負ってください」


 拓海は箸を弁当箱へ投げ入れた。プラスチックの蓋が跳ね、ソースのついたキャベツが一切れ、食卓へ落ちる。葵は汚れを見たが、自分の荷物を入れた段ボール箱を閉じることを優先した。


 翌週、大野弁護士から拓海へ、財産関係の資料を開示するよう求める書面が届いた。拓海は封筒を手にしたまま、妻が夫へこんなものを送りつけるのかと怒鳴った。葵は台所で自分の弁当箱を洗いながら、今後の話し合いは大野を通すと答えた。


「夫婦なのに、弁護士がいないと話もできないのか?」


「二人だけで話した結果、あなたは何度も声を荒らげました。それに、私は財産を正しい手続きで分けたいと思っています」


「俺の金まで持っていくつもりだろ」


「あなたの保証債務から財産を隠すつもりはありません。婚前からの預金と、私に権利のある財産だけを求めます」


「百二十万円のことまで書いてあるじゃないか。あれは美咲に貸しただけだ」


「でしたら、貸付契約書と返済予定を出してください」


「そんなものはないって言っただろ。幼馴染同士で、いちいち紙なんか作るかよ」


「それなら、大野先生へそのまま説明してください」


 拓海は書面を握りつぶしかけたが、葵が写真を撮っていることに気づいて手を止めた。以前なら、葵が証拠を残すような態度を取れば、夫婦なのに信用できないのかと責めただろう。しかし拓海自身が、信用だけでは済まない契約を妻へ隠していた。


 二週間後、拓海は大野法律事務所を訪れた。濃紺のスーツを着てきたものの、ネクタイは少し曲がり、額には駅から歩いてきた汗が浮かんでいる。葵は白いブラウスに灰色のジャケットを合わせ、拓海とは一席分を空けて座った。


 机には預金通帳の写し、保険証券、自宅の登記資料、住宅ローンと事業融資の残高資料が並べられた。大野はそれらを順番に示し、葵の婚前預金、結婚後に形成した財産、拓海名義の債務を分けて説明した。拓海は途中で何度も口を挟もうとしたが、大野が資料番号を指し示すと黙った。


「佐藤葵さんが婚姻前から保有していた二百八十万円については、葵さんの財産として扱います。結婚後の給与から形成された預貯金については、名義だけで判断せず、双方の収入や生活への貢献を踏まえて協議します」


「俺の給料のほうが多かったんですよ。半分ずつなんて、おかしくないですか?」


「家事や家計管理も夫婦生活への貢献として考慮されます。また、自宅については住宅ローンに加え、今回の担保設定があります。現在の評価額と債務額を確認しないまま、財産価値があるとは判断できません」


「この家は俺が結婚前に買ったんです。葵には関係ないでしょう」


「結婚後の返済に夫婦の収入が使われていますので、その点を確認しています。ただし、葵さんは自宅の取得を求めていません。担保権を害するような名義変更も求めていません」


 拓海は葵のほうを見た。葵が家を欲しがっていると思っていたらしく、口元が一度だけ動いた。葵は自宅へ残ることを望まず、入居審査を終えた賃貸マンションへ移る予定だった。


「では、家計口座から川村美咲さんへ送金された百二十万円について確認します。佐藤拓海さんが、ご自分の判断で送金したのですね?」


「貸しただけです。美咲の店が落ち着けば返ってきます」


「返済期日はいつですか?」


「決めていません」


「利息や返済方法を定めた書面はありますか?」


「ありません。昔からの知り合いですから」


「葵さんは、送金に同意していましたか?」


「言ったら反対されると思ったので、話していません」


 相談室の時計が、小さく時を刻んでいた。窓の外では、向かいの建物の屋上で作業員が白いシーツのような防水布を広げている。拓海は膝の上で両手を組み、親指を何度もこすり合わせた。


「葵さんの同意なく家計口座から支出された事情を踏まえ、この百二十万円は、財産分与の計算上、拓海さんが先に取得したものとして扱う案を提示します。川村さんから返済を受ける権利についても、拓海さん側で管理してください」


