第8話 偽造された、外交文書
「閣下の筆跡ではございません」
王宮書記官のそのひと言で、夫の足元は崩れたのだという。
◇
事のあらましを知ったのは、エルムブルクから届いた、父ヘンリックの手紙によってである。
父の手紙は、この一週間のうちに、三通届いた。
一通目には、夫からの私信の攻勢について、父が警告を含めて書いていた。
——《ルシアナ。
アルヴィス伯爵殿からの封書が、当家商会にも届きはじめた。宛先はいずれも「ルシアナの居所をご存じの方へ」となっておる。中身は拝見しておらぬが、何を書いていらしても、こちらとしてはお届けしかねる立場である。一切、差し戻し申し上げた。
奥様にはお気を揉ませぬよう、母の手元で処理させておる。——ヘンリック》
そのとき、私の執務机のうえにも、夫からの便りが数通、重なっていた。
全部、封のまま、抽斗の底に入れた。
——夫は、内容で責めてくる男ではなかった。ただ、紙の厚みで責めてくる癖のある方だった。
◇
父の二通目が届いたのは、三日ほどのちのことだった。
——《ルシアナ。
陛下が、夫殿を、ふたたび王宮にお召しになった由。
公式の席でのお言葉として、次のようなご下命があったという。
『リエル王室へ赴いている伯爵夫人ルシアナを呼び戻し、両国外交上の名誉を修復すべし』
夫殿はもちろん、この場でお答えを差し上げられるはずもなく、退出された。
以後しばらく、夫殿は書斎を閉ざされたままで、家令バートレット殿ご自身が、うちの帳場へ、『人手の斡旋をお願いしたい』旨、密かにおいでになった。身内以外の筆跡で、外交文書を書ける者を、貸してほしい、ということだった。
申すまでもないが、当方、お断り申し上げた。断ったうえで、商会の取引筋にも、同様のお頼みがないかどうか、静かに気を配るよう伝えておいた。
結果、お頼みは、下位の書記代筆を請け負うある業者のもとに、入ったらしい。——ヘンリック》
……夫は、書けないままの文書を、よそで書かせた。
そのまま、自分の署名を付して、王宮へ、お出しになった。
私はそこまで読んで、白湯をひとくち、飲んだ。
◇
父の三通目は、数行だけのものだった。
——《ルシアナ。
本日、王宮書記官ホルト卿が、夫殿ご提出の外交文書をお検めになり、『閣下の筆跡ではございません』とご断定。
陛下、御前にて、文書偽造の事実、公式に認定。
——本日付、アルヴィス伯爵位、一時停止処分。
詳細は別便にてお送りする。——ヘンリック》
父は、娘への便りに、喜びや苦渋のような感情の言葉を、一切書かなかった。
書かないところが、いかにも商人の父であり、同時に、いかにも娘を大事にしている父だった。
私は便箋を畳んだ。
机のうえに、冬の低い日が、少しだけ、射した。
(ああ、——ようやく、ご自分でお書きになったものが、ご自分の足元を、お崩しになったのですね)
◇
その夕刻、外交書簡の間の扉を、控えめに叩く音があった。
「——伯爵夫人」
ラファエル・ヴァルモントの声だった。
いつもと、わずかに、違っていた。何かを、今日は手に持っていらっしゃる、という声の質だった。
「どうぞ」
扉が開いた。
彼が抱えていたのは、書類の束ではなかった。
革張りの、古い、厚い冊子だった。表紙には、薄く、葡萄の蔓の型押しがある。角は手擦れで白く、くすんでいる。祖父の代、あるいはそれより前の、ヴァルモント家の蔵書に違いなかった。
「古文書室から、お持ちいたしました」
彼は机の、私の書類の束のいちばん端をすこし空けて、そこに、冊子を、ゆっくり置いた。
「ひとつ、お見つけしたものがございます」
頁を繰る指先は、手袋をしていなかった。
冷たい羊皮紙を素手でめくる音が、紙のあいだから、しめやかに立ちのぼった。
——しばらくしたのち、彼はある一頁を、私のほうへ向け直した。
黒い古い字で、こう書かれていた。
——《両国の利益に適う場合において、既婚の一方の臣下の、国際的な離縁およびその後の再嫁をば、両国王室の共同承認のうえ、これを認める》
……
私は、頁の文字を、静かに追った。
文字の端に、注釈が、小さく書き足されていた。注釈はいくつかあり、それぞれ、過去この条項が用いられた事例が短く記されている。どれも、ずいぶん昔の記録だった。
「——生きている条項でございますか」
私は訊ねた。
「生きております」
彼は答えた。
「両国の書記局にて、確かめてまいりました。休眠条項の扱いで、議会の過半と、両国王室の署名が揃えば、発効いたします」
彼は少しだけ黙った。
「これをお見せしたのは、——あなたのお選びを、広げるためでございます」
「……」
「ご離縁をご希望なさるもよし。このままヴァルモント家の外交顧問としてお務めをお続けになるもよし。リエルを引き払い、別の国で、お一人でお暮らしになるもよし。
あなたがお選びになれば、それに、私は、条件を合わせてまいります」
彼は頁から指を退けた。
「プロポーズでは、ございません」
彼は短く付け足した。
「先だって、あなたが、私の長い話を、『お聞きくださった』。そのお礼のようなものです」
……
私は、古文書から目を上げた。
彼はもう、窓のほうを見ていた。——窓の外は、冬のはじまりの、雪の予感のある、曇った空だった。
「ヴァルモント公爵」
私は言った。
「お選びを、いま、お答えする必要はございませんか」
「ございません」
「では、しばらくお時間を頂戴しとうございます」
「ご随意に」
彼は頭を、小さく下げた。
古文書の頁は、彼の指が離れたあとも、開かれたまま、私の机のうえに残された。
——《両国の利益に適う場合において》、という一文が、冬の日のなかで、黒々と、静かに、息をしていた。




