第2話 頼られる俺を、理解しない妻
第2話 頼られる俺を、理解しない妻
午前二時を過ぎても、葵は居間のソファで眠れなかった。薄い毛布を胸まで引き上げても、エアコンの風が当たる足先だけが冷えている。寝室からは拓海のいびきが聞こえ、食卓には三千八百万円の数字が印刷された通知書が置かれていた。
葵は起き上がり、冷蔵庫から麦茶を出した。昼間に煮出した麦茶は残り少なく、ポットの底に細かな茶葉が沈んでいる。新しいものを作ろうとしてやめ、コップ半分を飲んでから、ノートパソコンを食卓へ運んだ。
検索欄へ「連帯保証人 本人が払わない場合」と入力した。表示された公的機関や法律事務所の解説を、葵は広告と区別しながら順番に読んだ。会社の経理業務で契約書に触れることはあっても、個人で連帯保証人になった場合の責任まで詳しく調べたことはなかった。
連帯保証人は、借金をした本人とほぼ同じ支払責任を負う。通常の保証人と異なり、債権者から請求されても、「まず借りた本人へ請求してほしい」と求めることができない。本人に財産があるから先にそちらを差し押さえてほしいと主張する権利もなく、ほかに保証人がいたとしても、自分の負担分だけ払えばよいとは限らなかった。
「三千八百万円、全額……」
自分の声が、暗い部屋の中で小さく響いた。美咲が返済できなければ、東都事業金融は拓海へ三千八百万円の全額を請求できる。美咲より先に拓海へ請求する可能性さえあると知り、葵は画面を一度閉じかけた。
それでも調べることをやめなかった。拓海が支払いを拒み、債権者が訴訟などの手続きを取れば、預貯金や給与、不動産が差し押さえの対象になり得る。美咲が自己破産して返済を免れても、拓海の保証債務まで一緒に消えるわけではなく、拓海自身も払えなければ債務整理を検討しなければならない。
葵は大学ノートを一冊取り出した。表紙には、数年前に拓海と水族館へ行ったときに買ったイルカのシールが貼ってある。家計簿へ使うつもりで残していたものだったが、葵は最初のページに「連帯保証契約」と書き、調べた内容を一項目ずつ記録した。
自宅、預金、給与、信用情報、自己破産。書くたびに、これまでの暮らしから一つずつ物が消えていくようだった。食器棚に並べた結婚祝いの皿も、寝室の箪笥も、ベランダで育てている小さなバジルの鉢も、この家を失えば持ち出さなければならない。
午前三時半、葵は自分名義の預金口座へログインした。残高を確認し、過去一年分の明細を保存する。続いて家計用の共有口座を開くと、見覚えのない振り込みが四回あることに気づいた。
振込先は、カワムラミサキだった。四月に三十万円、五月に二十万円、六月に四十万円、七月に三十万円。合計百二十万円が、拓海の操作によって家計口座から送金されていた。
「保証人になっただけではなかったのね」
葵は振込明細を保存し、画面を印刷した。プリンターが紙を送り出す音を聞きつけたのか、寝室の扉が開いた。灰色のTシャツとチェック柄の短パンを着た拓海が、寝癖のついた髪をかきながら居間へ入ってきた。
「こんな時間に何してるんだよ。プリンターの音で目が覚めたじゃないか」
「家計口座から美咲さんへ、百二十万円を振り込んでいるわね。これは何のお金?」
「まだ起きてたのか。明日でいいだろ、そんな話」
「四月から七月まで、合計百二十万円です。私に黙って送金した理由を答えて」
拓海は冷蔵庫を開け、ペットボトルの水を口につけて直接飲んだ。葵が何度注意しても、夜中だけはコップを使わない癖がある。水を飲み終えると、拓海は少し面倒そうに冷蔵庫の扉を閉めた。
「店の仕入れ代だよ。開店直後は現金が必要だっていうから、一時的に貸しただけだ」
「いつ返してもらう約束なの?」
「店が軌道に乗ったらだよ。友達同士で、いちいち返済日まで決めないだろ」
「振り込みを証明するものはあります。けれど、金銭消費貸借契約書も返済期限もない。これでは、贈ったと言われても反論が難しいでしょう」
「美咲はそんなことを言う女じゃない。葵はどうして、会ったこともない相手を悪人みたいに決めつけるんだ」
「悪人かどうかを聞いていません。百二十万円を、いつ、どうやって返してもらうのか聞いています」
拓海は返事をせず、寝室へ戻った。扉を閉める直前、朝から美咲を呼んで話せば葵も納得するだろうと言い残した。葵は百二十万円の振込明細を、連帯保証契約について調べたノートと一緒に鞄へ入れた。
翌朝、葵はいつもの時刻に目を覚ました。三時間も眠っていなかったが、顔を洗い、薄い水色のブラウスと黒いパンツに着替えた。朝食には昨夜の味噌汁を温め、冷蔵庫に残っていた豚肉とピーマンの炒め物を小皿へ盛った。
