第六話 大聖堂の浄化屋
ギルドに戻ると、執務室に先客がいた。
白と金の法衣。整えられた銀の髭。穏やかな微笑み。そして、その足元には――爪先に十字の飾り鋲がついた、細い踵の儀礼靴。
俺とアイリスは、ちらりと目を合わせた。
「おお、ちょうどよいところに。紹介しよう。大聖堂の浄化司祭、ベルトラン殿じゃ」
「お初にお目にかかります。剣姫様のご無事、心よりお喜び申し上げます」
ベルトランは胸に手を当て、優雅に一礼した。その瞬間、ふわりと甘い匂いがした。香油に紛れて、ほんのかすかに。
焦げた砂糖の匂い。
「本日は、ギルドマスター殿にご提案があって参りました。昨今、各地の迷宮で瘴気が増しておりますね。まことに憂うべきことです」
ベルトランは一枚の羊皮紙を机に広げた。
「大聖堂は、王国全土の迷宮を聖なる力で一括して浄化する用意がございます。ついては、ギルドとの専属契約を。費用は年に、金貨二万枚ほど」
「に、二万……!?」
思わず声が出た。清掃課の年間予算は、金貨三百枚だ。モップとバケツと洗剤代と、俺たち三人の給料を全部含めて。
ベルトランは、俺の作業着をちらりと見て、慈悲深そうに微笑んだ。
「もちろん、契約が結ばれれば、モップで床を拭くような古い仕事は不要になりましょう。清掃課の皆さまには、別の職をご紹介いたしますよ」
アイリスの手が、聖剣の柄にかかった。俺はそっと首を振った。ここで斬ったら、証拠ごと消えてしまう。
代わりに、俺は一歩前に出た。
「ベルトラン司祭。ひとつ、伺ってもいいですか」
「何なりと」
「今日の午前中、灰の大迷宮の浅層五階に行かれましたか」
ほんの一瞬。微笑みが、凍った。
けれど次の瞬間には、もう元の穏やかな顔に戻っていた。
「迷宮に? まさか。私は朝から大聖堂で祈りを捧げておりました」
「そうですか。じゃあ、俺の勘違いですね」
俺は、それ以上は何も言わなかった。小瓶は作業着のポケットの中だ。今出せば、知らぬ存ぜぬで押し切られる。汚れは、浮かせてから拭き取るものだ。焦ってこすれば、奥に押し込まれる。
沈黙を破ったのは、ギルドマスターだった。
「ふむ。金貨二万枚の契約となれば、わしの一存では決められん。そこで、どうじゃろう。勝負をしてみんか」
「勝負、ですか」
「灰の大迷宮、深層五十一階から六十階。今いちばん瘴気がひどい十階層じゃ。大聖堂の浄化と、ギルド清掃課。七日のうちに、より綺麗にしたほうに、迷宮の浄化を任せる」
ベルトランは、くすりと笑った。
「司祭二十名の聖なる浄化と、モップ三本の競争ですか。結果は見えておりますが……よろしいでしょう。お受けいたします」
法衣の裾を翻して、ベルトランは出ていった。甘い焦げの匂いだけが、部屋に残った。
扉が閉まると同時に、ギルドマスターが深々と溜息をついた。
「すまんな、ノエル君。勝手に決めてしもうた。じゃが、あやつの尻尾を掴むには、同じ迷宮に潜らせるのがいちばんじゃと思ってな」
「……マスターも、気づいてたんですね」
「伊達に五十年、迷宮の匂いを嗅いどらんよ」
マスターはにやりと笑い、それから真顔に戻った。
「深層十階層を七日。人手も足らん、時間も足らん。正直、無茶を言うておる自覚はある。残業も、ある程度は……」
俺は首を振った。
隣で、アイリスがおかしそうに笑いをこらえているのがわかった。
「マスター。清掃の仕事で、いちばん大事なことって何だと思いますか」
「……何じゃ?」
「段取りです」
俺は、壁に貼られた灰の大迷宮の地図を見上げた。五十一階から六十階。通路の形、水の流れ、瘴気が溜まりやすい窪み。三年間、毎日見てきた地図だ。
「汚れの種類を見て、時間を見て、順番を決める。正しい順番でやれば、掃除は思ってるよりずっと早く終わるんです」
俺は懐中時計を取り出した。針は、夕方の五の鐘の少し前を指していた。
「七日間、残業なしで勝ちます。――というわけで、今日は定時なので帰ります」
アイリスが、とうとう声を上げて笑った。
「ええ。明日から、本気の大掃除ね。先輩」




