第10話 桃のパイの焦げ目
桃のパイの焦げ目を気にしていた朝、門前で男が跪いた、と使用人が告げた。
◇
ヴァルモント公爵邸の厨房は、昨夜からの雨のせいで、床がほんの少しだけ、ひんやりしていた。
私は袖をまくって、エプロンの紐を腰のうしろで結び、天板の上のパイを、もういちど、覗き込んだ。
桃のパイである。——調印式の疲れを取るには、焼き菓子のひとつも、自分の手で作ったほうがよい、と思ったのだった。嫁ぐ前は母を手伝って、台所の近くをうろうろしていた時期もあった。手が、少し、思い出してくれていた。
焦げ目が、右の端のほうだけ、ほんのわずか、深い。
深すぎる、とまでは言わない。ほんの少し、濃い。
私はそこを、じっと見ていた。
しっかりと焼けた桃の縁が、少し、苦くなっているだろうか。
苦いのも、悪くない、かもしれない。
(お父様は、お母様の焼いた焦げ気味の麦のパンを、平気でお召し上がりでした。おいしいとも、おいしくないとも、おっしゃらないで)
あのふたりの食卓の静けさを、今朝、思い出した。思い出したのは、私が、ようやく、そういう静けさに手を伸ばせる側に、回ったからだった。
そのとき、使用人頭の足音が、厨房の扉のむこうで、止まった。
控えめな、けれど小さくはない、叩きかたがあった。
「奥様」
「はい」
「——門前に、お客様が」
「どなた様で」
「……アルヴィス、とお名乗りでございます」
私はオーブンの前から、身を起こした。
エプロンの紐を解くほどのことでは、なかった。
◇
二階の、窓際の間へ上がった。
窓のしたは、正門の内側の敷石の、その向こうまで、よく見えた。
雨は夜のうちに、しとやかなものに変わっていた。寒い雨ではなく、ゆっくり落ちてくる、冷たいけれど柔らかい雨だった。
ひとりの男が、門の外の敷石に、膝をついていた。
雨のしとやかな粒が、男の肩に落ちて、黒くしみをひろげていた。
顔までは、遠くてよく見えない。
それでも、その膝のつきかたで、誰であるかは、分かった。
扉の向こうから、ラファエルの足音が、上がってきた。
「ルシアナ」
彼は、私の呼び名を、今朝から「ルシアナ」と改めていた。署名の「ルシアナ」の、そのおあとに相応しいかたちに変えた、ということである。私も昨夜の夕餉のあとから、彼のことを、「ラファエル」と、名でお呼びしていた。
「いかがなさいますか」
彼は訊ねた。
私はしばらく窓の外を見ていた。
しばらく、といっても、ほんとうに、しばらく、である。長くは、見なかった。
「衛兵に、丁重に、お引き取りを願ってくださいませ」
私は言った。
「ええ」
彼はそれ以上、何も訊かなかった。
階下に足音を下ろしていった。
◇
衛兵の声は、窓越しに、途切れ途切れに聞こえた。
風があったのと、雨の粒の音もあったのとで、全部は聞き取れない。ただ、ひとつの言葉だけが、ほかの言葉より、耳に明るく、残った。
「——条約批准済みでございます。閣下、ご退去を」
「ご退去を」の語尾は、穏やかだった。
穏やかだけに、押し返しは、しなかった。ただ、閉じていた。
男はしばらく、膝をついていた。
立ち上がるかどうかは、彼自身の、最後の選択のように見えた。
衛兵は、手を貸さなかった。貸してはならなかったし、貸しようもなかった。条約の発効した日の朝、この邸のほうから、あの男に触れることは、何であれ、外交上の事件へ繋がる。
ここで、あの男が、何を口にしても、それは、一国の王室と、もう一国の王室の、共同認定に対する抗議、ということに、なってしまう。
——「なってしまう」、という、取り返しのつかない枠組みのなかに、彼はもう、入ってしまっていた。
やがて、彼は、ゆっくり、立ち上がった。
立ち上がるまでの時間は、長くはなかった。——長い時間を必要とするだけのものを、彼はもう、持っていなかった。
敷石の、彼の膝のあったところに、黒い、楕円のかたちの湿りが残っていた。
雨は、残った湿りの縁を、少しずつ、ぼかしていった。
◇
厨房に戻ると、ラファエルが、オーブンの前で、私のパイを、覗き込んでいた。
彼は、少しだけ振り返った。
「——焦げましたね」
「ええ、でも、美味しいですよ」
彼はほんの少し、笑った。
笑い、というより、口角の端が上にいって、また下りた、という程度の動作だった。
その程度の動作で、今朝、この家の台所の空気の温度が、変わった。
私たちはパイを、切り分けた。
切り分けた断面に、桃のやわらかい果肉が、光に透けていた。その透けかたが、嫁いだ家で、私の知らないまま五年間、通り過ぎていた類の、光だった。
「お父様は、お母様の焦げ気味の麦のパンを」
と、私は言った。
「平気でお食べになっていらしたのですよ」
「ほう」
「おいしいとも、おいしくないとも、おっしゃらないで」
「——それは、いちばん品のよい褒めかたですね」
「ええ、そうなんです」
ふたりで、笑った。
笑ったときに、私ははじめて、自分の声の、笑いにまじった音を、しっかり、聞いた。——「奥様」と呼ばれない声を、私は、ずっと、聞きそびれていたのだった。
◇
のちのことが、父の便りで、少しずつ、届いた。
あの男は、遠縁の領地の補佐官の席に収まったらしい。書類は、従兄が書いている。
夜、あの男は、私の書いた領地改革原稿の写しを、手元に置いているそうだ。金庫に保管していた写しのうちのいくつかが、ご実家経由で、手に渡ったのだという。父の差配ではない。夫の母が、最後の、わずかな母としての意地で、息子に渡した、とのことだった。
あの男は、毎晩、それを読む。
読むけれど、書き写すことは、できない。
——書き写しかたの「順番」が、どうしても、わからないからだ、と、あの方は、誰にも、ついに、言わなかったらしい。誰にも言えないから、毎晩、ひとり、読むのだ、と、父は書いていた。
私はその話を、父の手紙の三行目で読み終えて、卓のうえの紅茶を、一口、飲んだ。
——あの方の夜が、どうなっていようと、私の、もう、知るところではない。
ないけれど、知らせてくださった父の心づくしは、少しだけ、受け取った。
◇
その晩、私は、寝室の窓を、細く開けた。
開ける必要は、なかった。もう、数える馬車の音は、ない。
それでも、習慣で、指先が、掛け金に触れていた。
ひとしずく、雨の音が、石畳のうえで、短く、跳ねた。
(千二百六十四日、数えました)
(——もう、数えなくて、よいのですね)
小さく、口のなかで、自分に、そう告げた。
告げて、窓を、静かに閉めた。
部屋の奥で、ラファエルが、書きものの手を止めていた。
「——もう、お休みになりますか」
「はい。お先に」
「すぐ参ります」
私は寝台の縁に腰かけ、ナイトガウンの帯を、ひとむすび、ゆるめた。
結び目のほどける手触りを、指が覚えた。指が覚えた、ということは、もう、身体がここにいる、ということだった。
焦げ目のある桃のパイの匂いが、家のなかに、かすかに、まだ残っていた。