拓海は白いTシャツ姿で食卓へ座り、味噌汁へ卵を落としてほしかったと不満を言った。葵は自分の茶碗にだけ白いご飯をよそい、梅干しを一粒のせた。拓海の世話を当然に続ける気にはなれなかった。
「美咲に連絡した。十時には来るってさ。本人から説明を聞けば、葵だって安心するよ」
「安心できるかどうかは、説明の内容で決まります。事業計画書と決算書、融資金の使途が分かる資料も持ってきてもらって」
「朝から堅いこと言うなよ。今日は会社を休んだんだろ。もう少しゆっくりしたらどうだ?」
「あなたの保証債務について調べるために休みました。休養のためではありません」
拓海は味噌汁をすすり、調べるほどのことではないと言った。葵は昨夜まとめたノートを開き、連帯保証人の責任について説明した。拓海は途中から箸で梅干しの種を転がし、聞き流すように何度も時計を見た。
「美咲が借りた金なんだから、まず美咲に請求するに決まってるだろ。いきなり俺のところへ来るわけがない」
「違うわ。連帯保証人には、『まず借りた本人へ請求してください』と言う権利がありません。美咲さんに返済能力があっても、債権者はあなたへ請求できます」
「でも、美咲だって自分の借金くらい払うよ」
「美咲さんが自己破産しても、あなたの責任は消えません。あなたが払えなければ、この家だけでなく、預金や給与にも影響が及ぶ可能性があります。三千八百万円を返せなければ、あなた自身も債務整理を考えることになります」
「何でも一番悪い場合で考えるなよ。葵は昔から心配性なんだ。半年もすれば店が繁盛して、笑い話になってるって」
午前十時を十五分ほど過ぎたころ、インターホンが鳴った。拓海はすぐに立ち上がり、玄関へ向かった。その足取りの軽さは、昨夜の督促状を見たときとは別人のようだった。
玄関から、甘い香水の匂いが流れ込んできた。川村美咲は、胸元に小さなリボンのついた淡い桃色のワンピースを着て、白い細身のサンダルを履いていた。肩には、葵でも名前を知っている海外ブランドの黒いバッグを下げている。
「おはよう、拓海くん。急に呼ぶから、びっくりしちゃった」
「ごめんな。葵が、いろいろ心配しててさ。ちゃんと説明すれば分かってくれると思うから」
「奥さんって、本当にしっかりしてるのね。私だったら、朝から難しい話なんて頭に入らないわ」
美咲は葵に頭を下げることもなく、拓海の隣へ腰を下ろした。拓海は美咲にだけ冷たい麦茶を出し、氷を三つ入れた。美咲が氷の入っていない飲み物を嫌うことを、昔から知っているらしかった。
「美咲さん、東都事業金融への返済が二か月滞っているそうですね」
「そうなの。でも、本当に少し予定がずれただけなんです。秋物が売れ始めれば、すぐに取り戻せますから」
「三千八百万円を、半年で返せると拓海から聞きました。それだけの利益が出る根拠を見せてください」
「葵、最初から責めるような言い方をするなよ。美咲だって、わざわざ来てくれたんだから」
「自分の借金について説明するためです。わざわざ来てくれたのではありません」
美咲の口元から笑みが消えたが、それは一瞬だけだった。すぐにバッグから透明なファイルを取り出し、事業計画書を食卓へ置いた。表紙には「女性を輝かせる上質な日常着」と金色の文字で印刷されていた。
葵は売上計画を読み始めた。月間の来店客数は千五百人、購入率は七十パーセント、客単価は三万円に設定されている。しかし店舗の場所と営業時間を考えれば、毎日五十人以上が来店し、そのうち三十五人が三万円分の商品を購入する計算だった。
「この来店客数は、何を根拠に出した数字ですか?」
「駅前だから、人はたくさん通ります」
「通行人全員が店に入るわけではありません。過去の店舗で、月に千五百人が来店した実績はありますか?」
「前のお店とは場所が違います。今度はもっといい場所なんです」
「購入率七十パーセントの根拠は?」
「私の服を見れば、欲しくなる人が多いと思います」
「原価率が十五パーセントになっています。国内の小規模工場で少量生産するのに、この原価で作れるのですか?」
美咲は髪を耳へかけ、拓海のほうを見た。耳元では、小さな石のついた金色のピアスが揺れている。拓海は助けを求められたと思ったのか、葵の前から事業計画書を取り上げた。
「細かい数字は、これから調整すればいいだろ。美咲にはデザインの才能があるんだ。経営の専門家じゃないんだから、完璧な書類を求めるなよ」
「三千八百万円を借りる事業計画です。完璧でなくても、少なくとも返済できる根拠は必要です」
「経理の人って、夢より数字ばかり見るのね」
