第3話 あなたは、困っているだけですね
「そのワイン、飲みたくて持っているのではないでしょう」
背後から、低い声が落ちてきた。
回廊の石畳が、ひやりと靴の底を冷やしている。宴の音は大広間のほうから遠い海のように届き、時おり金管の音が夜気のうえで跳ねて消えた。
私は振り返った。
知らない男が立っていた。
背はやや高い。肩は広くない。宴の華やかさには背を向けたような、地味な黒の礼装だった。襟のピンだけが古い銀で細工されている。瞳は夜の色に近い鳶色をしていた。
(このお方のおっしゃるとおりでございます)
手の中のグラスは、押しつけられてからずいぶん経って、もう温くなっていた。
「交換しましょう」
男はすぐ近くの卓に自分のグラスを置き、もうひとつ、私の知らない銘柄の杯を手に取って、静かに差し出した。指先は触れなかった。触れないのが、こちらに選ばせるための指先の置きかた、という気配だった。
「こちらのほうが、あなたに合います」
◇
建国祭の宴は、リエル王国の王宮の大広間で催されていた。
夕刻に宮殿へ到着し、異国の侍女たちに支度をととのえてもらい、案内されるまま広間に入り、正面の王座に礼をし、それ以降、ずっと同じ姿勢で立っていた。
夫は来ていなかった。
今年の招待は、私ひとりであった。ざわつくかと思ったが、広間はざわつかなかった。ざわつくほどには、私はこの国では知られていない。知られていないことのほうが楽だった。
エルムブルクからの他の客人のうち、何人かは昔からの顔見知りだった。
フォンガル伯爵夫人は私の頬に形式のくちづけを落とし、にこやかに言った。
「あら、おひとりで? ご主人は?」
「所用で別行動でございます」
「あらまあ。お寂しくはなくて?」
「寂しくはございません」
フォンガル夫人は少しだけ眉を上げた。この種類の微笑みを、私は見たことがある。姑のそれとよく似ていた。
(この方もまた、気遣いの言葉で手綱を握ろうとなさるのかしら)
夫人は何も言わずに私を兄君に引き合わせ、兄君は私に自分のワインを勧め、私は礼として受け取った。兄君は自分の話をよくしゃべり、私がグラスに唇もつけないうちに別の知人に呼ばれて去っていった。
ワインだけが、私の手のひらに置き忘れられた。
飲まないで持っていると、悪目立ちする。飲むと、頭が重くなる。私はどちらも避けたかった。人のあいだを縫って回廊へ逃れ、そのまま、後ろから声をかけられたのである。
◇
男の差し出した杯を、私はゆっくり受け取った。
彼は私の手からもとの杯を取り、卓に置き、自分の杯を私の手のひらへ、静かに乗せ替える。指先は、やはり触れなかった。
受け取った杯を、ひと口だけ含んだ。
ふわりと、懐かしい匂いがした。
リンドバーグ——父の名のついた商会が、北の山間の小領から独占で買い付けている、葡萄畑の古い蔵のもの。エルムブルクの中でも、父とごく数人の馴染みにしか出回らない銘柄だった。
なぜ、それが、ここに。
なぜ、このお方のところに。
「……美味しい、ですね」
私はそう言うことにした。
「それはよろしゅうございました」
男はほんの少しだけ、微笑んだ。
その微笑みかたが、妙に、嬉しそうではなく、申し訳なさそうに見えた。何かをこちらに仕掛けたことを、半分だけ謝るような。——気のせいかもしれない。
「妻が」
と、男は言った。
「吟遊詩人と、駆け落ちしました」
私は少しのあいだ、男の顔を見た。
男は真面目な顔を装っていたが、視線の端に、小さな笑いの気配があった。その笑いは吟遊詩人に向いたものではなかった。彼自身に向いているように見えた。
「……それは、大変でございましたね」
「大変だったのは、吟遊詩人のほうだと思います」
私はつい、笑ってしまった。
笑ってから、手で口元を隠したが、隠しきれなかった。こんなに素直な笑いかたを、私はずいぶん長いあいだ、自分の顔の筋肉に許していなかった。
「夫は」
と、私も言ってみた。
「今夜も、愛人のところにおります」
言ってから、ずいぶん派手な告白を、初対面の紳士にしてしまったと思った。ふつうなら慌てるところだ。慌てよう、と思って慌ててみたが、うまく慌てられなかった。夜気が心地よすぎたのかもしれない。
男はうなずいた。
「よく、似ていらっしゃる」
私の、だれに?
——彼自身に、だった。
そのときはじめて、男の目を、まっすぐ見た。
鳶色の瞳だった。
そこには、私と同じ種類の疲労と、同じ種類の諦めと、同じ種類の、まだ諦めきれていない余白が、そろって入っていた。
二人ともが、同じ目をしていた。
それが、出会いだった。
◇
「ラファエル・ヴァルモントと申します」
男は襟元に軽く手を当て、名乗った。
リエル王国の公爵位の家名だった。宴の末席にいても知らないはずのない紋章を、私は思い出した。——葡萄の蔓と、月。国境の橋ですれ違った馬車の、曇った硝子のむこうに見たものだった。
あのときの横顔と、いま目の前にある顔が、一致した。
偶然では、もはやない。
けれど、不思議と、怖くはなかった。
怖くないということそのものが、ほんの少しだけ、怖かった。
「ルシアナ・アルヴィスと申します」
私は礼をした。
「エルムブルク伯爵、ゴドウィン・アルヴィスの妻でございます」
言ってから、夫の名を口にして不快にならない自分を、少しだけ珍しく思った。
ヴァルモント公爵は、私の名をくり返さなかった。
くり返さず、ただ、こう言った。
「また、お会いできますか」
——お会いできます、とは、すぐには答えなかった。
答えなくてもよい問いだった。答えを、彼は待っていなかった。ただ、そう言いたかっただけ、のような。
そのことが、奇妙に、誠実に、響いた。
私は杯を、もう一度、唇につけるだけにとどめた。
懐かしい匂いが、また鼻先をかすめた。
宴の音は、遠い海のように、まだ届いていた。