「待ってください。美咲が返せなかったら、俺が百二十万円を一人でかぶるんですか?」


「美咲さんを信用して貸したのでしょう。葵さんは、その判断に参加していません」


「でも、夫婦の金だったんですよ?」


「だからこそ、無断で送金した百二十万円を、葵さんの取り分まで減らす形にしないという提案です」


「葵、お前からも何か言ってくれよ。美咲から返ってくるまで待てばいいだろ?」


「いつ返るのか分からないお金を待つつもりはありません。美咲さんを信じているあなたが、その権利を持てばよいと思います」


 拓海は椅子の背もたれへ体を預け、大きく息を吐いた。美咲へ送金したときには、自分がその損失を引き受ける可能性など考えていなかった。返ってこなければ夫婦の貯金が減るだけで、葵がまた働いて補うと思っていたのだろう。


 大野は、双方が合意できる条件を一つずつ確認した。葵は婚前財産と自分名義の身の回り品を持ち出し、共有預金は百二十万円を拓海側の取得分として計算したうえで清算する。自宅について葵は所有権を求めず、住宅ローンと追加担保に関する責任は拓海が負うことになった。


「離婚しなければ、こんな計算をする必要もないんですよね?」


「離婚しなくても、保証債務と担保の問題は残ります」


「夫婦なら、葵にも助けてもらえるでしょう」


「葵さんは、それを拒否しています。離婚に応じるかどうかと、保証契約の責任は別の問題です」


 拓海は大野に言い返せず、葵のほうへ体を向けた。美咲と会わない、余計な金も渡さない、これからは何でも相談すると並べ、離婚だけは考え直してほしいと訴えた。葵はその言葉を聞きながら、大野から借りた黒いボールペンを指先で回した。


「美咲さんへ渡した百二十万円を、今月中に回収できますか?」


「それは、店の事情もあるから難しい」


「三千八百万円の保証契約を解除できますか?」


「債権者が認めないと無理だろ」


「自宅の担保を外せますか?」


「返済できれば外れる」


「では、何も元には戻っていません」


 拓海は、これから努力すると繰り返した。しかし、努力の内容を尋ねると答えられなかった。美咲の店が繁盛することを待ち、葵が家計を支え、問題が自然に消えることを期待しているだけだった。


 協議は二度目まで続いた。東都事業金融からは返済を求める新たな書面が届き、自宅についても今後の手続きに関する通知が送られてきた。拓海はそこで初めて、半年待ってもらえるという美咲の話に根拠がなかったことを理解した。


 三度目の協議の日、拓海は離婚届へ署名した。前夜に酒を飲んだのか、白いワイシャツからは汗とアルコールの混じった匂いがした。印鑑を押したあとも手を紙から離さず、葵が助けてくれるなら撤回すると言った。


「俺が大変なときに、葵まで見捨てるのか」


「私は、あなたが大変になる前に何度も止める機会を奪われました。あなたは私へ相談せず、自分で契約しました」


「離婚までしなくてもいいだろ。夫婦なら、苦しいときこそ支え合うものじゃないのか?」


「あなたが私へ求めているのは、支え合うことではありません。あなたと美咲さんが作った借金を、私に支払わせることです」


 離婚条件を記した合意書が整い、離婚届も提出された。葵は新しい賃貸マンションの契約を済ませ、休日に引っ越すことを決めた。部屋は一DKで今の家より狭かったが、南向きの窓があり、駅まで歩いて九分だった。


 引っ越しの日、葵は白いTシャツに薄いデニムのパンツをはき、髪を後ろで一つに束ねた。段ボール箱には、自分で買った食器、衣類、本、仕事の資料、母からもらった裁縫箱だけを詰めた。拓海の服も、家電も、高価な家具も持ち出さなかった。


 冷蔵庫を開けると、冷凍室には拓海の好物だったハンバーグが二個残っていた。休日にまとめて作り、一個ずつラップで包んだものだった。野菜室にはしなびかけたニンジンと、使い切れなかった半分のキャベツが入っている。


