第五話 浅層に残された靴跡
灰の大迷宮・浅層五階は、新人冒険者の稼ぎ場だ。スライムと大ネズミくらいしか出ない、明るくて広い通路が続く階層。
その五階の空気が、重かった。
「……ノエル、これ」
「ええ。五階の濃さじゃないですね」
通路の奥へ進むほど、壁や床に黒紫の染みが増えていく。自然に溜まった瘴気は、普通、隅や窪みにゆっくり集まる。水が低いところへ流れるのと同じだ。
なのに、ここの染みは違った。
通路の真ん中に、点々と、等間隔に落ちている。
俺はしゃがみこみ、ひとつの染みに鼻を近づけた。
「何してるの?」
「匂いを見てます。自然の瘴気は、湿った土みたいな匂いがするんです。でもこれは……焦げた砂糖の匂いがする」
「焦げた砂糖?」
「瘴気を煮詰めて、濃縮したときの匂いです。昔、一度だけ違法な錬金工房の後始末をしたことがあって。そのとき嗅いだのと同じだ」
アイリスの表情が、すっと引き締まった。
「つまり、誰かがこれを撒いたってこと?」
「たぶん。こぼしながら歩いたんでしょう。それに――」
染みの横に、うっすらと靴の跡が残っていた。瘴気の上を踏んだせいで、靴底の形がそのまま焼きついている。
細い踵。爪先に、小さな十字の飾り鋲。冒険者の履く鉄底のブーツとは、まるで違う。
「儀礼用の靴ね」
アイリスが低い声で言った。
「式典のとき、聖職者が履くものよ。王宮で何度も見たわ」
そのとき、通路の先から、ぼこり、と泡の弾けるような音がした。
突き当たりの広間に、黒紫の瘴気が沼のように溜まっていた。その表面が、いくつも盛り上がっている。盛り上がりはやがて形を持ち、牙を持ち、赤い目を開いた。
瘴気狼。本来なら、二十階より下にしか出ない魔物だ。
一匹、二匹――七匹。まだ増えている。
「湧き点になってる……! アイリスさん、狼を頼めますか。俺はあの沼を落とします。湧き点を消さないと、いくら斬っても終わらない」
「任せて」
彼女は三角巾をほどき、聖剣を抜いた。
そこから先は、正直、目で追えなかった。
金色の光が走るたび、狼が一匹ずつ霧に還っていく。俺に飛びかかろうとした一匹は、牙が届く前に、首と胴が離れていた。
その隙に、俺は沼の縁に膝をついた。
濃縮された瘴気は、普通の洗剤じゃ落ちない。糖を煮詰めたような粘り。熱で緩む性質。そして、表面に油膜みたいな層がある。
「先に表面の膜を割る。それから熱で緩めて、一気に吸わせる……!」
バケツの聖水に灰汁を倍入れて、火石で温める。膜に布を押し当て、《清掃》を流し込む。
じゅう、と沼全体が鳴った。
黒紫の沼が、端からゆっくりと色を失っていく。盛り上がりかけていた新しい狼が、形になる前にほどけて消えた。
最後の一匹を、アイリスが斬った。
広間の床には、ただの濡れた石畳だけが残っていた。
「……はあ。終わった」
「ノエル、怪我は?」
「ないです。アイリスさんが全部斬ってくれたので」
俺は立ち上がろうとして、沼の跡に何かが光っているのに気づいた。
拾い上げると、それは親指ほどの、割れたガラスの小瓶だった。中に、黒紫の液体がほんの少し残っている。焦げた砂糖の匂い。
瓶の底には、紋章が刻まれていた。
翼を広げた鳩と、十字。
アイリスが、息を呑んだ。
「それ……大聖堂の紋章よ」
俺の脳裏に、昨日の彼女の言葉がよみがえった。
――大聖堂の大司教でも、解けない。
呪いを解けないと言った大聖堂。そして、ダンジョンに瘴気を撒いて回る、大聖堂の小瓶。
「アイリスさん。ひとつ、嫌な予想をしてもいいですか」
「……私も、たぶん同じことを考えてる」
汚す者がいれば、綺麗にする者が儲かる。
清掃員を三年やっていれば、それくらいの理屈は嫌でもわかる。




