第九話 七日目の床は鏡のように
七日目の朝。灰の大迷宮・深層五十一階に、審査の一行が降りてきた。
ギルドマスターのオルトス様。王宮から派遣された監察官。ギルドの鑑定士が三人。そして、白と金の法衣のベルトラン。
五十一階の床を見た瞬間、監察官が足を止めた。
「……これは」
床が、光っていた。
磨き上げられた石畳に蜜蝋が薄く引かれ、壁のランプの灯りを、水面のように映し返している。瘴気の染みは、ひとつもない。継ぎ目の溝まで、白く乾いていた。
鑑定士が瘴気計をかざし、目を丸くした。
「瘴気濃度……ほぼ、ゼロです。浅層の一階より低い」
五十二階も、五十三階も、同じだった。六十階まで、上から順番に。おばあちゃんたちが一階ずつ丁寧に仕上げた床は、どこも鏡のように光っていた。
そして最後に、一行は大聖堂の担当区域、六十階の広間に入った。
そこは、ひどい有様だった。
焼け焦げた黒い床。その割れ目から、じくじくと染み出す瘴気。壁際では、司祭たちが錫杖を構えたまま、疲れきった顔で座りこんでいる。
監察官の眉間に、深い皺が刻まれた。
「ベルトラン司祭。説明を」
「こ、これは……清掃課の連中が、上から瘴気を流してきたせいで――」
「上から流れてくるのは当たり前です。瘴気は水と同じなので」
俺が言うと、おばあちゃんたちが揃って頷いた。
ベルトランの顔が、みるみる赤く染まっていく。それでも彼は、すぐに慈悲深い微笑みを貼りつけ直した。
「……よろしいでしょう。今回は、清掃課の勝ちと認めます。ですが、所詮は一迷宮の、十階層の話。王国全土の浄化は、やはり大聖堂にしか――」
「その前に、ひとつ確認させてください」
俺は作業着のポケットから、二つのものを取り出した。
浅層五階で拾った、大聖堂の紋章入りの小瓶。そして、五十五階の蜜蝋から剥がした、足跡入りの油紙。
「五日目の夜、清掃済みの五十五階に、誰かが濃縮瘴気を撒きに来ました。そのとき蝋の上に残った足跡です。細い踵、爪先に十字の鋲、右の踵だけ外側にすり減っている」
監察官が、油紙とベルトランの足元を見比べた。
儀礼靴の右の踵が、外側だけすり減っていた。
それだけじゃない。靴底の溝に、乾いた蜜蝋の白いかすが、うっすらとこびりついていた。
「蜜蝋って、靴底に入るとなかなか取れないんですよ。普通の石畳の迷宮には、まず落ちてないものなので」
広間が、しんと静まり返った。
「……ちがう。私は、私は命じられただけだ……!」
ベルトランの声が裏返った。慈悲深い微笑みが、焦げた砂糖のように崩れていく。
その手が法衣の懐に伸びた瞬間、金色の光が走った。
アイリスの聖剣の切っ先が、ベルトランの喉元でぴたりと止まっていた。彼の指の間から、割れかけた黒紫の小瓶が、からんと床に落ちる。
「それを割ったら、ここに何が湧くかわかってるでしょう。清掃員さんの仕事を、増やさないでくれる?」
俺は落ちた小瓶を布でくるみ、栓をきゅっと締め直した。
監察官の合図で、王宮の衛兵がベルトランを両脇から押さえた。引きずられていきながら、彼は最後に振り返り、歪んだ笑みを浮かべた。
「勝ったつもりか、清掃員。大聖堂の上には、お前のモップなど届かんほど大きな汚れがある。金の冠をかぶった、な……」
足音が遠ざかり、広間には、焦げた床と、俺たちだけが残った。
ギルドマスターが、長い溜息をついた。
「……勝負は、清掃課の勝ちじゃ。灰の大迷宮の管理は、今後も清掃課に一任する。予算も、わしが王宮にかけあおう」
おばあちゃんたちが、わっと歓声を上げた。グラム課長は、なぜか目頭を押さえて天井を仰いでいる。
アイリスが、聖剣を鞘に収めて俺の隣に来た。
「やったわね、ノエル」
「はい。……でも、まだ六十階が残ってますね」
焦げ付いた床を見下ろすと、アイリスは呆れたように笑った。
「今から、ここを片付けるの?」
俺は懐中時計を取り出した。針は、昼の二の鐘を少し過ぎたところだった。
「焦げ付きは灰汁のつけ置きで、半日かかります。今から仕込めば、定時までに終わりますよ」
「本当に?」
「段取り八分なので」
その日、清掃課は六十階の焦げ付きを全部落として、夕方の五の鐘ぴったりに迷宮を出た。
けれど、帰り道の石畳を歩きながら、俺はずっと考えていた。
五十五階に残っていた、もう一組の足跡。金の冠の鋲を打った、大きな靴。
王国でいちばん高いところにこびりついた汚れは、たぶん、モップ一本では届かない。
それでも、汚れがあるなら、落とすのが清掃員の仕事だ。
――定時の範囲で。




