第5話 穀物は、出荷されません
「娘が、苦労しているので」
父はそれだけ言って、契約書に×印を入れた。
◇
帰国した翌日のことである。
リエル王国での滞在を切り上げ、シルヴァ橋を夜のうちに渡り、エルムブルクの王都に入ったのは朝だった。アルヴィス伯爵家に先触れは出さなかった。夫の屋敷に戻る前に、私は馬車を実家へ向けさせた。
父のリンドバーグ商会は、王都の西区に構える三階建ての石造りの建物である。一階が帳場、二階が帳簿室、三階が父の居室と客用の間。建物のどこからでも、古い麻の匂いと、穀物のかすかな甘さがする。子どものころはこの匂いを嗅ぐと腹が鳴ったものだが、いまはもう鳴らなかった。
父の帳場に入ると、父は筆を握ったまま私を見て、少しのあいだ何も言わなかった。
「——お戻りか」
「ただいま、お父様」
「母は二階にいる」
父は短く言った。
「先に、お前の話を聞こう。坐りなさい」
私は父の卓の前の椅子に腰を下ろした。父は職人のような手つきで、卓のうえの書類を幾枚か、私の見える向きにそろえて並べた。どれもアルヴィス伯爵領との、穀物供給に関する契約書類だった。いちばん厚い一束の最後の頁に、まだ父の署名は入っていない。今月の契約更新分、ということらしい。
「手を、入れますか」
父は言った。
「はい」
父はうなずいた。
うなずいて、契約意思の欄に、×印をゆっくり入れた。ペン先は止めずひきずらず、きれいに交差した。商人の×印だった。
「娘が、苦労しているので」
父はそれだけ言った。
「——それだけでは、商売にならないでしょう」
私はあえて言った。
「それだけでは、お父様のお取引先が、お父様を『情で動く商人』と見なします。値踏みの口実にされますわ」
「よく分かっている」
父はわずかに口元をゆるめた。
「情だけで印は入れぬ。伯爵領のほうが、ここ一年、取引条件に迷惑をかけていた。量の遅配、検印の遅れ、信用状の更新の無断延期。ひとつひとつは小さい。だが小さいものが続けば、契約更新は見送って差し支えない」
「……それが、本当のほうの、理由で」
「娘の件は、添え木だ」
父は言った。
「添え木一本が抜けただけで倒れる契約というのは、もともと柱が腐っている、ということだよ」
父は商人の顔で笑った。
娘の顔で笑わなかったところが、私にはいちばん、ありがたかった。
◇
それから季節がひとつ、そろりと進んだ。
王都の街路樹が黄に染まり、葉を落としはじめる。
アルヴィス伯爵領の小麦は、今年の冬、買い手の数が足りなかった。リンドバーグ商会のほかの中堅商会にも、父はすでに静かに声を掛けていた。掛けかたは、「リンドバーグが降りる先だからやめておけ」ではない。父はもっと抽象的に、「今年の伯爵領の麦は、集荷の手配に少し難がありそうだ」と呟くのだそうだ。それを聞いた同業者が、自分で判断する。判断して、自分で降りる。
誰も、何も、強要はしていない。
領地の小作からは、支払いの遅れについての陳情が、伯爵家に寄せはじめた。
陳情は家令の手元で止まることもあれば、姑の手元で止まることもあった。夫の机まで上がってきた分については、夫がどう処理したかは、——知らない。知らないが、処理はされていない、ということは、次の陳情の頻度で分かる。
これらの情報は、実家の母が、父の帳場の下働きを口実にして、週に一度、私のもとに持ってきてくれた。母は「私は何も知らないことにしていますからね」と言いながら、手紙の束を卓に置き、紅茶を一杯だけ飲んで、帰っていく。
お母様が商会を支えてきたのだと、こういうときに、よく分かる。
夫からは、この一ヶ月のあいだに手紙が何通か来た。全部、開封したうえでそのまま再封し、実家の金庫に入れた。
「離縁は?」
と、母が一度だけ、遠慮がちに尋ねた。
「まだ、時期ではございません」
私は答えた。
「早くに切り出しますと、こちらが慰謝料を支払う側に回されますの」
母は少しのあいだ黙っていた。
「……ルシアナ」
「はい」
「上手に、運んでいるのね」
「上手に運んでいる、というより——」
私は卓のうえの紅茶を見た。
「上手に運んでくださる方が、お隣にいらっしゃる、という言いかたのほうが、正しいかもしれません」
母は紅茶をもう一杯、勧めてくれた。勧めかたに、ひとつ、含みがあった。含みの中身は、ききかえさなかった。
◇
隣国からの手紙は、およそ五日に一度、届いた。
差出人は、はじめから、ヴァルモント公爵ラファエル。
最初の一通は「ご帰国は、つつがなくお済みでしょうか」の、一行だけだった。二通目も短かった。三通目から、中身が入った。
——《マレーナ・フォルゲ嬢の名で発行された借用証文が、いくつかの高利貸の手元にございます。ひとり、ふたりではございません。幾人かの殿方が、それぞれ別々に、彼女を「生涯の約束をした相手」と認識していらっしゃるご様子です。証文の筆跡と日付については、こちらで整理のうえ、別便にてお送りいたします。——ラファエル》
私はしばらく、その手紙を見ていた。
想像していたよりも、ひとりぶん、多い。
返信は、こう書いた。
——《ご提供の件、承りました。こちらからもひとつ、ささやかなご提案がございます。前夫人エステル様のご離縁につきましては、リエル王室の書記局に、「外交上の配慮ある離縁」という名目でお申し入れになる道がございます。貴家とエステル様、双方のお名誉を一切損なわずに手続きを終える案でございます。もしお望みでしたら、私のほうから、リエル王室に仕えておる旧知を通じて、ひとこと筋道をつけさせていただくことも、できようかと存じます。——ルシアナ》
文を送ったのは夕方だった。
送ってから、指先が少しだけ冷たくなったのが、自分でも意外だった。——彼がようやく差し出してくださった手を、こちらから半分握り返す、ということが、私の中では、思っていたより大きな動作だったらしい。
返事は、翌々日に届いた。
——《感謝いたします。お任せしたく存じます。——ラファエル》
短い返事だった。
短さが信頼であることを、私は久しぶりに思い出した。
◇
その翌朝、王宮の使者が、実家商会の門を叩いた。
朱赤の封蠟に、王家の紋章が押されていた。
——《アルヴィス伯爵夫人ルシアナ・アルヴィス殿。
来る十日の後、王宮にてお目通りを賜りたく候。詳細は別紙の通り。
——エルムブルク国王付書記官》
別紙を開く前に、私は封筒を閉じなおし、しばらく卓のうえで指を組んでいた。
父はそれを見て、いつもの商人の顔で言った。
「王宮に呼ばれるほどのことを、お前はしたかね」
「していないから、呼ばれるのでしょう」
私は答えた。
「——していない、というのは、夫の書類を、でございますわ」
窓の外で、街路樹の葉が、もう一枚、散った。




