第八話 床は嘘をつかない
予想どおり、四日目の朝に数字はひっくり返った。
大聖堂の担当区域:瘴気濃度、平均二割減。
ギルド清掃課の担当区域:瘴気濃度、平均六割減。
焼き固められた瘴気の下から、生の汚れがじわじわと染み出してきたのだ。おまけに、上の階から垂れてくる瘴気が、焦げ付いた床にべったりと貼りついて離れない。六十階では、昨夜のうちに瘴気狼が十数匹も湧いたらしい。
掲示板の前で、冒険者たちが今度は別の意味でざわめいていた。
「おい、モップのほうが勝ってるぞ」
「聖なる力ってのは、三日しかもたねえのか?」
けれど、その日の昼過ぎ。五十五階に降りた俺たちは、足を止めた。
昨日、確かに綺麗にしたはずの床が、黒紫に汚れていた。
通路の真ん中に、点々と。等間隔に。焦げた砂糖の匂い。
「……夜のうちに、撒かれたのね」
アイリスの声が低くなった。聖剣の柄を握る手に、力がこもっている。
「ノエル。今夜、ここで張り込みましょう。撒きに来たところを、私が押さえる」
「張り込みは、しません」
「どうして!?」
「残業になるからです」
アイリスが、信じられないものを見る目で俺を見た。おばあちゃんたちが、くすくすと笑う。グラム課長だけは、何かを察したようににやりとした。
「ノエル。お前、あれを使う気じゃな」
「はい。課長、倉庫に床用の蜜蝋、まだありましたよね」
蜜蝋。磨き上げた床の仕上げに薄く塗る、保護用の蝋だ。塗っておけば、汚れが石の奥まで染みこまず、表面で止まる。床を長持ちさせるための、地味な仕上げ作業。
そして、もうひとつ。
薄く塗った蝋は、乾ききるまでの半日ほど、ほんの少しだけ柔らかい。
つまり、その上を歩いた者の足跡を、そっくりそのまま写し取る。
「今日掃除した五十五階と五十六階に、全部蝋を引いてから帰ります。夜のうちに誰かが歩けば、靴の跡が残る。こぼした瘴気も、蝋の上で止まって石には染みこまない。明日の朝、拭き取るのも簡単です」
アイリスは、しばらくぽかんと口を開けていた。それから、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……あなたって、本当に掃除のことしか考えてないのね」
「掃除のことを考えてたら、だいたい他のことも片付くんです」
その日、俺たちは定時ぴったりに迷宮を出た。床には、鏡みたいに光る蜜蝋の膜が一面に張られていた。
◆
五日目の朝。
五十五階の床には、くっきりと足跡が残っていた。
細い踵。爪先に、十字の飾り鋲。右足の踵だけ、少し外側にすり減っている。歩き方の癖まで、蝋は正直に写し取っていた。
足跡のそばには、こぼれた黒紫の瘴気が、蝋の表面で小さな玉になって止まっていた。石には、一滴も染みこんでいない。
俺は布でそれを拭き取り、それから、足跡の部分の蝋を薄く剥がして、油紙に挟んだ。
「証拠、取れましたね」
「ええ。でも、ノエル」
アイリスは足跡の形をじっと見つめていた。
「この大きさ……ベルトランひとりの足じゃないわ。もう一組、もっと大きな靴の跡がある」
言われて、俺も気づいた。十字の鋲の足跡の横に、もうひとつ。踵の広い、重い靴の跡。爪先には、鋲の代わりに、小さな金の冠の模様が押されていた。
グラム課長が、低く唸った。
「金の冠の鋲……大司教以上しか、履くことを許されん靴じゃ」
迷宮の空気が、急に冷たく感じられた。
汚れは、思っていたよりもずっと上のほうまで、こびりついているらしかった。




