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夫は今夜も愛人のもとにいる  作者: 秋月 もみじ


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第6話 お前の妻は、どこにいる?


「——お前の妻は、どこにいる?」


 扉の向こうで、国王が、そうお訊ねになった。

 夫は、答えなかった。


 扉のこちら側で、私は膝のうえに両手をそろえ、夫の沈黙の長さを計っていた。短くはない沈黙だった。短くないという意味の理由で、国王はお待ちになっていた。

 それが、夫の赤恥の、いちばん正確な形だった。


              ◇


 ——あれは、十日前のことだった。


 リエル王室からの封書が届いたのは、エルムブルク国王召喚状の次の朝である。

 朱赤の隣に、緑の封蠟。

 緑は、リエル王室書記局の色だった。


 ——《エルムブルク伯爵夫人ルシアナ・アルヴィス殿。

 当王室は、貴殿を外交顧問としてお迎え申し上げたく存じます。任期は本書状の署名日より起算し、更新は一年ごとの協議によります。職務内容は別紙の通り、両国間の商業・婚姻・穀物・書面手続きに関わる助言。執務の場所は、リエル王国ヴァルモント公爵邸内、外交書簡の間。詳しい引き継ぎは、ご来訪の折にヴァルモント公爵より口頭にて申し上げる所存です。

 ——リエル王室書記局 宰相シグルド・ラ・ロッシュ》


 正式の任命だった。

 国と国のあいだで、私の名前が、ひとつの役職と並んだ。嫁入りの日以来、書面のうえで自分の名前を見るのは、これが初めてだった。


(「妻」の欄ではなく、役職と並べていただく日が来ましたのね)


 父は黙ってそれを読み、眼鏡を少しずらして、顔を上げた。

「商人にとっては、これは悪い知らせでもある」

「悪い、と申しますと」

「娘が他国の役人となれば、こちらの税関が、付き合いかたを考えはじめる」

 父は笑った。

「だが、それも読めぬ話ではない。行ってきなさい」


              ◇


 エルムブルク王宮の控えの間に入ったのは、召喚状に記された十日めの朝である。

 私は伯爵夫人の黒のドレスを選んでいた。壁には先代王の肖像が掛かっている。肖像画の目は、左にいる者を見下ろしたあと、右にいる者をちらりと見下ろす癖があった。——私の気のせいである。画家はそんな細工はしない。


 呼び出しは順番だった。まず夫ゴドウィンが呼ばれた。私は後、である。その順序を決めたのは王宮の側で、順序そのものが、すでにひとつの答えだった。


 夫は今朝、別馬車で王宮に上がった。同じ書状が別便で夫の書斎にも届いていたはずだ。家令のバートレットが、床に落ちた封書を拾って机に置いた、と母づてに聞いた。夫はその封書を、しばらく手をつけずに置いていたらしい。


 ほどなくして、扉の向こうで、伝声役の低い声が始まった。

 抑揚はしばらく滑らかだった。

 そして、一箇所、滑らかでない場所があった。


 ——《お前の妻は、どこにいる?》


 扉のこちら側で、私は夫の沈黙を数え終えた。


 扉が開いた。夫が退出した。

 夫は、私のほうを見なかった。見ずに通り過ぎ、廊下の向こうへ消えていった。


 次に、私が呼ばれた。


              ◇


 国王の間には、昼の光が斜めに差し込んでいた。

 私は所定の距離で膝を折り、頭を下げた。

「ルシアナ・アルヴィスめ、御召にお応え申し上げます」

「——夫人」

 国王はゆっくり切り出された。声は、穏やかだった。

「リエル王室から、こちらへ正式の挨拶状が届いた。あなたが外交顧問としてかの国にお仕えになる、との内容である。ひとつ伺いたい。これは、ご夫君のご了承を経られたうえでのことか」


(ご夫君は、先ほど、ご了承のお答えを差し上げられませんでした)


「ご了承を求めるご筋のお話ではございませぬ」

 私は頭を下げたまま答えた。

「リエル王室のお申し出でございます。当家のほうから願い上げたご縁ではございません。またこの任命に対しては、当家の名誉を一切損なわずお受けする方途を、すでに取り決めて参りました」


