第2話 書類は、書けません
書類は積もりつづけていた。
書斎の机の右端で、家令が朝ごとに形をととのえる山が日ごとに嵩を増していく。家令は羽根ばたきで表面の埃をひとなで掃い、いちばん上の端を指でそろえ、一礼して退出する。山は崩れない。減らない。ただ礼儀正しくそこにある。
私はその書斎に、入らなくなっていた。
◇
建国祭の返信を家令に渡した午後、主治医に文をしたためた。
目眩がする。針を持つ手が震える気がする——半分は本当で、半分は嘘だった。本当のほうを丁寧に書き、嘘のほうは書かなかった。医師は翌日に屋敷へ来て、脈をとり、眉をひそめ、書き付けを一枚残していった。
——《当分静養のこと。書斎業務は避けられたし》
私はその書き付けを、姑エレオノーラの手もとに届けた。姑はひと目で読み、少しだけ眉を上げ、それから「あら、大変ね」と言った。
「しばらくは奥で、心ゆくまでお休みなさいな」
やわらかい声だった。たしかに、やわらかい声なのだ。その声の中に「書斎に入るな」という気配はなく、書斎に入らなくていい、という気配があった。それだけで姑の中では解釈が勝手に整っていく。奥の間で針仕事をしている嫁は、夫の帰宅を待つ健気な妻として、姑の日記のページに収まる。そういう整いかたである。
結構でございます、と私は思った。
夜、夫が珍しく書斎の灯りを自分でつけていた。食卓で夫は言った。
「そうか。休むといい。お前がいないほうが、俺も集中できるというものだ」
言い終わってから、夫は自分の台詞が気に入ったらしい。杯を軽く掲げ、もう一度同じことを言った。
(三日ほどは、その言葉を覚えていらっしゃるとよろしいのですが)
◇
三日目が来た。
租税報告の期限日である。
報告は十一枚の帳票にまとまる。書式は決まっている。決まっていないのは、数字のほうだった。数字は一年分、私の帳簿の中にある。帳簿は鍵つきの棚にあり、鍵は——今朝から、私の部屋の針箱の底にある。
昼すぎ、家令のバートレットが襖ごしに声を落とした。
「奥様。旦那様が、帳簿のお在り処をお尋ねでございます」
「針仕事の最中ですの」
針山の赤い糸を、ひと針、布に落とす。
「書斎の抽斗に鍵があるはずと、お伝えくださいませ」
「……かしこまりました」
家令の足音はすぐには鳴らなかった。廊下の板が一拍ぶん沈んで、それから遠ざかった。
(抽斗にはございませんよ。昨日、私が動かしましたから)
夕刻、家令が戻ってきた。顔色が行きと違っていた。
「奥様。旦那様は、前年の報告書を写してお出しになる、と」
「前年と同じ数字でですか」
「左様でございます」
私は針を置いた。
「前年と同じ数字を王庁にお出しになれば、ひと月のうちに審査官がまいります。領地監査ということでございます」
「……さようで、ございましょう」
「私が止めに上がるとお思いでしたか、バートレット」
家令は目を伏せた。
「私は止めに上がりません。主治医のお指図でございますから」
それから家令はもう一度、声を細くした。
「奥様。ひと言だけでも」
「今はお休みをいただいております」
家令は何も言わずに下がった。廊下の板が一度だけ鳴った。
◇
翌朝、領地監査の先触れが届いた——らしい。らしい、としか書けないのは、その手の知らせが私の部屋に直接届かないからだ。姑が「あなたは知らなくてよろしい」と微笑んだ。
微笑みの意味が、このごろ少しずつ変わりつつあった。姑は本当に不安なときに微笑む、という癖を、嫁いで五年目にして私は気づいた。気づいてしまえば、あとは見分けるだけである。
夫は書斎にこもるようになった。
食事には出てきた。ただ出てくるだけで、笑わなくなった。笑わない夫は、ずいぶんと別の人に見えた。食卓の向かいに、知らない男が一人、坐っているようだった。
私はその男に、杯をひとつぶん、空けて勧めた。
「どうぞ、お疲れでございましょう」
「……ああ」
夫は何か言いかけて、やめた。そのやめかたの気配だけが、妙に長く卓の上に残った。
◇
七日目の朝、書斎の机は端から端まで紙で覆われていた。
家令が奥の間の襖を、そっと叩いた。
「奥様」
「ええ」
「——恐れ入ります」
頭を下げる小さな衣擦れが、襖ごしに伝わった。
「ご助力を、賜れませんでしょうか」
私は針をそろえ、布にきちんと畳んだ。
顔を上げ、家令の目を見た。
「申し訳ありません、バートレット」
静かに言った。
「今夜、建国祭に出発いたしますの。旅装の支度を手伝っていただけると、助かりますわ」
家令の顔から、血がゆっくりと引いていった。
(——見積もりどおりの日数でした)
◇
出発は夕刻だった。
護衛の馬車が先導し、私の馬車がそれに続く。トランクは二つ。ドレスは三着。首飾りは実家から持ってきたもののうち、地味なほうを選んだ。華やかなものは置いてきた。宴で目立つつもりはなかった。——目立たないつもりも、ない。
街道は雨になった。
予報されていた雨である。馬車の幌のうえで、水の粒が決まった拍子で跳ねる。私は膝掛けをととのえ、窓に頬を寄せた。
——奥様、と呼ばれない時間があることを、私はすっかり忘れていた。
書斎から、食卓から、寝室から、姑の居間から、奥の間から、そう呼ばれなくなるだけで、馬車の中はこれほど静かになる。静かというのは、こういう音のことだったのかもしれない。水の粒が、幌の上を。
馬車は国境に近づいた。
シルヴァ橋という、両国の紋章を向かいあわせに彫り込んだ石橋がある。橋の中ほどで関税の印章を受け、橋を渡り切ればリエル王国に入る。
関税の小屋で馬車が止まったとき、向こう岸から一台の馬車が渡ってきた。知らない紋章だった。葡萄の蔓と、月。
すれ違いざま、向こうの車窓は雨で曇っていた。
曇った硝子のむこうを、一人の男の横顔が、通り過ぎた。
目が合った、とは言わない。合ったら、それはもう偶然ではなくなるから。
馬車は橋を渡りきった。
リエル王国である。
ここから先、私を「奥様」と呼ぶ声は、しばらく、ない。




