表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夫は今夜も愛人のもとにいる  作者: 秋月 もみじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/10

第1話 一,二六四回目の夜


 馬車の車輪が、門扉の向こうで小さくなっていく。

 霧の朝だった。車輪の音が湿った石畳に吸い込まれて、途切れて、また遠ざかる。私はそれを、寝台の中で聞いていた。


「今夜は、遅くなる」

 夫ゴドウィンが姿見の前で手袋を整えていた。指の一本ずつを、ゆっくりと。髪の乱れをひとすじだけ直す。非の打ち所のない朝だった。

「書類は頼めるか。お前にしか任せられない」


 ……ええ、左様でございますか。


「承知いたしました。いってらっしゃいませ」

(今夜も、あの家ですね)


 私は微笑んで、夫を送り出した。窓の内側から。そこから先へ出る必要はなかった。


 結婚五周年の朝である。


              ◇


 書斎に入ると、昨日の夜に私が整えた書類の山が、そのまま机の端に積み上がっていた。

 夫はこれを寝室まで運び、そのまま置いていく。中身は読まない。持ち運ぶところだけが、夫の仕事だった。


 いちばん上の一束を引き抜く。領地改革原稿の清書版である。

 表紙に、署名があった。


 ——《アルヴィス伯爵 ゴドウィン・アルヴィス》


 流麗な筆致だった。ただし、この筆致は私のものである。

 夫の字はもっと丸い。子供のような、はねの弱い字だ。外交儀礼の手紙なら代筆がつく。だが、国王に直接提出する領地改革案を代筆で済ませる貴族はいない。普通は、いない。

 書かれていた。私の手で。夫の名で。


 羊皮紙を光に透かす。右下の隅、紙を漉いた日付の透かし印が浮かんだ。昨日の日付。

 私は白紙を取り出し、ゆっくりと同じ文を書き写した。写しを金庫にしまう。

 五年のうちの、五年分の書類が、この金庫に入っている。何のために続けているのか、自分でもよく分からないまま、続けてきた作業だった。


 ただ、昨日までは、「続けてきた」だった。

 今日からは、たぶん、違う。


              ◇


「あなた、今日が何の日か、覚えていらして?」


 晩餐の席で、姑エレオノーラが杯を持ち上げた。上品に育てられた指の角度だった。

「夫婦五周年でございましょう。家令に言って、上等な酒を用意させましたのよ。お帰りになった殿方を、きちんとお迎えするご準備は?」

「ええ、お母様。滞りなく」

(今夜もお帰りになりません。あなたが、いちばん、ご存知のはずなのに)


「独りの夜にも、慣れたものでしょう」

 姑が微笑んだ。微笑みだった。たしかに、微笑みなのだ。善意のこもった、義母から嫁への穏やかな微笑み。

「息子はあれで忙しい子。領地のことも、王都のことも。だから、あなたのような、賢い奥方が必要だったの」

「もったいないお言葉でございます」

(あなたの息子が忙しいのは、あの家の寝台の上でだけです)


 私は杯の縁を、唇につけるだけで済ませた。

 五周年の酒は、姑の喉だけを通っていった。


              ◇


 夜が来た。

 寝室の窓を細く開けておくと、通りのむこうで馬の蹄の音がする。門を入ってくる音ではない。通り過ぎていく音だ。夫の馬車が、となり通りの小さな屋敷の前で止まり、夫が降り、屋敷の扉が閉まる音まで、ここから聞こえる。——聞こえるように、この窓は作られていない。ただ、慣れると、聞こえるようになる。


 私は記録していた。

 嫁いできた翌月から、ひとりの夜を数えていた。最初は、何のためか分からなかった。理由はなかった。ただ、数が書かれた紙がそこにあると、今夜の私は怒ってもよいことが、誰かに証明されるような気がしていた。


 机の抽斗を開ける。細く折り畳んだ紙が、五年分、重なっている。

 最新のものを開いた。

 千二百六十三、と書いてあった。


 今夜、ここにもう一画を加えれば、千二百六十四になる。

 ペンに手を伸ばしかけて、私はやめた。


 代わりに、紙を蝋燭の火に近づけた。

 炎は、礼儀正しく、紙の端から食べはじめた。


 最後まで燃え切るのを、私は座って見ていた。

 数えることで、私が私を守っていた時代が、終わった、という気がした。

 怒りが消えたのではない。数える必要が、なくなっただけだ。


              ◇


 翌朝、一通の書状が届いた。

 家令が銀盆に載せて差し出した。


 ——《リエル王国 建国祭 招待状/エルムブルク伯爵夫人 ルシアナ・アルヴィス殿下》


 厚手の羊皮紙。銀泥の縁取り。隣国の紋章。

 エルムブルク伯爵家からは例年、夫がひとりで出席する招待だった。妻の同伴は「ご趣味がおありならば」という、やわらかい辞退の形式が常だった。

 今年の宛名は、私ひとりだった。


「奥様、いかがご返信いたしましょう」

「自分で書きます」

 机に向かった。インクの瓶を引き寄せた。


 ——《謹んで、お伺いいたします  ルシアナ・アルヴィス》


 夫の署名は、この返信には要らない。招待は、私個人に届いている。宮廷作法に則って考えれば、夫の許可を取る必要はない。

 ——ない、ということになっている。


 私は返事を家令に渡した。家令は一礼し、静かに部屋を出ていった。


 窓の外では、晴れていた。霧はもう、ない。


 隣国の宴では、どんな顔をしていてもいいらしい。

 ——そう、昔、伯母が言っていた。嫁ぐ前の、春の夜に。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