第4話 家紋の取り違え
夫から「早く帰れ」の手紙が届いた日、私はリエル王国の庭園で、もう一日だけ滞在を延ばした。
手紙は短かった。
——《帰られたし。領地の書類について相談したきことあり。——ゴドウィン》
書類について、ではなく、書類の在り処について、のはずである。夫が自分で書けないでいることを、私に帰らせて口頭で説明させる算段なのだろう。便箋には家紋の封蠟だけが据えられて、宛名と用件を書いた以外に、何もなかった。「息災か」の一行もない。
私は封筒を閉じ直し、旅装の鞄の底に入れた。この国の宿の炉に放り込むような真似はしなかった。品のないことだ。私ではなく、書簡が品を落とす。
それから宿の女主人に、滞在をもう幾日かお願いしたい旨を伝えた。
「お加減が優れないようでしたら、王宮の医師をお呼びいたしましょうか」
「加減はよいのです。ただ、しばらくこちらの空気のなかにおりたく存じまして」
女主人は心得顔でうなずいた。嫁いだ女の顔色を読む術を、宿屋の女主人というものは、どこで身につけるのだろう。
◇
午後、王宮の奥庭を案内された。
建国祭の客人には、祭の翌日から数日、庭園の一角が開放される習いだという。池がひとつ、薔薇の垣がふたつ、奥に白い四阿がひとつ。薔薇は秋の品種で、茶にちかい紅を弁に宿していた。
私は四阿の石段にすわり、指先でドレスの裾を直した。石は冷たく、秋の湿気を吸っている。
「お隣、よろしゅうございますか」
声の主は、私が顔を上げるまえに、もう腰を下ろすかまえをしていた。
ヴァルモント公爵である。
黒の、あるいは紺の、地味な上着だった。襟の銀のピンだけが、前の夜と同じものを留めている。
「どうぞ」
私は少しだけ隙間を空けた。
「昨夜は、少々しゃべりすぎましたわ」
「よく、しゃべっていただけて、助かりました」
ヴァルモント公爵はそう言って、手にしていた書類入れを石段の脇に置いた。
「ひとりで庭を歩いていると、どうしても、考えごとの声だけが大きくなります」
考えごとの声、という言いかたが、私のなかで、ほんの少しだけ跳ねた。そんな言葉で自分のひとりの時間を言い表す男を、私は知らない。
「……お察しいたします」
とだけ、答えた。
「エルムブルクの書類が、屋敷で積まれているのでしょう」
続けられて、私は彼の横顔を見た。
「どうして、そうお思いになります?」
「あなたが昨夜、滞在の延長をおっしゃるか、おっしゃらないかで、迷っていらしたので」
昨夜、そのような話は、していない。
していないはずだった。
「……私の迷いが、顔に出ておりましたか」
「指先に、でございました。杯の持ち手を、握り直していらした」
(気づかれていたのか)
私は、杯を持っていた自分の右手を、膝の上にそっと伏せた。
ヴァルモント公爵はその仕草を目で追わなかった。気づかないふりをしてくださったのだ、と分かるのに、少しだけ時間がかかった。
「こちらで、しばらく、長居してしまいそうですの」
と、私は言った。
「ご主人のお手紙は」
「ございました」
「拝見しなくても、想像はつきます。お読みにならなくてよい類のお手紙でしょう」
「……ええ」
庭園の向こうで、祭のあとの気まぐれな客人なのか、子どもがひとり走っていった。芝が短く揺れて、また戻った。
私たちは、ふたりとも、とくにあとを続けなかった。続けないことが、ちょうどよかった。
◇
宿に戻ったのは夕刻だった。
卓に、エルムブルクの封蠟が押された手紙が一通、私を待っていた。
封蠟は、父のものである。
——《ルシアナ。
旅のさなかに恐縮だが、耳に入れておかねばならぬことがある。
こちらの社交界で、先日、小さからぬ話題がひとつ立った。
アルヴィス伯爵が懇意にしておられるマレーナ・フォルゲ嬢の胸に、先だっての夜会で、金細工のブローチが飾られていた。これをご覧になったご婦人が、意匠を褒めるつもりで手にお取りになり、裏の刻印に、目を落とした。
意匠は、リンドバーグ商会の定紋である。
裏の刻印は、お前の嫁入りに先方の家へ差し上げた、祝いの品の番号のうちのひとつである。
社交界はこの件について、静かな騒ぎかたをしている。誰も口には出さぬが、誰もそのことを忘れてはいない。
商人として、手はすでに打った。
父としては、お前にこうして文を送るくらいしか、できぬことである。
——ヘンリック・リンドバーグ》
便箋を卓に置いた。
窓の外は、まだ明るかった。宿の庭で小鳥が一羽、しきりに跳ねている。
私は、声を出さなかった。
……
嫁入りの祝いとして、父が先方の家——アルヴィス伯爵家——に届けた金細工は、いくつかの品に分かれていた。三品は姑エレオノーラの寝室の飾り棚に収まり、一品は客間の壁に掛けられ、のこり一品は——ブローチだった。
ブローチだけが、見当たらない、と、嫁いで半年目のころに気がついた。
気がついて、尋ねるのをやめた。姑の部屋のどこかにしまってあるのだろう、と思うことにした。そう思うことにした自分のことが、好きではなかった。好きではないので、以来、その件を口にも頭にも出さないでおいた。
——姑エレオノーラが、それを、マレーナに、渡していた。
いつ、渡したのだろう。
なぜ、渡したのだろう。
(なぜ、と問うまでもない)
姑には、「家のため」と言ってことを整える癖がある。
家のため、夫のため、嫁のため。——その並びで、自分の手のうちに落としたいものを選ぶときの、あの顔がある。今朝の朝食で浮かべた微笑みを思い出して、私はようやく腑に落ちた。
……あの微笑みで、渡したのだ。
「うちの大切なお嬢様から、あなたに」
とでも、言ったのだろう。
渡した相手が「嫁の実家の家紋」と知らないと思いこんだか。それとも、知られても構わない、と思ったか。
後者のような気がしていた。姑が最も信じているのは、「家のため」と自分で言えばすべてが整う、という考えかただったから。
父の手紙を畳んだ。
畳んだ指先が、少しだけ、冷たい。
◇
翌朝、王宮の庭園を、もう一度歩いた。
薔薇の垣の前で、ヴァルモント公爵が、昨日の続きのように立っていた。
彼は私の顔を見て、短く言った。
「お知らせが、入りましたね」
「……はい」
「何の、とは、お尋ねしません」
彼は黒の手袋の手を、後ろに回した。
「ヴァルモント公爵」
私は口を開いた。
「昨夜、あなたは『よく似ていらっしゃる』と仰いました」
「申しました」
「私も、同じように思っております」
ひとつ、間。
「ですので」
と、私は続けた。
「いま、あなたのそのお顔が、どんな種類の疲れを抱えていらっしゃるか、私にはわかる気がしてまいりました」
「——よく、お分かりになる」
彼はわずかに口角を上げ、そして、下げた。
「ご提案がございます」
ヴァルモント公爵は言った。
「私もあなたと、同じ目をしております。——手を、組みませんか」
手、という言葉が、胸のなかをゆっくり落ちていった。
何を組むのか。どこまで組むのか。
彼はそこを、語らなかった。
語らないところが、奇妙に、品よく、そして、誠実に響いた。
「……お話を、伺わせていただけますか」
「もちろんです」
庭園の向こうで、秋の鳥が、もう一度だけ跳ねた。