美咲は困ったように笑い、黒いバッグを膝の上へ抱え直した。革の表面は傷一つなく、金色の留め具が窓から入る光を反射している。葵はそのバッグと、返済が二か月滞っているという話を頭の中で並べた。
「そのバッグは、いつ購入したものですか?」
「どうして、そんなことまで答えなきゃいけないんですか?」
「融資金の使途を確認したいからです。三千八百万円は、店舗の保証金、内装費、仕入れ費用のために借りたのですよね」
「これは仕事で必要なんです。安っぽいものを持っていたら、お客様に信用されないでしょう?」
「融資金で買ったのですか?」
「葵、いい加減にしろよ。美咲の持ち物まで調べるなんて、失礼だろ」
拓海は美咲をかばうように身を乗り出した。二人が並んだ姿を見ていると、ここが葵の家であることを忘れているようだった。食卓には拓海がこぼした梅干しの種が残り、美咲の香水と温め直した味噌汁の匂いが混ざっていた。
「では、百二十万円について説明してください。四月から七月まで、拓海が家計口座から美咲さんへ送金しています」
「拓海くんが、しばらく使っていいって言ってくれたんです。夫婦のお金だなんて知らなかったし、私は無理に頼んでいません」
「返済日はいつですか?」
「お店が落ち着いたら返します」
「具体的には何月何日ですか?」
「そうやって人を追い詰めるの、よくないと思います。拓海くんは昔から、困っている人を放っておけない人なんです。奥さんなら、そんな優しいところを理解してあげたらどうですか?」
美咲は拓海の腕へ軽く手を添えた。拓海は振り払うどころか、美咲を安心させるようにうなずいた。葵は二人の手元を見たあと、事業計画書を静かに閉じた。
「拓海、美咲さんが返済できなければ、あなたに三千八百万円の全額が請求されます。家を売っても足りなければ、どうするつもりなの?」
「二人の貯金があるだろ。それに葵は大手に勤めているんだから、収入だって安定してる。夫婦なんだから、こういうときこそ助け合うものだろ」
「あなたが私に相談せず引き受けた借金を、私の貯金と給与で返すことが助け合いなの?」
「俺が困っているのに、自分の金だけ守るのか?」
「困ると分かっていて保証人になったのは、あなたです」
拓海は妻なのに冷たいと言い、美咲も自分のせいで夫婦喧嘩をしないでほしいと口にした。そう言いながら、美咲は残っていた麦茶を飲み干し、拓海へおかわりを求めた。謝罪も返済の約束もないまま、氷のぶつかる音だけが食卓に響いた。
葵は、これ以上説明しても無駄だと判断した。拓海は美咲を助ける自分に酔いながら、最初から葵の収入と貯蓄を当てにしていた。美咲の借金を引き受け、自宅を担保に入れ、家計から金を渡し、最後は妻に返済させるところまでが、拓海にとっての助け合いだった。
「お話は分かりました。事業計画書はコピーさせてください」
「やっと協力する気になったのか?」
「いいえ。事実を記録するためです」
美咲が帰ったあと、葵は窓を開けた。外から生ぬるい風が入り、部屋に残った甘い香水の匂いを少しずつ薄めていった。拓海は美咲を駅まで送ると言って出かけ、食卓には水滴のついたコップが三つ残されていた。
葵はコップを洗い、布巾を固く絞って食卓を拭いた。いつもなら拓海の脱いだ靴下も洗濯機へ入れるところだったが、今日は廊下に落ちたままにした。代わりに通帳、給与明細、保険証券、住宅ローンの契約書、不動産関係の書類を集め、すべて複製した。
午後になると、葵は美咲の会社名を検索した。公式サイトには華やかな写真が並んでいたが、会社の設立は一年前で、記載された店舗の一つはすでに閉店している。取引先への支払いを求める書き込みや、以前の店で給料が遅れたという元従業員の投稿も見つかった。
葵は検索結果の日時とアドレスを記録し、必要な画面を保存した。その作業を終えると、午前中に予約した法律事務所の所在地を紙の手帳へ書き写した。明日の午前十時、大野法律事務所で、離婚と財産について相談することになっていた。
夕方、拓海から「美咲が泣いていた。少しは言い方を考えろ」というメッセージが届いた。葵は返信せず、その画面も保存した。ベランダでは朝から干してあった拓海の靴下が夕立にぬれ、竿の先から水を落としていたが、葵は取り込まなかった。
代わりに自分の白いハンカチだけを室内へ入れ、アイロンをかけた。明日は弁護士に会うため、しわのないものを持っていきたかった。アイロンから上がる湯気を見ながら、葵は五年間使ってきた家計簿を閉じた。
もう拓海と美咲の夢を、自分の給与で支えるつもりはなかった。二人が選んだ三千八百万円の泥舟から降りるために、葵は自分の生活を守る準備を始めていた。