 国王はわずかに身を傾けられた。

「……取り決め、とおっしゃる」

「左様でございます。外交顧問の職にあるうちは『エルムブルク伯爵夫人』の肩書きは名乗らぬこと。リエル王室は私の身分を『中立の書面助言者』として取り扱うこと。両国のあいだの情報は、私の口と手を通しては、一切やりとりがなされぬこと。——以上、書面にて、すでに、お取り交わしを済ませてございます」


 国王は静かに息を吐かれた。

 そしてごくわずかに、口角を上げられた。


「……見事なお手配だ」

「お恐れながら」

「夫は、この件を、存じておるか」

「存じておりません」

「なぜ、お伝えにならなんだ」

「お伝えするだけのお時間を、お目にかけていただけませんでしたもので」


 国王はしばらく、お答えにならなかった。


「——下がってよい」

 やがて、国王はおっしゃった。

「夫人。——よいお取り計らいを」


 私は深く礼をして退出した。

 廊下はゆっくり歩いて戻った。もう、急ぐ必要はなかった。


              ◇


 数日ののち、私はふたたびシルヴァ橋を渡っていた。

 ヴァルモント公爵邸の、外交書簡の間の扉の前で、ラファエル・ヴァルモントが、私を待っていた。

 掌に、真鍮の鍵がひとつ乗っていた。


「こちらを」

 彼は言った。

「あなたがここにいてくださり、私の書類をご覧くださる。それだけでよろしいのです」


 手袋の指先が、鍵の頭に触れて、それから離れた。わずかな触れかただった。ただ、指を離す動作のほうが、触れる動作より、ほんの少しだけ遅かった。

 私は鍵を受け取った。鍵の端には、細い紐がひとつ結ばれていた。結び目の巻き方を、私はすでに知っていた。葡萄の蔓と月の紋章の、端の結び目と、同じ巻き方である。


「——ありがとうございます」

「こちらこそ」

 彼はそれだけ言った。

 それだけで、ちょうど、よかった。


              ◇


 ……おかしい。

 俺の書斎で、なぜ、書類が、こんなにも、溜まっていくのだろう。

 朝、家令のバートレットが、机の端をそろえる。そろえた上に、また、新しいのが乗る。乗るたびに、山は高くなる。高くなるたびに、読めない文字が増える。


 俺は、字が読めないのではない。

 読めないのではないが、——その、書式、というのか、数字の並び、というのか、この種類の帳票を、どの順番で、どの欄に書き写せばよいのか、その、順番のほうが、どうしても、わからない。


 妻が、いれば。

 妻なら、「殿、これはここでございます」と、指を置いてくれた。指の置かれた場所には、もう、数字が見えた。俺は、見えた数字を、書き写すだけで、よかったのだ。


 ……


 王宮で、陛下は、俺を、お見下しになった。

 お見下しになった、と、感じた。なさった、のではない。感じた、のだ。お言葉には、なさらなかった。

 陛下はただ、「お前の妻は、どこにいる?」と、それだけをおっしゃった。

 俺は、答えなかった。答えは、「俺は知らない」だった。それを陛下の前で、口にするわけにはいかなかった。

 言わない代わりに、俺は、沈黙した。

 沈黙しているうちに、陛下は、お答えを、もう、お待ちにならなくなった。


 ……


 なぜ、書いてくれないんだ。


 俺は、べつに、妻を、叱ったことはない。殴ったこともない。怒鳴ったこともない。妻は、書きたがる女だった、はずだ。書きたがる女に、書かせていた、だけの話、ではなかったか。それが、なぜ、いまは、書いてくれないのだ。


 どこかで、怒らせたのかもしれない。

 どの場面で、どの言葉で、怒らせたのか、それが——思い出せない。

 思い出せないが、あの、五周年の朝、俺は、何か、言った。あの台詞が、たぶん、関係している。


 ……何を、言ったか。


 思い出せない。


 呼び戻さなければ。

 呼び戻して、話を、すれば、わかる。

 妻は、きっと、わかってくれる。

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