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夫は今夜も愛人のもとにいる  作者: 秋月 もみじ


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第9話 条約調印式、隣席は空席のまま


 両国の紋章が押された羊皮紙のうえで、私の名前は、ゴドウィンではない男の隣に、並んでいた。


              ◇


 その日の朝、ヴァルモント公爵邸の奥の衣装間で、私は外套の留め金をひとつ、つけ直していた。鏡を見ての判断ではなく、手の感触のずれで気づいたからだった。侍女はもう下がっていた。扉の向こうで馬車の準備の足音が、遠くに聞こえている。


 扉が控えめに叩かれた。


「——伯爵夫人」

 ラファエル・ヴァルモントの声だった。

「お入りくださいませ」


 扉が開いた。

 彼もまた、公式の外套をまとっていた。黒と、紺と、襟の銀のピン。あの最初の宴の夜から、変わらないピンだった。


「お支度は、いかがでしょうか」

「できております」


 ラファエルはしばらく、入口のあたりに立っていた。入ってこようとも下がろうともしなかった。——何か言いたいことがある人間の立ちかたである。

 私は留め金から手を離し、彼のほうを見た。


「……ひとつ、申し上げても、よろしいでしょうか」

「どうぞ」


 彼は姿勢をわずかに正した。

「条項の発効につきましては、式次第の通り、淡々と進みます。書面に署名を、お願いいたします。それだけで、すべて、終わります。

 ——ただ」


 彼はここで、目線を窓のほうへ一度外し、それから戻した。


「本日、はじめて、あなたに、私の口から、お願いのかたちで、申し上げたいことが、ございます」

「……」


「私で、宜しければ」


 それだけだった。

 宜しければ、何を、とは、彼は言わなかった。

 宜しければ、あなたの隣にあってよいでしょうか、の「隣」も、彼は口にしなかった。

 それらを、すべて、あちらに渡して、彼は、ひとことを差し出した。

 「私で、宜しければ」。


(ああ、お選びを広げてくださったあの日から、このお方は、このひと言をずっと、胸のなかに、あたためていらしたのね)


 私は最後の留め金を、音もなく留めた。


「——はい。あなたで、宜しゅうございます」


 彼は目をほんのわずか、伏せた。

 頭を下げる動作の、もっともささやかなかたちだった。


              ◇


 調印式の広間は、両国の紋章を向かいあわせに掲げた、天井の高い正庁だった。


 エルムブルク側の参列席は、半ば、空いていた。

 真ん中の、いちばん目立つ席——「アルヴィス伯爵」と名札が出されていたが、名札だけが置かれて、人はいなかった。爵位の一時停止処分の発効から、日数が経っていた。停止処分はこの朝、議会の採決をもって「剥奪」に正式に切り替わっていた。剥奪の理由書には、外交文書偽造の一項が最上段に置かれていた。剥奪の席に出席する資格は、もはやない。

 名札の「アルヴィス伯爵」の文字を、王宮の書記官が、途中でそっと除けていった。除けかたは、手慣れていた。——慣れているということ自体が、ひとつの沈黙の指弾だった。


 条文の読み上げが始まった。


 ——《両国は以下の事項を、両国の利益に適うとして、共同の承認のもと、これを取り交わす。

 第一、エルムブルク国の前アルヴィス伯爵夫人ルシアナの、旧家とのご離縁を、本日付にて認めること。

 第二、同人の、リエル国公爵ラファエル・ヴァルモントとのご婚姻を、本日付にて、両国の公式書面に、これを登記すること。

 第三、同人の国際的な身分変動は、両国の外交上の利益に適うと、両国王室が、共にこれを認めること——》


 私は所定の席で頭を下げたまま、聞いていた。顔を上げたのは、読み上げが終わってからだった。


 書面には、父の家名、母の家名、そして「ルシアナ」とだけの名前が並んだ。

 「アルヴィス」の姓は、この書面のどこにも、なかった。


 私はペンを受け取った。ペン先を羊皮紙のうえに落とした。——落とすまでに、息をひとつ、整えた。

 「ルシアナ」とだけ、書いた。

 ラファエルが、私の隣で、同じ羊皮紙に、自分の署名を入れた。


 それだけで、終わった。


              ◇


 ……私は、ただ、愛されたかっただけなのに。


 修道院の回廊は寒い。冬の石の床は、靴の薄い底をひやりとさせる。父は、お金をつけてくれなかった。借金男のひとりは、まだ、私を探している。もうひとりは、もう、私の名前も憶えていない。三人目の男は、私の前で、泣いた。

 なぜ、あの人は、泣いたのだろう。


 私は、皆を、本気で愛していた。

 本気で、一晩ごとに、愛していた。

 それは、「一晩ごとに」という意味では、愛ではなかった、と、修道院長がおっしゃった。

 言われて、はじめて、私は、愛、というものが、なんなのか、分からなくなった。


              ◇


 ……あの子を、育て間違えた。


 遠縁の領地へ退く馬車のなかで、私は窓の外の霧を、見ている。霧の向こうに、かつての我が家の屋根が、かすんで見えた。あれも、もう、我が家ではない。

 リンドバーグの娘は、優しい子だった。優しい子を、私は、我が家の「お飾り」にして、使い潰した。そう、使い潰したのだ——あのときは、その言葉を知らなかった。知らなかったから、「家のため」と、私は言えていた。

 「家のため」は、便利な言葉だ。便利すぎて、私はそれを、使いすぎた。

 息子は、遠縁の領地の補佐官の席に収まる。書類は、従兄が書く。息子の字は、いまも、子どものように、丸い。


              ◇


 ヴァルモント公爵邸に戻ったのは夕方だった。

 部屋の窓の外では、雪がちらつきはじめていた。

 ラファエルは、夕食の支度が整ったと、家令に呼ばれた。私のほうは、その前に、一度だけ、ペンを手に取った。


 実家への、ごく短い報告を、書きたかった。


 ——《お父様、お母様。

 本日、滞りなく、済みましてございます。

 このあとも、お身体に、お気をつけて、お過ごしくださいませ。

 ——ルシアナ》


 「ルシアナ」のあとに、姓は、書かなかった。

 書かなかったところで、父と母は、分かってくださるだろう。


              ◇


 夜のあいだに、雪は、雨に変わっていたらしい。

 寝台の上で、私は、雨音で、目を覚ました。

 ——この家の朝は、たぶん、こういう音で始まる。


 枕のうえに、ひとすじ、灰色の光が差していた。

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