「冷凍庫のハンバーグ、持っていかないのか?」


「あなたのために作ったものです。食べるなら、ご自分で温めてください」


「これから、夕食はどうすればいいんだよ」


「スーパーもコンビニもあります。炊飯器と鍋も残しています」


「公共料金の引き落としは? 管理費は、いつ払うんだ?」


「書類をファイルにまとめました。期限も書いてあります。今後はご自分で確認してください」


 拓海は食卓に置かれた青いファイルを開いた。電気、ガス、水道、管理費、住宅ローンについて、支払日と問い合わせ先が記されている。葵が毎月当たり前に行っていたことを、拓海は初めて説明書として読んだ。


「葵がいないと、俺は仕事をしながら全部やらなきゃならないのか?」


「一人で暮らすなら、誰でもしています」


「美咲の店も大変なんだ。俺まで家のことに時間を取られたら、助けられないだろ」


「美咲さんの生活まで、私が支える理由はありません」


 引っ越し業者が最後の段ボール箱を運び出すと、部屋の一角が四角く日焼けしていないことに気づいた。そこには、葵が結婚前から使っていた本棚が置かれていた。床には細かな埃が残り、拓海の脱いだ靴下が一足、ソファの下から出てきた。


 葵は靴下を拾わなかった。雑巾を絞って自分の本棚があった場所だけを拭き、使った雑巾を洗面台へ置いた。結婚してから何度となく行った掃除も、これが最後だった。


「本当に行くのか?」


「はい」


「美咲だって、わざと返済を遅らせたわけじゃない。今度の事業で失敗したら、あいつには何も残らないんだぞ」


「だから、あなたは美咲さんを見捨てられないのでしょう」


「幼馴染なんだ。見捨てたら、俺まで人でなしになる」


 葵は空になった部屋を見回した。食卓の椅子は二脚残っていたが、片方には拓海の上着が掛けられている。流しには朝に使った皿が二枚重なり、コーヒーの乾いた跡が白いカップの底にこびりついていた。


 葵は五年間、拓海の好物を冷蔵庫へ作り置きし、雨が降れば洗濯物を取り込み、公共料金の期限を管理してきた。拓海が風邪を引けば雑炊を作り、靴下に穴が開けば同じ色の糸で縫った。それらは家族だから行ってきたことであり、美咲の借金を肩代わりするために続けてきたのではなかった。


「美咲さんを見捨てられないのでしょう。でしたら、お似合いの二人で、泥舟沈没コースをお楽しみください」


「そんな言い方をするなよ。美咲と俺は、そういう関係じゃない」


「関係の名前は、もうどうでもいいです。私より美咲さんの都合を優先し、私の財産まで使おうとした事実は変わりません」


「あとで後悔しても知らないからな。俺たちが成功しても、戻ってくるなよ」


「その心配は必要ありません」


 葵は玄関の棚へ鍵を置いた。銀色の鍵の横には、拓海が先月から捨てずに置いている宅配便の不在票と、期限の切れた割引券が重なっている。葵は自分の白いスニーカーを履き、かかとを指で整えた。


 玄関を出ると、夏の終わりを知らせる風が通路を抜けた。引っ越し業者のトラックには、葵の名前が書かれた段ボール箱が積まれている。箱の数は多くなかったが、自分で選んだ新しい部屋へ運ぶには十分だった。


「葵」


 背後から拓海に呼ばれても、葵は振り返らなかった。エレベーターの扉が開くと、中には昼食を買いに出るらしい近所の女性が乗っており、手にはネギののぞいた買い物袋が下がっていた。葵は軽く会釈をして乗り込み、一階のボタンを押した。


 扉が閉じる直前、拓海はまだ玄関の前に立っていた。その手には東都事業金融から届いた新しい通知書が握られている。葵は視線を正面へ戻し、動き始めたエレベーターの振動を足の裏で受け止めた。


 一階へ着くと、外には雲の切れ間から日が差していた。葵は引っ越し業者へ新居の住所を伝え、自分の鞄を抱えてトラックの後ろを歩き始めた。三千八百万円の泥舟は背後に残り、葵の足は、自分の名前だけで借りた新しい部屋へ向かっていた。



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