第三話 定時退社は譲れません
夕方、ギルドの大広間は祝宴の真っ最中だった。
「深層四十二階、骨竜ヴァルグリムの討伐! 我ら《金獅子の牙》に乾杯!」
酒杯を掲げているのは、金の鎧を着た青年だ。パーティのリーダー、レオンハルト。その横で仲間たちが、悲しげに顔を伏せてみせる。
「ただ、残念な知らせもある。我らが剣姫アイリスは、ボスの呪いを受け……勇敢に、我々を逃がすために――」
「勝手に殺さないでもらえる?」
大広間の扉が開いた。
立っていたのは、裂けた鎧のまま、しかし傷ひとつない肌のアイリスだった。そして、その隣で、モップとバケツを担いだ俺。
大広間が、凍りついた。
「ア、アイリス……!? 生きて……いや、《深淵の黒泥》は、大聖堂でも解けないはずじゃ……」
「ええ。だから置いていったのよね、レオンハルト」
アイリスの声は静かだった。けれど、その青い瞳は、骨竜を前にしたときよりもずっと冷たかった。
「呪いは、こちらの清掃員さんが落としてくれたわ。ついでにボス部屋の瘴気も、床の焦げ付きも、全部」
「せ、清掃員だと? そんな馬鹿な話が……!」
ざわめく冒険者たちの間を割って、ひとりの老人が進み出た。ギルドマスターのオルトス様だ。俺は、入職式以来、初めて間近で見た。
「――それは、本当かね。清掃課のノエル君」
「はい。時間が経った油汚れと同じ要領で、ふやかして拭き取りました」
大広間が、別の意味で静まり返った。
ギルドマスターは長いこと黙りこみ、それから、くっくっと肩を震わせて笑い出した。
「なるほど、なるほど。……グラムの爺さんがいつも言っておったわ。この街が三十年平和なのは、清掃課のおかげだと。わしは冗談だと思っておった」
ギルドマスターの目が、ふっと鋭くなった。
「ノエル君。実はここひと月、国中のダンジョンで瘴気の濃度が異常に上がっておる。自然に溜まる速さではない。まるで、誰かがわざと汚して回っているようにな」
「……わざと、ですか」
「明日、詳しく話を聞かせてくれんか。それと、《金獅子の牙》の諸君。仲間を置き去りにした件については、今から事情を聞かせてもらおう」
レオンハルトの顔から、血の気が引いていった。
俺は懐中時計を見た。
針は、ちょうど夕方の五の鐘を指していた。
「あの、ギルドマスター」
「何かね」
「定時なので、帰ってもいいですか」
大広間の全員が、信じられないものを見る目で俺を見た。ギルドマスターだけが、また腹を抱えて笑った。
「ああ、帰りなさい帰りなさい。明日の朝一番に来てくれればいい」
「ありがとうございます。お疲れさまでした」
モップを担いで、俺はギルドを出た。
夕焼けの石畳を歩いていると、後ろから足音が追いかけてきた。
「ノエル!」
アイリスだった。息を切らして、それでも、どこか吹っ切れた顔をしていた。
「私、決めたわ。《金獅子の牙》は抜ける」
「そうですか。お疲れさまでした」
「それでね」
彼女は胸に手を当てて、まっすぐ俺を見た。
「明日から、清掃課に入れてもらうことにしたの。ギルドマスターにはもう話を通したから」
「……はい?」
「あなたの掃除、私にも教えて。ダンジョンを汚して回ってる誰かがいるなら、斬るのは私の仕事。綺麗にするのは、あなたの仕事。悪くない組み合わせでしょう?」
王国最強の剣姫が、清掃課の新人に。
グラム爺さんの湯呑みが床に落ちる音が、今から聞こえる気がした。
「……わかりました。でも、ひとつだけ条件があります」
「何?」
「残業は、しません」
アイリスは一瞬きょとんとして、それから、声を上げて笑った。
「ええ。定時で帰りましょう、先輩」




