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夫は今夜も愛人のもとにいる  作者: 秋月 もみじ


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7/10

第7話 借金証文、三人分


 社交界に、三枚の借金証文が、同時に現れた。


 リエル王国、ヴァルモント公爵邸の、外交書簡の間の机に、父ヘンリックからの手紙が置かれていたのは、朝の、まだ光のやわらかい時刻だった。筆跡はいつもの商人のもの。封の蝋だけが、冬の便りらしく、薄い青に替わっていた。


 ——《ルシアナ。

 本日、王都の社交界にて、フォルゲ子爵家ご令嬢マレーナ嬢のお名にて発行された借用証文が、三通、同時に発見された。発見したのは、それぞれ別の貸主殿である。

 三通の証文は、筆跡が同じ。日付は、ひとりのご婦人が、ひとつの週のうちに、別々の殿方へ、お書きになったもの。

 三通に共通する文言がひとつあった——「生涯の、約束のお相手とお思い申し上げます」。

 たまたま酒席にて、殿方三名がそれぞれ手元の証文の文言を、ふたりが、読み上げた。ひとりは読み上げなかった。途中で声にならなかったからである。

 以上、お知らせまで。——ヘンリック》


 私はその手紙を、そっと卓の隅に寄せた。


(想像していたよりも、ひとり、多うございましたのね)


              ◇


 数日のうちに、続報が、同じ便で、二通届いた。


 二通目は、マレーナの社交界からの失墜を、事実だけを淡々と記していた。フォルゲ家は娘の三重の婚約をつくろうため、現金ではなく宝石での返済を試みたが、そのうち一品が「他家からのお下がり」と鑑定された、と。家紋入りの、お下がり。——リンドバーグの家紋の押されたブローチが、今度は、担保として、別の貸主の手元に出てきたらしい。


 三通目の父の便りは、もっと短かった。


 ——《ルシアナ。

 本日付にて、アルヴィス伯爵家未亡人エレオノーラ・アルヴィス様へのリンドバーグ商会よりのご融通、ならびに嫁入り祝い品に関わる書面上の贈答関係を、商会の名を以て正式に絶縁申し上げる。書面は顧問弁護士の手にて、本日、先方へ送致した。

 娘よ。以上。——ヘンリック》


 「娘よ」の、その一語だけが、いつもの父の手紙の調子から、ひとり浮いていた。

 私はその「娘よ」を、しばらく、見ていた。

 それから机の抽斗から白い便箋を取り出し、父への短い返礼を書いた。


 ——《お父様、ありがとうございます。——ルシアナ》


 それだけ書いて、それだけで、ちょうど、よかった。


              ◇


 外交書簡の間で顔を上げると、窓の外はもう夕方になっていた。

 リエル王国の王都ヴィルレは丘のうえに築かれた街で、窓から港がよく見える。葡萄畑のむこうに夕日が落ちるあいだに、船が何隻か、奥の泊地へ静かに入っていった。


 扉の向こうから、控えめな叩きかたがあった。

「——伯爵夫人」

 廊下から、声がした。

 このお邸では、私を「外交顧問閣下」もしくは「ルシアナ殿」とお呼びいただくことに、取り決めてある。「伯爵夫人」と呼ぶ声は、このお邸ではおひとりだけだった。


「ヴァルモント公爵。お入りくださいませ」


 ラファエル・ヴァルモントは、書類の束を手に入ってきた。束のまま、私の机の端にそっと置かれる。

「ご報告を、ひとつ」

 彼は言った。

「エステル様の離縁手続きが、本日付にて、成立いたしました。名目は、『外交上の配慮ある離縁』。裁判所にはお出まし無用、書記局への署名のみ。——あなたさまのお取り次ぎによってです」

「……それは、何よりでございました」

「感謝いたします」


 彼はしばらく、私の机の横に立っていた。何か言いかけ、言い出しあぐねていた。気づかぬふりをしていたが、気づかぬふりがそろそろ不自然になってきたので、私は顔を上げた。

「ほかに、何か」

「——ひとつ、お聞きいただけますか」


 彼は窓のほうへ目をやった。窓の外は、あの港の、夕方の、奥の方だった。


「エステルは、吟遊詩人とは、駆け落ちしておりません」


 ……


 私は筆を置いた。


「彼女は数年前、ご実家の筋から、私のもとへ嫁いでまいりました。嫁いだ月のうちに、ある王家のお方が、彼女にご執心になられた。宴でお声をおかけになり、邸への来訪もあった。エステルはいずれも礼儀正しくお受けしておりました。

 ——半年ほどして、彼女は私に、『こちらに残りたくない』と、それだけをお申し出になった」


 彼は、わずかに息を整えた。


「邸のなかで、彼女は次第に、声を立てなくなっておりました。笑い声も、泣き声も、しなくなる。そういう種類の静けさが、邸の内側にひろがってきていた。

 私は、書記局の古い条項を、探しました。——他国に『離縁と同時に滞留できる者』の例として、画家、学芸家の類が、ごくわずかに残っておりました。エステルは、子どものころ、絵を描くのが好きだったと、一度だけ、私に話しておられた。それをもとに、書面を整えました。

 吟遊詩人と駆け落ちしたという形は、社交界が、私への同情で、ひとりでに作り上げたものです。私はそれを、否定いたしませんでした。否定しない、ということが、彼女を、いちばん遠くへ逃がす手段でございましたので」


 彼は窓から目を戻した。


「いま、エステルは、別の国で、絵を描いております。年に一度、短い便りが、参ります」


 ……


 私は、彼の顔を見ていた。

 「同じ目」の意味が、このとき、ようやく、正確に、腑に落ちた。

 彼もまた、かつて、ひとり、静かに、女性を「逃がして差し上げた」側の人間なのだった。そして、「妻に駆け落ちされた男」の肩書を、何年ものあいだ、甘んじて、背負ってきた。


(ああ、このお方は——「静かに負ける」ことを、御存じなのね)


「……ありがとうございます」

 私は、言った。

「話してくださって」

「お聞きいただきたかった、だけです」


 彼はわずかに口角を上げ、そして、下げた。

 机の端に置いた書類の束の角を、指先でもう一度だけそろえ直し、「では」と、下がりかけた。


              ◇


 その晩、エルムブルクから、便りが一通、届いた。

 便箋は、見覚えはある、しかし、しばらく見ていなかった、夫の筆跡だった。


 ——《ルシアナ。

 話したいことがある。日時は、こちらから改めて指定する。お前と、二人で、話したいことがある。——ゴドウィン》


 短かった。

 短い、というより、それしか書けなかったのだろう、と思う。


 私は便箋を閉じ、卓の端へそっと戻した。

 戻すところを、戸口のほうに立っていたラファエルが、目に入れたらしい。

 彼はすぐには何も言わなかった。しばらく、扉の枠に、軽く肩をもたせかけていた。


 それから、静かに、こう申し出た。


「お出かけの折には、もし、お差し支えなければ、ご同行してよろしいですか」


 それだけを言って、彼はそのあと、何も言い添えなかった。

 「心配しているから」でも、なかった。

 「あの男を、許せないから」でも、なかった。


 ——「ご同行」、とだけ、だった。


 私はしばらく、答えなかった。

 答えないあいだに、港の最後の船が、奥の泊地に、着いた。


「……お願いいたします」

 私は、そう答えた。


 小さく頭を下げる動作は、彼のほうが、私より、ほんの少しだけ、先だった。

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